「自由な人となるために」―聖霊降臨節第1主日礼拝―2026年5月24日(日)

聖書:イザヤ書44章21~22節・コリントの信徒への手紙一7章17~24節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のようにかき消した。私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ。」(イザヤ書44章21~22節)

「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときのままの状態で歩みなさい。これは、すべての教会で私が命じていることです。割礼を受けている者が召されたのなら、その痕を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の戒めを守ることです。」(コリントの信徒への手紙一7章17~19節)

 

今日はこのあと行われる洗礼式にちなんで、第一コリント第7章の御言葉を読みました。キリストの福音がユダヤから海を渡って地中海沿岸に伝えられた時、地中海沿岸の一帯はほぼすべてローマ帝国の支配下にありました。従いまして、福音はローマ帝国に浸透していったことになります。ローマ帝国の栄光。それは奴隷制度によって支えられたものでした。奴隷たちの血と汗と涙が、自由人たちの優雅な生活を支えていたのです。そこにキリストの福音が伝えられた。最初に信じたのは、誰であったでしょうか? 金持ちの自由人だったか? 優雅な貴婦人たちであったか? それとも華やかな将軍たちであったか? 違います。ローマ帝国で最初に福音を信じ、そこに救いを見い出したのは、彼らに仕えていた名も無い奴隷たちだったのです。

奴隷の人生というのは、主人次第です。主人の心のままに奴隷たちは命をささげた。残忍な性格の主人もいたことでしょう。冷酷な主人もいたに違いありません。しかし、奴隷たちは文句の一つも言えなかった。主人の心のままに命をささげる。それが奴隷の生き方だったからです。死ねと言われれば命を差し出すしか道は無かったのです。だから、彼らの運命を決定するのは、彼ら自身の意思ではなく、主人の心だったのです。

そんな奴隷たちがキリストの福音と出会いました。当時はまだ新約聖書はありませんから、伝えられたのは旧約聖書です。パウロやペトロといった初代キリスト教の伝道者たちは、今の旧約聖書をキリストを証しする書物として伝えたのです。詩編が奴隷たちの心を捉えました。

そしてもう一つ、奴隷たちの心を捉えた書物がイザヤ書でした。どうしてイザヤ書の言葉が彼らの心を捉えたのか? それは実際にイザヤの言葉を読んでご覧になると良いと思いますが、この書物は神を「まことの主人」として、それを格調高い言葉で語るのです。

「ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のようにかき消した。私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ。」

この最後に出て来る「贖う」というのは「代価を払って買い取る」ということです。元々は奴隷の売り買いの場面で使われていた言葉です。それをイザヤは神と人との関係を言い表すために用いたのです。そしてパウロがそれを受け継いで、さらに鮮明に父なる神とキリスト者との関係を言い表しました。それが次の言葉です。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

この言葉に、奴隷身分の人々は驚いたに違いありません。神様が代価を払って自分たちを買い取ってくださった。神様が自分たちの主人になってくださったのです。しかも、支払われた代価とは、神の独り子イエス・キリストの命だったのです。自分たちは主イエスの命と引き換えに、神の者としていただいた。奴隷たちの驚きは、いかばかりであったろうと思います。

しかし、やがて奴隷たちだけでなく、自由人と言われる人々も、福音を信じてキリスト者になっていきました。当然、教会の交わりの中に奴隷と自由人が混在することになります。

また奴隷と自由人の別のほかにも、ユダヤ人とギリシア人の別も深刻な問題として教会の中に横たわっておりました。ユダヤ人は男性は必ず割礼を受けています。そこで、ギリシア人も救われるためには割礼を受けるべきか否かが問題になったのです。このような問題をはらむコリント教会の人々に、パウロは言います。

「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときのままの状態で歩みなさい。これは、すべての教会で私が命じていることです。」

召されたときのままで歩みなさいとパウロは言うのです。同じ表現が20節にも出て来ます。

「おのおの召されたときの状態にとどまっていなさい。」

24節でも、パウロは同じ表現を使っています。

「きょうだいたち、おのおの召されたときの状態で、神の前にとどまっていなさい。」

召されたときの状態で。どうやらこれはパウロのお気に入りの表現らしいのです。さあ、召されるって、どういうことでしょうか? じつは、この「召される」という翻訳は意訳でして、聖書のもとの言葉は、もっと単純な言葉です。名前を呼ばれるという意味の言葉なのです。神に選び出され、その名をもって呼び出される。これが本来の意味です。この言葉は、じつは当時の洗礼式と密接に関わる言葉です。

今もそうですが、洗礼を授ける際に、司式者は必ず洗礼志願者の名を呼びました。あれは単に名前を呼んで本人確認をしているのではありません。呼び出している。神の前に呼び出しているのです。それまで、その人がいた場所から、呼び出して、神の前に立たせるのです。実際に洗礼式で名を呼ぶのは牧師ですが、本当は神ご自身が名を呼んで、ご自身の前へと呼び出しておられるのです。

洗礼を受けたときのことを思い起こしてみてください。必ず名前が呼ばれたはずです。「何々さん」というふうに、さん付けではなく、敬称や身分を付けることもなく、いわば呼び捨ての形で、名前だけが呼ばれたはずです。あれは呼び出しているのです。神様が名前を呼んでくださって、ご自身の前に呼び出しておられる。「ここがあなたの本当の居場所なんだよ」と言って、神様ご自身が私たちの場所を作ってくださったのです。そして、「もう二度と、ここから離れるんじゃないよ」と言ってくださった。だから、パウロは、最後にこう言うのです。

「兄弟たち、おのおの召されたときの状態で、神の前にとどまっていなさい。」

神の前なのです。ところで、名を呼ぶという営みは、父親の仕事だったということを、皆さん、ご存知でしょうか? マタイ福音書1章のクリスマスの物語に、こんなお話が出て来ます。ヨセフと婚約していたマリアのおなかが大きくなった。聖霊によって神の子を身ごもったのですが、ヨセフはそれを知りません。そこで彼は密かにマリアとの婚約を破棄しようとします。その時、夢の中に天使が現れてヨセフにこう告げるのです。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。」

名づけなさいと天使は言ったのです。あれは、名を呼べということです。父親になれということなのです。どういうことかと言いますと、赤ん坊が生まれると、父親がその赤ん坊を抱き上げて、名前を呼んだ。これによって彼は、自分がこの子の父親であると表明したことになるのです。じゃあ、父親に抱き上げられることなく、名前も呼ばれなかった子供は、どうなるのか? ヨハネ福音書の14章18節にイエス様が十字架につけられる前の晩に弟子たちに語った言葉が記されています。

「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。」

あの「みなしご」というのが「父に名を呼ばれない子」という意味なのです。父親に抱き上げられもせず、名を呼んでももらえない子は、どうなったか? 捨てられたのです。捨てられた子の多くは、拾われることもなく、そのまま、いたいけな命を路上で終えました。しかし、いつの間にか、教会の前に赤ん坊が捨てられるようなった。いつの世も、我が子を捨てる親の思いは一緒です。せめてこの子が拾ってもらえそうな場所、命ながらえることの出来そうな場所に願いのすべてを託して、涙ながらに我が子を捨てたのです。

しかし、拾われた赤ん坊の肉体は、すでに蝕まれており、余命いくばくもないことが多かったようです。そこで教会の人々は、赤ん坊が死んでしまう前に、大急ぎで抱き上げ、名を呼んで、洗礼を授けました。イザヤ書の言葉が読まれました。

「恐れるな、私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。あなたが水の中を通るときも、私はあなたと共におり、川の中でも、川はあなたを押し流さない。炎の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎もあなたに燃え移らない。私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」

これが幼児洗礼の始まりとなりました。名前も解らない幼子を呼ぶために、洗礼名という、もう一つの名前が生まれました。そしてこれが、やがて、幼児だけではない、キリスト者の原点となりました。

キリスト者の原点。それは神が父として私たちの名を呼んでくださり、愛をもって抱き抱えてくださって、新しい人生をここで生きよと言ってくださることです。さらにパウロは割礼の有無についても語ります。

「割礼を受けている者が召されたのなら、その痕を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の戒めを守ることです。」

パウロの時代、割礼の有無は大変に大きな問題でした。ご存知のようにユダヤの人々は男子はすべて割礼を受けます。それが神の民の一員となったしるしだったのです。割礼が無いことは、神の家族であるしるしが無いことでした。ですから、ユダヤ人のキリスト者は、異邦人のキリスト者に対して、割礼を受けることを勧めたのです。

しかし、パウロはこれに明確に反対しました。パウロによれば、人はただキリストを信じる信仰によって救われるのであって、割礼の有無は関係ない。割礼が神の家族のしるしなのではない。神の戒めを守ること。それだけが神の家族のしるしなのだとパウロは言うのです。さあ、では神の戒めとは、いったい何か? ヨハネ福音書の言葉が思い起こされます。

「(私は)あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」

新しい神の戒めとは、これだったのです。主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合う。愛し合い、支え合って生きていく。これが代価を払って神に買い取られた者に与えられた新しい生き方です。

「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。きょうだいたち、おのおの召されたときの状態で、神の前にとどまっていなさい。」

さあ、今日の聖書の箇所は、私たちに何を語るのでしょうか? 今の日本には奴隷制度はありませんし、割礼の問題もありません。ならば、今日の箇所でパウロが語っていることは時代錯誤の的外れなことなのでしょうか? 私はそうではないと思う。

私たち一人一人の名前を、今も神様は呼んでおられます。それは洗礼を受けた時だけではないはずです。召されるとは「名を呼び、呼び出す」ことなのだと申しました。ただ呼ぶだけではない。呼び出すのです。私の前にはあなたが必要なのだと言って、呼び出しておられるのです。この招きに応えて、常に神様の前に立ち返る。それが、今私たちが守っている礼拝です。招きに応えて、常に礼拝に立ち帰る。それが私たちの本当の生き方ではないでしょうか。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

5月24日(日)のみことば

「主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。」(旧約聖書:詩編30編4節)

「ここのユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」(新約聖書:使徒言行録17章11節)

興味深いことに、初代教会で詩編は主イエス・キリストの御業を映し出す福音書として読まれていました。当時はまだ福音書は成立していません。しかし、主の福音を宣べ伝えるためには、主イエスの御業を物語り、主の御言葉を語り伝えることがどうしても必要になってきます。そこで、初代教会の人々は詩編の中に主のお姿を映し出す言葉を発見し、そこから主イエスの御業を読み取り、主の御声を聞き取ったのです。パウロたち初代教会の伝道者はまず何を措いても、主イエスの復活を語りましたから、彼らは詩編から復活のメッセージを取り次いだことになります。

今日の使徒言行録の御言葉は、パウロが詩編から主イエスの復活を解き明かすのを聞いた人々が、驚きのあまり、本当にそのとおりかどうかと、詩編を毎日調べていた様子を伝えています。彼らの驚きと感動が伝わってくる表現です。

今日の旧約の御言葉の詩編30編も、パウロたちが主イエスの復活の御業を読み取った詩編です。こんな言葉がありました。

「主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、私に命を得させてくださいました。」

パウロたちは、これをどう読んだか? 主イエスは御自分だけが復活されたのではない。御自分を信じる者の魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、永遠の命を得させてくださる。主イエスはまさに私たちの初穂として復活してくださった。これこそパウロたちが語った復活のメッセージだったのです。