聖書:イザヤ書7章14節・マタイによる福音書1章18~25節

説教:佐藤 誠司 牧師

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章14節)

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 (マタイによる福音書1章19~23節)

 

アドヴェント・クランツに2本目の灯りが点って、今日が待降節の第二の主日であることを告げています。今日も、次の御言葉をもって待降節のお話に入っていきたいと思います。

「『見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

これはイザヤ書の7章14節の言葉ですが、インマヌエル預言と言いまして大変有名な御言葉です。有名なのですが、じつは長い間、その意味が分からなかった。どうして乙女が男の子を産むのかその理由がまず分からないし、その生まれた子がどうして「インマヌエル―神は我々と共におられる」と呼ばれるようになるのか。そこのところが、どうもよく分からなかったのです。それに対しまして、このインマヌエル預言というのは主イエスの誕生の預言のことなのだとハッキリ主張したのが、マタイ福音書であったのです。

マタイ福音書はここで一人の人物をクローズアップして見せます。それは主イエスの母となったマリアではなく、ヨセフなのです。ここがルカ福音書とは違うところです。しかも、そこでクローズアップされているのは、ヨセフの苦悩です。ヨセフという人が、いかに苦悩したか。その苦しみがいかに大きく深いものであったか? マタイはまずそこに焦点を絞ります。

ヨセフという人は、主イエスの降誕という出来事がなければ、おそらく平凡な、どこにでもある生涯を人知れず送ったことでしょう。ユダヤの北にあるガリラヤのナザレという小さな町に、彼は住んでおりました。そして、同じ町に住むマリアとい女性と出会い、心通わすうちに、この人と一緒に家庭を築こうと、そう決心するに至りました。二人は互いにその思いを確かめ合い、育んでいったに違いありません。

ところが、ここに二人の絆を揺るがす出来事が起こります。婚約者マリアが、身ごもってしまったのです。ヨセフには身に覚えはありません。ヨセフの心は乱れます。自分はマリアを心から愛している。その愛に偽りはない。マリアも自分を愛している。その愛にも偽りはないはず。なのに、どうしてこのような破局を迎えねばならないのか? ヨセフは誠実な男だったようです。真剣に悩んだことでしょう。マリアにとっても、自分にとっても、最善の道は無いものか。

どうして、それほど深刻に悩んだのか? マリアの命がかかっていたからです。ヨセフとマリアはまだ結婚してはいませんでした。婚約中だったのです。しかし、当時の婚約は結婚に等しい重みを持つものでした。特に、ある男性と婚約をしている女性が、他の男性と性的な関係を持ってしまったということが判明しますと、それは結婚した妻の姦淫と同じほどに重い罪とされ、石で打たれて殺されなければならなかった。しかも、この場合の石打は、婚約者の訴えに基づいて行われました。

婚約者の訴えに基づいて。ヨセフを悩ませたのは、そこでした。ヨセフは「正しい人であった」と書かれています。これは、「律法に忠実な人であった」ということです。ですから、ヨセフは、その正しさの故に深く悩みました。律法に忠実たらんとすれば、ヨセフはマリアを訴えなければならない。しかし、訴えたならば、マリアは死ななければならない。しかも、自分が訴えたが故にです。これだけは、どうしても出来ない。ヨセフはマリアを愛しているのです。かといって、他の男の子を身ごもった女性と結婚するわけにもいかない。

そういう、まさに八方塞の中で、ヨセフは悩みに悩んだ末に、一つの結論に達します。ひそかにマリアと縁を切ろうと考えたのです。つまり、婚約解消です。そうすれば、自分はマリアを訴えずに済む。そして、マリアは、命だけは助かる。仕方が無い。これしか道はないのだ。仕方が無い、というのが、このときのヨセフの正直な思いではなかったかと思います。

ひそかに縁を切れば、確かにマリアを訴えずに済みますし、マリアの命も助かる。律法も犯さずに済むのですから、これは理屈の上では、八方丸く収まる名案です。しかし、そう決心したヨセフの心に、はたして平安はあったでしょうか? 私は、無かったと思う。むしろ、空しさだけが、ほろ苦く残ったに違いありません。

例えば、このあとのマリアは、どういうことになるだろうか? 縁を切られたマリアを待ち受けているのは、どのような人生でしょうか? ナザレは小さな村ですから、誰一人、マリアの行状を知らぬ人はいないでしょう。婚約中に他の男の子を身ごもった女。ヨセフに愛されながら、他の男に身を任せた罪の女だと、後ろ指を指され、人々の残酷な好奇心の的となって、若いマリアは残された一生を送らねばならない。はたしてそこまで「仕方が無い」と言いきれるのか。

けれども、これがヨセフの愛の行き着く限界線だったのです。ヨセフは、自分の愛の無力さを、嫌というほど思い知らされたに違いありません。二人の愛に偽りはない。一緒にやっていきたい。家庭を持ちたいのです。しかし、愛し合っている二人が、どうしてこのような結論にしか到達できないのか。そこに人間の愛の限界といいますか、運命が見えてきます。どうして二人は破局を迎えなければならなかったのか?

ヨセフの苦悩を、皆さんは、どう受け止められますでしょうか。ヨセフは、まさに眠ることも出来ないほど、苦しみ悩んだと思います。しかも、この悩みというのは、誰にも相談できないものでした。親兄弟はもちろん、親しい友人にも相談できなかった。自分が最も愛を注いでいるマリアにも打ち明けるわけにはいかなかった。

本当ならば、夫として、妻として、悩みや苦しみを分かち合うべきマリアにもそれを打ち明けることが出来ないまま、マリアのことで苦しみ悩む。結局、ヨセフは自分一人で苦しみ悩んだのです。しかも、悩みを言葉に出すことも出来ないまま、自分一人が、自分だけの中で、苦しみ悩む。誰の目にも付かず、誰の耳にも届かない、このヨセフのひそかな悩みの中に、クリスマスの出来事は、すでに始まっているのです。

誰にも言えない深い悩みがあります。その誰もが知らない心の闇に向かって、神様が声をおかけになる。ヨセフの側から言いますと、誰も知らない心の空洞、闇の部分で、彼は神様の語りかけを聞くのです。私は、そういうことは、確かにあると思います。自分しか知らない苦しみや悩みの中で、神様の声を聞く。主の使いが夢に現れたとは、そういうことです。

天使は言います。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

ヨセフは、どういう思いでこの言葉を聞いたことでしょうか。私は、これはヨセフにとってこれ以上は無いとさえ言えるほど強烈なメッセージではなかったかと思います。私たちの持っている聖書では穏やかな言葉に翻訳されていますが、天使がまず言ったのは「恐れるな」という強い命令なのです。

「恐れるな。」

天使は、まず、そう言ったのです。これはどういうことかと言いますと、ヨセフよ、お前は恐れているではないか、ということです。ヨセフよ、お前は誠実に悩んでいるように見えて、じつは恐れているだけではないか。天使はそう言ったのです。そして、天使は続けて言いました。

「お前の妻マリアを迎え入れなさい。」

お前の妻という言い方をしているのです。マリアは、ほかでもない、お前の妻ではないか、ならば、どうして正直に愛さないのか。あれこれ詮索せずに、お前の妻マリアを迎え入れなさい。そして、天使は決定的なことを告げます。

「マリアの胎の子は聖霊によって宿った。」

ヨセフは胸を突かれたに違いありません。ヨセフは確かに誠実に悩んでおりました。しかし、そのとき、彼は人間のことしか考えていなかったのです。マリアは身ごもった。自分には身に覚えがない。ならば、というわけで、いろいろと悩み始める。しかし、私たち人間の悩みというのは、ほぼ100パーセント、人と人とのことです。律法との板ばさみになってヨセフは悩みました。しかし、その場合の律法って何だったでしょう? 律法というのは、神の民に与えられた神様の御心でしょう? ところが、ヨセフが板ばさみになって悩んだのは、神様の御心としての律法ではなくて、掟、定めとしての律法だった。ヨセフが人間のことしか考えていなかったというのは、そういうことです。神様の御心を尋ね求めることをしなかった、出来なかったのです。だから、ヨセフはマリアを愛しているし、マリアもヨセフを愛しているのに、二人の愛はぐらついた。なぜでしょうか? 二人の愛が同じ土台の上に立っていなかったからです。神が私たちを夫婦としてくださるという土台の上に立っていなかった。だから、二人の愛は、ぐらつかざるを得なかったのです。

そして、天使はさらにこう言いました。

「その子をイエスと名付けなさい。」

これ、どういうことかと言いますと、生まれた子に名前を付けるのは、父親の役割だったのです。生まれた子を抱き抱えて、我が子の名を呼んだとき、この人は父親になるのです。ですから、イエスと名付けなさいというのは、とりもなおさず、あなたはその子の父親になりなさい、ということです。

つまり、天使はヨセフにこう言ったことになります。恐れるな、ヨセフよ、あなたはマリアの夫になりなさい。生まれる子の父親になりなさい。これは物凄いメッセージだと思います。これは、ただ単に、夫になれ、父親になれと、言っているのではない。そういうことではなくて、あなたは生まれ変わりなさい、と天使は言ったのです。新しく生まれ変わりなさい。そして神様が与えてくださる新しい人生を信じて生きなさい。天使が語ったのは、そういうことであったと私は思います。

そしてもう一つ、天使の言葉からヨセフが聞いたメッセージがあると私は思います。それは天使が言葉にして語ったのではありませんが、私は、これが一番、ヨセフの心を動かしたのではないかと思います。それは「お前は一人ではない」というメッセージです。今の今まで、ヨセフは自分一人で悩んできたわけです。親兄弟にも打ち明けることが出来ず、親しい友にも言えず、誰よりもマリアに言うことが出来なかった。自分一人だけで、しかも、口に出すことも出来ず、心の中だけで悩み苦しんだ。そういうことって、ありますね? 自分一人の胸の中に仕舞いこんで、あの世まで行くしかないと思う。これは孤独です。ところが、神様は夢という心の窓から入って来られる。そして「恐れるな」と声をかけてくださった。なぜ恐れるなと神様は、言われたのでしょうか? もうお解かりの方もおられるでしょう。聖書の中に「恐れるな」という言葉が出て来ると、それは必ずと言ってよいほど、こう続くのです。

「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。」

お前は一人ではない。私があなたと共にいる。これがヨセフが聞き取ったメッセージです。だからこそ、彼は、目覚めると、すぐにこれに従ったのです。夢だからといって、取り合わないという選択もあったでしょう。無視することも出来たはずです。ところが、ヨセフは、すぐに従いました。これは、彼が新しく生まれ変わったことを意味しています。

天使は「その子をイエスと名付けなさい」と言いました。イエスという名前は、珍しいものではありません。むしろ、ありふれた名前、長男につける名前です。しかし、そのありふれた名前の意味が、ヨセフの心を捕らえたのではないかと思います。イエスという名前。それは「神は我らを救う」という意味があったのです。神は我らを救う。いかにも、若い夫婦が、初めて生まれてきた長男につけそうな名前です。どうしてこの名前がヨセフの心を捕らえたのでしょうか? 今までヨセフは自分一人で悩んできたわけでしょう? 一人で苦しみ、独りで悩んできた。そんなヨセフは「我ら」とは、どうしても言えなかった。それが今はどうでしょうか? マリアの夫となり、聖霊によって生まれた幼子の父親とされている。彼はベツレヘムの馬小屋の中で、生まれた子のへその緒を切り、幼子の暖かい体を亜麻布で拭い、抱き上げて、その名を呼んだとき、ああ、これは神様の御業だと思ったに違いありません。彼は震える声で、こう呼んだのです。

「我が子イエス、神は我らを救う。」

神は我らを救う。だから、マタイ福音書は、続けてこう言うのです。

「『見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

イエス・神は我らを救うという名は、インマヌエル・神は我らと共におられるということと表裏一体だったのです。この幼子は、私たちのために与えられた救い主です。それは、この幼子の血潮によって私たちの罪が贖われ、私たちが神の子とされるためです。だから、私たちは、クリスマスを祝います。インマヌエル、主が私たちと共におられます。この大きな恵みに心からの感謝をささげたいと願うものです。

 

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