「一つの体となるために」―聖霊降臨節第2主日礼拝―2026年5月31日(日)
聖書:詩編100編1~5節・コロサイの信徒への手紙3章12~16節
説教:佐藤 誠司 牧師
「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章12~13節)
今日は聖霊降臨にちなんで、コロサイの信徒への手紙の御言葉を読みました。皆さんは「教会はキリストの体である」という言葉をよくご存知のことと思います。今日の箇所の15節に「この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」という言葉があります。この「一つの体」というのが、じつは教会のことなのです。教会がキリストの体だということは、私たちはよく聞きますし、言葉の上ではよく承知しているところです。しかし、教会がキリストの体というのは、いったい、どういうことなのかと改めて問われますと、なかなか明確に答えることが難しいですね。
まあ私たちが、ちょっと考えますと、教会がキリストの体というのは、教会がキリストのように罪を犯さないとか、キリストのように愛に満ち溢れているとか、そういうことを連想しますが、そういう連想をして、ふと現実の教会を見ますと、どうでしょう。教会とは決してそんなものじゃない。現実の教会は罪人の集まりであり、いさかいがあったり、争いがあったり、あの人とはどうもウマが合わんというようなことも、しょっちゅうあるわけです。そういう現実の姿を見るにつけ、うちの教会はちっとも教会らしくないとか、世間の集まりのほうがよっぽど教会的だとか、そういう不満が出てくる。そして「教会はキリストの体」という言葉が、なんだか白々しい、絵空事のように思えてくるわけです。
しかし、「教会はキリストの体だ」というのは現実の姿を言い表しているわけではない。事実を言っている言葉です。現実というのは目に見えるのです。しかし、事実というのは必ずしも目に見えるものではありません。ヘブライ人への手紙の中に「信仰とは見えない事実を確認することだ」という御言葉があります。時に「事実」は目に見えないのです。
例えば、神様がキリストによって成し遂げてくださった救いの出来事。これはやっぱり事実以外の何物でもない。しかし、これは目に見えるものではない。この「目に見えない」ということが、じつは大事なのです。パウロは「私たちは目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言いました。ということは、どうですか。私たちの信仰というのは、目で見て信じる信仰ではなくて、見ないで信じる信仰だということなのです。復活の主イエスはトマスに「見ないで信じる人は幸いだ」と言われました。ですから、「教会はキリストの体だ」というのは現実の教会の姿を見て納得することではなくて、これは「教会はキリストの体である」と聖書が語っている。そのことを信じることが大事です。それを信じて教会に生きる。それが信仰の出発点です。それ以外に出発点はありません。
今日のお話の最初に申し上げたように、今日の箇所でパウロは様々な倫理的な勧めを語っていますが、それらは決して個人的な勧めではなくて、じつは教会の交わりを健やかに建て上げるための勧めです。12節と13節に、こう書いてあります。
「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。」
これらの勧めは、じつは、教会の交わりの中で教会員同士の間に起こってくる問題に対して言われていることです。教会には様々な人がいますから、その交わりの中で、じつに様々な問題が起こってきます。そりの合う人ばかりではありません。全く合わない人もいるわけです。そういう場合、私たちは、世間一般の交わりのように、「もうあの人とは、二度と一緒には出来ない」というふうに絶縁することは出来るだろうか。さあ、皆さん、出来るでしょうか。出来ないですね。なぜでしょうか。そう、一つの体とされているから出来ないわけです。
今日の箇所の様々な勧めは、そういう教会の交わりが危機に直面したときに、その危機を乗り越えて、なおも交わりを作っていく。そのための勧めです。そしてそれはどういう意味を持っているかと言うと、この世にキリストを指し示すという意味を持っている。ですから、私たち教会の人間がお互いに交わりを保っているということは、ただ単に仲良くやっているとか、人間同士うまくやっているとかではなくて、その交わりを通してキリストが証しされているのです。15節に、こう記されています。
「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」
招かれて一つの体とされたのは、キリストの平和が私たちの心を支配するようになるためだと言うのです。さあ、「キリストの平和」とは、どういうものなのでしょうか。この「平和」という言葉は、聖書の別の箇所では「平安」とも訳されている大切な言葉です。これは、もともと、旧約聖書の中で神と人との祝福された関係を言い表す言葉でした。シャーロームという言葉です。神様がイスラエルの人々に向かって「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と言われた。あの関係が本当に実現している状態。それがこのシャーロームと言われる平和だったのです。
ところが、このシャーロームの平和が、私たち人間の罪のために破られてしまった。それを、イエス・キリストが十字架の贖いによって、もう一度結び合わせて、まことの平和を実現してくださった。これが「キリストの平和」と呼ばれるものです。
ところが、私たちはこのキリストの平和とそれに基づく祝福が見えてこない、そういうことが、信仰生活の中で、しばしば起こってきます。体の調子を崩したり、家の中で何かいざこざがあったり、仕事が上手くいかなかったりと、世間の人と同じような嫌な経験をするわけです。そのときに、私たちが神様の溢れるような祝福の中に置かれているとは、なかなか実感することは難しいです。
しかし、どうでしょう。イエス・キリストが十字架にかかって完全な贖いを成し遂げてくださったというのは事実ですね。そして、そのキリストの御業によって私たちが揺らぐことのない祝福の内に入れられているというのも事実です。そのことは私たちにもよく分かる。では、いったいどこが問題なのでしょうか。さあ、皆さん、何が問題なのでしょう。それは、この救いの事実が私たちの心を支配していない、あるいは支配するところまで至っていない。そのことが問題なわけです。だからパウロは「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と言うわけです。支配といっても権力による支配ではありません。福音を絶えず聞かされていく中で、目に見える現実を超えて、目に見えない事実、キリストが生きて働いておられるという事実が、私たちの心を平和の内に支配していくのです。
皆さんは、主イエスが十字架につけられる前の晩に弟子たちの足を洗い清めてくださったお話をご存知のことと思います。あのときイエス様は一人一人の足を順番に洗ってくださったのですが、ペトロが「先生に足を洗っていただくなんて、もったいない」と言います。まあ弟子としては当然の思いですね。足を洗うという行為は奴隷の行為ですから、ペトロの言ったことは誰にでも理解することが出来るでしょう。
ところが、そのような世間並みの常識の中で信仰生活をしていますと、このときの主イエスのお心というものが皆目分からない。あのとき、イエス様はペトロに何と言われたでしょうか。そう、非常に厳しい口調で「わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもなくなる」と言われました。なぜでしょうか。
足を洗うというのは一回こっきりのことではないのです。毎日のことです。主人が帰ってきたら、奴隷は毎日、当然のように主人の前に屈み込んで足を洗い、拭います。何も特別のことではない。日々の務めなのです。これが、じつは教会の交わりの根底にある秘密です。どういうことかと言いますと、教会というところは、私が頑張って何か凄い働きをするというところではないのです。なにせ罪人の集まりですから、罪人が自分の思いを通そうとしたらぶつかり合って、交わりも崩壊してしまいます。しかし、教会の交わりは、そうはならない。なぜですか。キリストが毎日、私たちの足を洗ってくださるからでしょう?
さあ、主イエスにそう言われて、ペトロはどうしたかと言いますと、ここは大変にペトロらしい言葉が出て来ます。彼はこう言ったのです。
「主よ、それなら足だけでなく、手も頭も。」
これも気持ちとしてはよく分かる言葉だと思います。もう手も頭も、全身洗って頂きたいと思うのは、むしろ当然でしょう。しかし、主イエスは意外な答えを返されます。「あなたは既に全身を洗ったのだから、足だけ洗えば良いのだ」とおっしゃったのです。この「既に全身を洗った」というのは、何を表しているでしょうか。皆さんは何のことだと思われますか? そう、洗礼のことなのです。ということは、これはペトロだけではない、私たちをも含む、すべてのキリスト者のことを言っておられるということです。
では、足が汚れるとは、どういうことでしょう。これはもう、私たちが胸に手を当てて振り返ってみれば、分かることです。教会生活の中で「やってしまった」ということが、やっぱりある。言葉が過ぎたり、人に優しく出来なかったり、失敗したり、悔いが残ること、みっともないことが、我ながら多いです。これが足が汚れるということです。この汚れた足は、自分で洗い清めることは出来ません。必ず誰かに洗ってもらわなければならない。そんな私たちの足を、イエス・キリストは洗ってくださるのです。
主イエスは「あなたがたは全身が清いのだ」と言われましたが、私たちはそのことを実感出来るでしょうか。しかし、私たちが主イエスの十字架によって既に清い者とされているというのは、私たちが実感出来るか出来ないかのレベルのことではなくて、事実なのです。この事実を信じることが大切です。福音を聞き続けることによって信じるのです。そして、主イエスの言葉は、ここでは終わらず、さらにこう言われます。
「わたしがあなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい。」
キリストが私たちの足を洗っていてくださる。そのことが本当に分かったときに、私たちが互いに足を洗い合うという具体的な行為が生まれてくるわけです。これと同じようなことを、パウロは今日の箇所で述べております。13節に「互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい」とあります。まあこれだけなら、私たちが日頃聞く世間一般の道徳とあまり変わりが無いのですが、パウロはさらに続けて、こう言っております。
「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」
主が私たちを赦してくださったという、この大きな事実の上に、初めて、互いに赦し合うということが出来るわけです。そして、このことが教会の交わりの中で起こるときに、見えないはずのキリストが教会の中に見えてくる。そういうことが起こってきます。「教会はキリストの体である」ということが、見える事実として現れてくる。そういう約束が教会には与えられているのです。主イエスは十字架につけられる前に、弟子たちに向かって、こう言われました。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。そうすれば、この世はあなたがたがわたしの弟子であることを知る。」
イエス・キリストが教会を御自分の体とされたことは、教会の中に何もトラブルが無いということではありません。そうではなくて、そういう人間に絶えずつきまとっているトラブルやいさかいを、キリストの救いの事実によって乗り越えて行く。そのことを通して、また、キリストの救いというものが、どういうものであるかということが目に見えて現れて来る。そこにこそ、教会の交わりの秘密があると思うのです。
私たちの教会は今、ふさわしい教師を迎える備えの時を過ごしています。この貴重な時を無為に過ごさず、今日の聖書のメッセージを心に刻んで、福井神明教会はキリストの体であると、感謝をもって言うことが出来る。そうして新しい教師を迎えていただきたいと願うものです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
5月31日(日)のみことば
「その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう。しかし、主はその日、あなたがたに答えてはくださらない。」(旧約聖書:サムエル記上8章18節)
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(新約聖書:ルカ福音書20章25節)
今日の新約の御言葉は、一度聞いたら忘れられない御言葉であると思います。それだけに、いつも心のどこかに引っかかっている御言葉でもあろうかと思います。聞き流すことの出来ない言葉なのです。この御言葉も、論争の中で生まれました。しかし、その論争は、お世辞のも真面目な論争とは言いがたい。真剣な議論がぶつかり合った論争ではないのです。主イエスを陥れようとする人々が送り込んだ回し者が論争を装って仕掛けた罠なのです。ですからこれは真剣な論争ではない。偽りの論争、不真面目な論争と言って良い。ところが、主イエスは、この論争の不真面目さを見抜きながら、大変真剣にお答えになった。それが今日の御言葉です。
エルサレムでは、すでに主イエスを陥れて、訴える機会を伺っている人々が多数いたようです。その人々が主イエスの言葉尻を捕らえるために、正しい人を装う回し者をよこしました。彼らは主イエスにこう尋ねます。
「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
明らかにこれは、主イエスを陥れるための罠です。主イエスも、この罠に気付いておられたでしょう。しかし、主イエスは、それを承知の上で、お答えになった。あなたがたは栄光を神に帰しているかと問われたのです。
