「主の平安の中を行く」―復活節第7主日礼拝―2026年5月17日(日)

聖書:詩編107編23~32節・マタイによる福音書8章23~27節

説教:佐藤 誠司 牧師

「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、『一体、この方はどういう人なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った。」(マタイによる福音書8章26~27節)

 

マタイによる福音書が伝える嵐を鎮める主イエスの物語を読みました。聖書に親しんでおられる方ならお気づきかと思います。福音書の前半は、主イエスがガリラヤにおられた頃のお話が多いのですが、中でも私たちの心を捉えるのが主イエスと弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖を行くお話です。舟とは言っても、立派な大型船ではありません。一人、二人が操る小舟に乗って、ガリラヤ湖の向こう岸を目指すお話や嵐を鎮めるお話が私たちの心を捉えます。

今日の物語も、その一つです。イエス様と弟子たちが、おそらくこれも小さな舟なのでしょう。舟に乗ってガリラヤ湖を進みます。「湖の向こう岸に渡ろう」という主の言葉と共に舞台はガリラヤ湖を進む舟の中に変わります。なぜ、舟に乗る話が多いのでしょうか。じつは古来、教会は舟に譬えられてきたのです。教会の礼拝堂の会衆席のことを英語で<NAVE>と書いてネイヴといいますが、これは船の中で一番広い床という意味がありました。ネイヴなどという単語は英語圏の国でも今はあまり使われないでしょうが、そこから生まれたナビゲーションとかナビゲーターという言葉は、今や日本語としても通じるほどです。

どうして教会が舟に譬えられたか? その理由の一つは、おそらく、創世記のノアの箱舟にあるのでしょう。堕落したこの世の人々を滅ぼす決意をなさった神様がノアとその家族に目を留めて箱舟を造らせる。その箱舟にノアは神に命じられたとおりに、すべての命あるものを導き入れる。やがて天の窓が開かれて、嵐が地上を襲います。罪に堕落した人々は洪水によって拭い去られ、滅ぼされます。しかし、ノアとその家族、そして舟に導き入れられた動物たちは生き延びるのです。この物語の故に、教会は舟に譬えられたと見ることが出来る。

しかし、この物語故に昔の人たちが教会を舟に譬えたのだとすれば、それはなかなかに意味深長なところがあると言わざるを得ません。なぜなら、洪水は堕落した人々を滅ぼしたのちも、なおも止むことなく、箱舟を翻弄し続けたからです。いや、見方を変えれば、嵐と洪水は、むしろ箱舟を翻弄するためのものだったのかも知れません。その中で、ノアたちは神への信頼を練り上げられていったのです。

舟に乗りますと、不安が募ります。足元がグラリと揺れる。不安定なのです。嵐と洪水の中だと、なおさらです。その中で、ノアたちは、自分たちが神様によって生かされていること、守られていることを嫌と言うほど、知らされたのです。

そしてもう一つ、教会をノアの箱舟に譬える理由は、箱舟には推進機関が無かったという点にもあるのでしょう。エンジンやモーターが無いのはもちろんのこと、人力の動力も無かった。ノアたちは、箱舟を漕いだのではなかった。つまり、箱舟という舟は、どこかを目指して自ら進んだのではない。自分たちの定めた行き先を目指して、自ら舟を操ったのではない、ということです。神様の導きに、身を委ねたのです。では、神の導きは、どこにあったかと言うと、箱舟を翻弄して止まなかった、あの嵐と洪水の中にあったのです。これは大変に示唆に富むことではないでしょうか?

さて、このようなことを心に留めて、23節からの物語を読むと、どうでしょうか? 場所はガリラヤ湖。ある日のこと、主イエスが弟子たちと共に船出をした。すると、舟が渡って行くうちに、いつしか主イエスは眠ってしまわれたのです。一番弟子のペトロをはじめ、弟子たちの中にはガリラヤ湖で働く漁師が何人もいましたから、彼らには舟を操る自信はあったでしょう。主イエスが眠っておられるのを見ても、彼らには不安は無かったと思われる。いや、むしろ、このときばかりは、自分たちがイエス様をお乗せして向こう岸にお連れするのだという気概があったのではないかと思います。

ところが、雲行きが急変して、突風が湖に吹き降ろしてきた。大波が舟を飲み込もうとした。山から湖に突風が吹き降ろすことは、ガリラヤ湖ではしばしばあったようです。この突風によって、普段は穏やかなガリラヤ湖は表情を一変させるといいます。このときの突風が、まさにそうでした。先ほどまでの穏やかさと打って変わった表情の湖がそこにありました。大波が口を開けて舟を飲み込もうとしています。弟子たちは恐怖に捕らわれた。見ると、主イエスはまだ眠っておられるではないか。なぜ、このようなときに、眠っておられるのか。弟子たちには、先ほどの余裕は、もうありません。彼らの目には、眠っておられる主イエスは何の役にも立たない存在に見えたでしょう。

弟子たちにとって、眠る主イエスは、働いておられない、ということです。そこにおられるけれども、働いてはおられない。何の役にも立たない。無きに等しい存在です。今日の物語の急所の一つは、ここです。主が共におられることは分かっているのです。しかし、主イエスは何もしてくれないではないか。無力ではないか。何の役にも立たない主イエスがおられる。どこにおられるのか? 共におられるのです。彼らと共におられる。なのに、不安で不安で、仕方がないのです。このときの弟子たちの心は、嵐に翻弄される舟よりも、なお激しく揺れていたと思います。

さあ、そうなりますと、もうやることは、一つです。弟子たちは、恐怖のあまり、主イエスに駆け寄って、主イエスをたたき起こして「主よ、助けてださい。このままでは死んでしいます」と叫びます。すると、主イエスは起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になったと書いてあります。主イエスは弟子たちのほうを向き直って、こう言われる。

「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」

これは、明らかに弟子たちの不信仰を叱っておられる言葉です。もし、あなたがたに、からし種ほどの信仰があったならば、私をたたき起こしたりはしなかったであろう、ということです。弟子たちは恐怖に駆られて、主イエスをたたき起こしました。なぜ、よりによって、こんなときに寝ておれるのですかと心の中でなじりつつ、たたき起こした。そこに主イエスは、弟子たちの不信仰を見ておられる。つまり、弟子たちは信じているからイエス様をたたき起こしたのではない。信じていなかったから、たたき起こしたのです。弟子たちの叫び声は、彼らの不信仰を露呈した言葉だったのです。

しかし、どうでしょう。ひょっとして弟子たちのこの不信仰は、私たちが抱えている不信仰をそのまま映し出したものではないでしょうか? 私たちキリスト者は日本という国にあって、しばしば、我々の信仰は御利益信仰ではないと言います。確かに、それはそうなのです。見返りを期待して献金や奉仕をすることはありませんし、まして家内安全や合格祈願の願をかけたりも致しません。初詣に急ぐ人々の波を見ながら、私たちはそういう御利益で信じているのではないと思ったりもします。

しかし、そうは言いながら、自分の信仰生活の中では、けっこう神様に対して、イエス様に対して、ささやかな不満を抱いているのではないでしょうか? こんなに大変な思いをしているのに、何もしてくれないではないかと心の中でちょっぴり不平を募らせる。神様は何をしておられるのか、イエス様は眠りこけておられるのではないかと、つい思ってしまう。イエス様をたたき起こした弟子たちと、どこか似ています。

しかし、主イエスは不信仰な弟子たちの叫びを無視されたでしょうか? そうではなかったですね。恐怖のあまり叫んだ、その叫びに応えてくださったのは、やはり主イエスを措いてほかにはなかったのです。これは私たちが肝に銘じておくべき一点であろうと思います。主イエスというお方は不信仰の叫びを軽んじられないのです。

彼らは信仰が薄かったから、駆け寄って主イエスをたたき起こした。不信仰の叫びを上げざるを得なかったのです。しかし、この不信仰の叫びを、主イエスは真正面から受け止めてくださるのです。だから、主イエスに向かってなら、不信仰を隠すことなく、不信仰の祈り、不信仰の叫びを上げることが臆面もなく、出来る。「臆面もなく出来る」という表現は、ひょっとして日本語としては間違った言い方かも知れません。しかし、福音のダイナミズムというのは、時に正統的な日本語の表現を曲げてでも表現せざるを得ない威力があるのではないかと思います。「臆面もなく出来る」というのも、そうです。私たちは、主イエスに向かって不信仰の叫びを、子供のように臆面もなく上げることが出来る。これが案外、正直なキリスト者の姿なのではないでしょうか?

しかし、主イエスが弟子たちに言われた一言の持つ意味を、私たちは聞き流すわけにはいかないでしょう。なぜなら、この言葉は、弟子たちのみならず、私たちにも向けられている言葉だからです。

「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」

もし、弟子たちに信仰があったなら、おそらく彼らは主イエスをたたき起こしたりはしなかったでしょう。眠っておられる主イエスを見ても、何の役にも立たない存在だなどとは思わなかったに違いありません。無力だとも思わなかったでしょう。もし、彼らに、信仰があったなら、主イエスをたたき起こすことなく、むしろ黙々と舟を漕いだでしょう。プロの漁師に徹したことでしょう。その意味では、信仰の無い一般の漁師と、なんら変わることが無いかもしれない。ただ一点を除いて。さあ、その一点とは何でしょうか? 主が共にいてくださることが、分かっている、という一点です。じつはこの一点だけが、キリスト者と他の人々とを分け隔てる一線なのです。嵐の中で黙々と舟を漕ぐ。それは信仰のない人達もやっていることです。しかし、主が共にいてくださる、その一点を弁えて舟を漕げるか否か。その一点に信仰は現れるのかも知れません。

イエスというお方は、嵐の中でさえ平安に眠っておられます。それは主イエスこそ、真の意味で嵐を静めることがお出来になるからです。そのような主が共にいてくださるのです。これは私たち一人一人の歩みであるばかりでなく、教会の歩みでもあります。私たちの教会は舟なのです。順風満帆の中を行く舟ではありません。嵐の中で導かれ、守られて進む。嵐の中でこそ、主が共にいてくださることが分かる。主に全幅の信頼を置いて、まことの平安の中を共に歩むことが出来る。そのような幸いな歩みを、この礼拝からまた一歩踏み出したいと願うものです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

5月17日(日)のみことば

「知識もないまま言葉を重ね、主の計画を暗くするこの者は誰か。」(旧約聖書:ヨブ記38章2節)

「私がそうだとは、あなたたちが言っている。」(新約聖書:ルカ福音書22章70節)

今日の新約の御言葉は、最高法院の裁判で「お前は神の子か」と尋問された主イエスが言われたお言葉です。じつは、ここは翻訳の難しいところで、以前の口語訳聖書はここを「あなたがたの言うとおりである」と訳していました。もちろん、これは意訳です。それに対して新共同訳は、原文に近づけて「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と訳しました。しかし、これですと、別の問題が出て来る。どういうことかと言いますと、「私は言っていない。あなたたちが言っているのだ」というようなニュアンスが出て来てしまうのです。原文のニュアンスをもっと大切にして訳しますと、次のようになるでしょうか。

「わたしがそうだとは、あなたたちが言うことだ。」

まだ分かりにくいかも知れません。そこで、もう少し、言葉を補って訳しますと、次のようになるでしょうか。

「わたしがそうだとは、いつの日かあなたたちが言うことだ。」

現在のことではなくて、末来のことを言っておられるのです。今、あなたがたは敵意と憎しみをもって「お前が神の子か」と問うている。しかし、いつの日か、必ず「あなたが神の子です」と言う日が来る。心から信じて言う日が来る。なぜなら「神の子」というのは信仰を告白する言葉なのだから。これはもはや弁明の言葉でもなければ、反論の言葉でもない。真理を語る預言の言葉です。