「ただお言葉をください」―復活節第6主日礼拝―2026年5月10日(日)

聖書:創世記19章1~13節・マタイによる福音書8章5~13節

説教:佐藤 誠司 牧師

「イエスはこれを聞いて驚き、付いて来た人々に言われた。『よく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない。』」(マタイによる福音書8章10節)

 

今日はマタイ福音書が伝える主イエスと百人隊長の出会いの物語を読みました。百人隊長というのはローマ帝国の軍人ですから、当然、彼は異邦人です。主イエスが異邦人と出会って、その願いを叶えてやったという、大変珍しい出来事が語られています。物語の終わり近くに、こう記されています。

「イエスはこれを聞いて驚き、付いて来た人々に言われた。『よく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない。』」

主イエスは驚いておられる。ビックリしておられるのです。いったい何に驚いておられるのでしょうか? それはカッコにくくられた主イエスの言葉の中に示されています。

「これほどの信仰は見たことがない」と言っておられる。この「見たことがない」の「見る」という言葉は、ただ漠然と見るのではなくて、もっと強い意味がある。「発見する」「捜したあげくにやっと見出す」という意味があるのです。なくなったものを捜して捜して、やっと見出す。そんなニュアンスのある言葉です。

イエス様は何を発見しておられるのでしょうか? 信仰を発見して、驚いておられるのです。ということは、主イエスは、これまでずっと、人々の中に信仰を捜しておられたのです。しかし、見つからない。ところが、イスラエルの民に属してもいない異邦人の中に、主イエスは信仰を発見された。今日の物語は一人の人物の中に主イエスがまことの信仰を発見された信仰発見の物語なのです。

物語は主イエスがカファルナウムの町にお入りになるところから始まります。ガリラヤ湖のほとりの町カファルナウムは主イエスがガリラヤに於ける拠点となさった町です。主イエスはこの町の会堂で、安息日ごとに御言葉をお語りになったのです。そしてもう一つ、このカファルナウムの町は、領土と領土の接点だったことでも知られています。そういうわけで、この町にはローマ帝国から派遣された兵士たちの駐屯地があったのです。その兵士たちの上に立っていたのが百人隊長です。

百人隊長とは、読んで字のごとく、百人の兵士たちの上に立って指揮を執っていた隊長です。とはいえ、それほど高い身分ではない。雲の上の存在ではなくて、部下の兵士たちと寝食を共にしている。言ってみれば、小隊長のような存在です。ですから、口先で命令を下しておれば勤まるようなお偉いさんではない。自分が下した命令の遂行のために、自らも部下たちと共に戦わなければならない。部下と近しいのです。そういう身分の人であったと言われます。

その百人隊長の愛する息子が重い病にかかってしまった。麻痺を起こして、ひどく苦しんでいる。もう命も危ういかもしれない。そこでこの人は、自分がローマの軍人であることも顧みず、主イエスの前にひれ伏して懇願した。その姿に、主イエスは心を動かされたのでしょう。「私が行って癒してあげよう」と言われたのです。瀕死の息子を持つ百人隊長にとってみれば、これは渡りに舟、願い通りの言葉が帰って来たわけです。ならば彼は、急いで主イエスを家まで案内するのが当然というものです。ところが、ここで百人隊長の口から出たのは、意外とも言える言葉でした。

「主よ、私はあなたをわが家にお迎え出来るような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒されます。」

私はあなたをわが家にお迎え出来るような者ではないと百人隊長は言っております。この「我が家に迎える」という翻訳は、じつを言えば残念な翻訳です。聖書の原文を見ますと、ここで百人隊長は「私はあなたを自分の屋根の下にお迎え出来る者ではない」と言っている。「屋根の下」という言葉を使っているのです。これがじつは大事です。なぜでしょうか? じつは、屋根というのは人の権威の象徴なのです。そういえば日本でも、権威ある人ほど大きな屋根の家に住んでいます。大屋根はその家の持ち主の権威を象徴しているわけです。ですから、ある人を自分の屋根の下に迎えることは、その人を自分の権威の下に置くという意味が隠されていたのです。だから、百人隊長は主イエスを自分の屋根の下に迎えることを辞退したのです。

それに対して、今日読んだ創世記19章のロトは、どうでしょうか? アブラハムの甥であるロトは、アブラハムと別れて悪徳の町ソドムに住みます。ところが、神はソドムの罪深さを聞きつけて、御使いを送ってソドムを滅ぼそうとされる。ロトは町の門でこの御使いと出会うのです。そして御使いたちに自分の家に立ち寄ってくれるよう頼みます。御使いたちは、これを断るのですが、ロトは強いて頼み込んで、御使いたちを家に迎え入れます。すると、そこにソドムの人々が押しかけて、お前の家にいる連中を差し出せと迫ります。そのとき、ロトはこう言うのです。

「私には男を知らない二人の娘がいます。その娘たちを皆さんに差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せたのですから。」

「私の家の屋根の下に身を寄せた」とロトは言っておりますでしょう。私たちはロトという人物を正しい人のように思っていますが、じつはこういうところがある人物だった。自分の正しさを振り回して、神の御使いさえ自分の権威の下に置いてしまう。そういうところのある人だったのです。

さて、そう考えますと、主イエスを自分の屋根の下に迎え入れることを固辞した百人隊長がいかに謙虚な人物であったかが分かります。

しかし、今や、この人の中で何かが起こり始めている。謙虚さだとか部下思いだとかのレベルを超えたことが芽生えつつある。しかも、百人隊長自身はその変化に気がついてはいないのです。彼の中に芽生え始めているもの。それは主イエスへの信頼であり、キリストを信じる信仰なのです。

ところが、この点が肝心なのですが、この百人隊長は自分に信仰があるなどとは、いささかも思ってはいないのです。しかし、キリストを信じる信仰というのは、案外、そういうところがあるのではないでしょうか。つまり、本人すら自覚してもいないうちに、信仰の方が一足先にその人を捕えて、その人を動かし始めている。ものの考え方とか感じ方、何を尊いとするか、何を大切に思うか。そういう小さな変化を、信仰は造り出していくのです。ですから、信仰が芽生えたとき、人はその信仰に気がついていない。しかし、信仰がすでにその人を変え始めているのです。

この百人隊長が、まさにそうでした。彼は今、自分でも気がつかないまま、信仰の故に心から願っているのです。自分の救いを願っているのでしょうか? 違うのです。彼は今、自分の救いではなく、我が子の癒しを心から願っているのです。私はここにキリストを信じる信仰の秘密があるように思うのです。この百人隊長が、自分に信仰があるなどとは露ほども思わぬうちに心から信じ、願っていたこと。それは自分のことではなかった。愛する我が子の癒しです。

翻って私たちは、どうでしょうか? キリスト教国と言われる欧米とは違って、私たち日本人のキリスト者というのは、家族の中で自分一人が教会に導かれている人が多いです。欧米のキリスト者が日曜の朝、家族そろって教会へ行くのに対して、私たちの中には自分一人が日曜の朝、抜け出してくる。それこそ、後ろ髪を引かれるように、家族を残して抜け出してくる。そういう方が多いと思うのです。その場合、自分が一人で教会で礼拝をしている、その礼拝は、残してきた家族と関係のないものなのでしょうか?

夫を家に残して、今、礼拝をしている人もおられるでしょう。その礼拝は夫とは関わりの無いものなのか? 妻を残してきた人もいるでしょう。我が子や孫、あるいは年老いた父・母を残してきた人もおられると思います。いずれにしましても、家族の中で自分ひとりが守っている礼拝が、その家族と関わりの無いものであったならば、礼拝はいきおい個人の営みになってしまいます。しかし、本当は、そうではないですね。今日、私が頂く御言葉の恵みは、家族にとっても恵みになる。そういうものだと思います。

百人隊長の場合が、そうでした。彼は今、自分のことは捨ててしまっている。我が子の癒しのために、主イエスにすがる。御言葉を求める。ただそれだけで、自分のことは忘れている。自分が今、主イエスを信じ始めていることのも気付くことなく、彼はひたすら主イエスにすがっている。そして彼は、こう言うのです。

「ただ、お言葉をください。」

彼は主の言葉を乞い求めたのです。どうして彼は主の言葉だけを求めたのか? それは続く彼の言葉の中に示されていきます。

「ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒されます。私も権威の下にある人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

これは非常に興味深い言葉です。この人は、まことの権威を知っていたのです。彼は百人隊長という過酷な役職につきながら、そこでなお、言葉が持つ本当の権威に目覚めた、というより、まことの権威を持つ主イエスの言葉に目覚めたのです。ここには、彼の百人隊長としての日常が語られています。部下に「行け」と言えば行く。「突撃せよ」と言えば、部下は死もいとわずに突撃する。そんな部下たちを見ながら、自分の権威に自己満足を覚えるような隊長も多かったに違いない。

しかし、この百人隊長は違った。自分のような貧しい者の言葉にも、これほどの権威がある。そのことに恐れを感じることが出来た人なのです。どうして感じることが出来たのか? それは、彼が安息日ごとに、会堂で主イエスの言葉を聞いていたからではないでしょうか? 主の御言葉を聞きながら、まことに権威ある言葉に目覚めた。自分のような人間の言葉にも部下は従う。ならば、もっとはるかに大きな権威を持っておられる主イエスの言葉に逆らうことの出来る力があるだろうか? その一点に目覚めたとき、彼は心からの信頼をもって言うことが出来たのです。

「ただ、お言葉をください。」

主イエスはこれを聞いて驚かれる、ビックリされるのです。そしてこう言われる。

「よく言っておく。イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰は見たことがない。」

主イエスは信仰を見出してくださるのです。繰り返しますが、この百人隊長は自分に信仰があるなどとは、露ほどにも思ってはいないのです。しかし、主イエスというお方は「それがあなたの信仰だ」と言って、送り出してくださる。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言って送り出してくださるのです。私は、この百人隊長は私たちの姿そのものではないかと思います。私たちも、はばかることなく、主の御言葉を乞い求めたい。「ただ、御言葉をください」と言って、主の前に立ちたちたいと願うものです。

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

5月10日(日)のみことば

「私たちのよわいは七十年、健やかであっても八十年。誇れるものは労苦と災い。瞬く間に過ぎ去り、私たちは飛び去る。」(旧約聖書:詩編90編10節)

「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。」(新約聖書:第二コリント書5章1節)

まず最初に「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れる」と言われています。幕屋というのは家のことですが、もちろん、これは喩えであり、パウロは何も家が壊れる話をしているのではありません。パウロは私たちの肉体、今生きているこの体を「幕屋」に喩えているのです。若い元気な頃は、体が壊れると聞いても、ピンとこないのですが、病気をしたり、年を重ねたりしますと、本当に自分の体が幕屋のように壊れやすいものだとよく分かる。いつまでもしっかり建っている鉄筋コンクリートの家ではなく、風が吹けば飛ばされる幕屋のようなものだと、つくずく実感するわけです。

しかし、この「地上の幕屋」という言葉が、ただ単に私たちの体の事だけを言っているかというと、どうもそれだけではないという感じもします。じゃあ、この「幕屋」とは何のことかと言いますと、この肉体にあって私たちが営んでいる生活・暮らし、さらに言えば、私たちの地上の人生そのものを表していると見ることが出来る。それに対して、天にある、人の手で造られたものではない、永遠の住まいが神様によって備えられている。そういうことが、ここで言われているのです。