「罪人を招くキリスト」―聖霊降臨節第3主日礼拝―2026年6月7日(日)

聖書:イザヤ書55章8~11節・マタイによる福音書9章9~13節

説教:佐藤 誠司 牧師

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章12~13節)

 

福音書を読んでいますと、主イエスがある人物を弟子にする物語が多いことに気付きます。当時「ラビ」と呼ばれた律法の教師には何人もの弟子がいたようです。律法の解釈とその運用法をラビは弟子に教えたのです。その律法解釈の流派で最も有名だったのがファリサイ派と呼ばれる一派です。ですから、ファリサイ派の教師のもとには、弟子入りを志願する若者が後を絶たなかったといいます。彼らは自分から名乗りを上げて「私をあなたの弟子にしてください」と志願しました。

ところが、主イエスの弟子となった人たちは、どうだったでしょうか? 自ら弟子入りを志願して「私を弟子にしてください」と頼み込んで、弟子になった人が、一人でもいたでしょうか? いなかったのです。では、彼らはどうして弟子になることが出来たのか? 主イエスのほうから来てくださったのです。弟子入り志願者が乗り込んで来て、自ら門をたたいたのではなくて、主イエスご自身がその人の所へ来てくださって、声をかけてくださった。「私に従いなさい」と声をかけてくださったのです。これが主イエスの弟子たちの大きな特徴です。

シモン・ペトロの場合も、そうでした。シモンのほうから「弟子にしてください」と頼み込んだわけではありませんし、シモンがイエス様のところまで出掛けて行って、門をたたいたのでもない。主イエスのほうから、シモンを訪ねてくださった。しかも、それはシモンの生業であるガリラヤ湖の漁の現場でした。それも、一匹の魚もとれずに意気消沈して網を繕っているシモンを、主イエスは訪ねてくださったのです。

このように、主イエスというお方は、相手の生活の真っ只中に来てくださる。よそ行きの晴れがましい時にではなく、普段着の時に来てくださる。それは彼にとって、必ずしも嬉しい場面、誇らしい場面ではないかも知れません。シモンもそうでした。魚一匹も取れずに、落胆して網を繕っている。その失望のさなかに主イエスは来てくださって、「もう一度、沖へ漕ぎ出して、漁をしなさい」とおっしゃったのです。

今日与えられているマタイの物語も、それとよく似ています。主イエスはマタイの仕事場を、それも仕事の真っ最中に来てくださったのです。しかし、それはマタイにとって決して嬉しいものではなかったでしょう。マタイの仕事。それはユダヤの国を支配しているローマ帝国のために同胞から税金を取り立てる徴税人だったからです。

ここはカファルナウムの町です。この町は交通の要所であると同時に、ローマ帝国の領土と領土の接点に当たります。そういうこともあって、カファルナウムの街道沿いには大きな収税所があったのです。その表に窓口があって、街道を行く人々を改め、税金を取り立てる徴税人が座っていました。ちょっと箱根の関所に似ているかも知れません。

この収税所はローマのお役所ではありますが、ローマ帝国はユダヤの人々から税金を取り立てる役をユダヤ人にさせたのです。この役人になってしまえば、懐は潤います。ローマに隠れて不正な取立てをすればよいのです。そこで人々は競って徴税人になりました。高いフランチャイズ料を支払って徴税人になる権利を買い取ったのです。それでも元が取れたと言いますから、いかに彼らが不正な取立てをして私腹を肥やしていたかが分かります。そんな徴税人を、人々はどのような目で見ていたことでしょうか? 同じユダヤ人なのに、敵国ローマのために働いている。それだけでも赦し難いのに、不正な取立てをして私腹を肥やしているのですから、これはもう敵視などというものではない。人々はありったけの憎しみと軽蔑を込めて徴税人を見たことでしょう。しかも、このとき、マタイは収税所の玄関先にある詰め所に座っていた。人々の憎しみと蔑みを一手に引き受ける形で、マタイはそこにいたのです。

そこに、主イエスが来られたのです。そして、収税所の詰め所に座っているマタイをご覧になった。マタイはその眼差しを感じていたでしょう。こういう他人に嫌われる仕事をしている人というのは、人の眼差しに敏感です。刺すような視線、嘲るような視線、冷ややかな眼差し。そういう眼差しを嫌というほど浴びながら、彼はこれまでずっと収税所に座ってきた。心に鎧をまとうようにして、これが仕事なのだからと自分に言い聞かせて仕事場に座ってきたのです。

ところが、そういう冷ややかな視線ではない、もう一つの眼差しをこの日、マタイは感じていた。深い眼差しです。暖かい眼差しです。マタイはその眼差しに気がついただけではなかった。その眼差しの中に捉えられている自分を、彼は発見するのです。すると、そのとき、この眼差しの人が声をかけた。たった一言、声をかけたのです。

「私に従いなさい。」

すると、信じられないことが起こった。マタイは立ち上がったのです。そして、そのまま、主イエスについて行った。マタイは徴税人として働いている真っ最中だったのです。それが嫌になって、仕事を放り出して、いわば仕事人間が職場から失踪するようにして、いなくなったのでしょうか? 違うのです。彼は、主イエスの言葉と眼差しに捉えられて立ち上がった。

さて、立ち上がったマタイは、そのまま主イエスに従いました。そして主イエスのために盛大な祝いの宴を催すのです。生まれ変わった喜びを分かち合う祝宴です。ここで興味深いのは、マタイが生まれ変わったことを祝うこの宴会に、彼の長年の仲間であった徴税人や罪人と呼ばれる人たちも、じつにたくさん招かれていたということです。些細なことのように思われるかも知れませんが、私はこういうところに、キリストとの出会いの大事な秘密が語られているように思うのです。

どういうことかと言いますと、イエス・キリストとの出会いによって、確かに人は生まれ変わります。しかし、それは、それまでの人生を否定するものではないということです。これは私たちも、同じだと思います。せっかくイエス様と出会って生まれ変わらせていただいたのだから、これまでの生き方はキッパリ否定して、これまで付き合ってきた仲間ともキッパリ別れて新しい人生を歩もうではないか、なんてことにはならないのです。だから、主イエスは「徴税人なんていう罪深い仕事は辞めて、私に従いなさい」とはおっしゃらない。ただ「私に従いなさい」とだけおっしゃる。

マタイの場合も、そうです。彼は主イエスと出会い、主イエスに従うことで、確かに生まれ変わりました。しかし、それだからといって、それまでの徴税人仲間を彼は否定しなかった。いや、マタイが否定しなかったのではない。主イエスが否定なさらなかった。否定するどころか、喜んで彼らと食卓を共にして、喜びを分かち合ってくださったのです。だから、徴税人や罪人と呼ばれた人たちも、喜んで来たのです。彼らもまた、主イエスの暖かな眼差しの中に身を置くことが出来たわけです。

ところが、ここに文句を言う人々が現れました。ファリサイ派の律法学者たちです。彼らは、マタイが生まれ変わった喜びを、分かち合うことが出来ずに、弟子たちに向かって、こうつぶやいたのです。

「なぜ、あなたがたの先生は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」

これに対して、主イエスはこうお答えになった。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

主イエスはハッキリと「私は医者としてこの世に来た」と言っておられる。もちろん、肉体の病を癒すだけの医者ではありません。肉体も心もすべてです。人間の生き方そのものを癒す医者として、私はこの世に来たのだと言っておられる。そしてマタイは病人なのだとハッキリ言っておられるのです。マタイだけではありません。この食卓に喜んで座っている弟子たちや徴税人たち。そのすべてが病人なのだと言っておられるのです。主イエスが言われる「病人」とは、どういう人のことなのでしょうか? 主イエスが言われる「病人」とは、いわゆる「病気の人」ではない。あなたは健やかになれる。私に従うことで、あなたも、健やかに立ち上がることが出来る。主イエスがそう語りかけておられるすべての人が、主イエスの言われる「病人」です。

譬えて言いますと、私たちが病院に行って、恐る恐る診察室に入るとします。すると、お医者さんが私たちの顔を見るなり、「ああ、あなたは健やかになれる。健やかに立ち直れますよ」と言っていただけたなら、どれほど嬉しいことでしょうか。主イエスは、まさに、そういう医者、名医中の名医なのです。この名医は愛の眼差しを向けて「あなたも健やかに立ち直れますよ」と言って手招きしておられるのです。

そしてもう一つ、ここで注目すべきことは、主イエスはレビたちのことをハッキリ「罪人」と呼んでおられることです。しかし、これもまた、先ほどの「病人」という言葉と同じでして、ほかの人が言う「罪人」という言葉と、主イエスがおっしゃる「罪人」という言葉は、同じ言葉ではありますが、意味がまるで違う。言葉って、そういうものです。愛の言葉か、愛の無い言葉か。それは、その言葉をかけられた人には、すぐ分かる。そういうことって、ありますでしょう? 早い話、先ほどの律法学者も「罪人」という言葉を口にしていますが、その意味はどうでしょうか? 彼らは律法を守らない人間のことを疎外する意味で「罪人」という言葉を口にしています。「あんな罪人なんかと、なんで一緒に食事するの」という感じです。要するに、愛が無いのです。

それに対して主イエスがおっしゃった「罪人」という言葉は、どうでしょう。主イエスはこうおっしゃったのです。

「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

罪人を招くために、私は来たのだとおっしゃる。さあ、主イエスのおっしゃる「罪人」とは、どういう人のことなのか? じつはこれは福音書の大きな主題の一つなのです。ですから、福音書の全編に渡ってこの主題が出て来ます。そして、福音書の最後に、それは出て来るのです。さあ、主イエスの言われる「罪人」とは、どんな人のことなのか? それはルカ福音書23章の34節に記された主イエスの言葉で分かります。主イエスはこう言っておられるのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

主イエスが言われる「罪人」とは、これです。自分が何をしているのか知らない人のことです。赦されなければ、罪なんて知らない人たちのことです。赦されて初めて自分の罪に気付く人のことです。

さあ、罪人とは誰のことか? それはマタイたちだけではない。私たちのことだったのです。主イエスは私たちを招いて悔い改めさせるために、来てくださいました。私たちの所へ。私たちの生活の真っ只中に来てくださった。マタイが座っていた収税所の前に来てくださったように、私たちが生きている。その人生の現場へと来てくださって、声をかけてくださる。

「私に従いなさい。」

私に従いなさい。そうすれば健やかになれる。健やかに立ち上がることが出来る。この御声を聞いて、心から従う者でありたいと思います。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月7日(日)のみことば

「『慰めよ、慰めよ、私の民を』と、あなたがたの神は言われる。」(旧約聖書:イザヤ書40章1節)

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(新約聖書:マルコ福音書2章17節)

今日の御言葉で主イエスはハッキリと「私は医者としてこの世に来た」と言っておられます。もちろん、肉体の病を癒すだけの医者ではありません。肉体も心もすべてです。人間の生き方そのものを癒す医者として、私はこの世に来たのだと言っておられる。そしてレビは病人なのだとハッキリ言っておられるのです。レビだけではありません。この食卓に喜んで座ってレビが生まれ変わったことを祝福している人々。弟子たちや徴税人たち。そのすべてが病人なのだと言っておられる。

主イエスが言われる「病人」とは、いわゆる「病気の人」ではありません。あなたは健やかになれる。私に従うことで、あなたも、健やかに立ち上がることが出来る。主イエスがそう語りかけておられるすべての人が、主イエスの言われる「病人」です。譬えて言いますと、私たちが病院に行って、恐る恐る診察室に入るとします。すると、お医者さんが私たちの顔を見るなり、「ああ、あなたは健やかになれる。健やかに立ち直れますよ」と言っていただけたなら、どれほど嬉しいことでしょうか。主イエスは、まさに、そういう医者、名医中の名医なのです。この名医は愛の眼差しを向けて「あなたも健やかに立ち直れますよ」と言って手招きしておられるのです。