聖書:イザヤ書7章14節・マタイによる福音書2章1~12節

説教:佐藤 誠司 牧師

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章14節)

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、(見よ、)東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイによる福音書2章9~11節)

 

アドヴェント・クランツに3本目の灯りが点って、今日が待降節の第3の主日であることを告げています。今日も、イザヤ書の御言葉をもって待降節のお話に入っていきたいと思います。

「『見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

これはインマヌエル預言と言いまして、預言者イザヤが紀元前600年頃に語ったとされる預言の言葉です。大変有名な言葉ですが、じつは長い間、その意味が分からなかった。どうして乙女が男の子を産むのか、そしてその生まれた子がどうして「インマヌエル―神は我々と共におられる」と呼ばれるようになるのか。そこのところが、どうもよく分からなかったのです。それに対しまして、このインマヌエル預言というのは主イエスの誕生の預言のことなのだとハッキリ主張したのが、マタイ福音書だったのです。

マタイ福音書は、この「インマヌエル―神は我々と共におられる」ということを語るために、二つの物語を語りました。一つは先週ご一緒に読みましたヨセフの物語です。そして、もう一つが今日の物語。星に導かれて幼子イエスにまみえ、ひれ伏して拝んだ博士たちの物語です。

今、私は「博士」と言いましたが、私たちが用いている新共同訳聖書に「博士」の文字はありません。昔の口語訳聖書と、そのまた昔の文語訳聖書が「博士」と訳していたのを、新共同訳聖書は捨てまして、「学者」と訳したのです。ところが、いくら新共同訳聖書が普及しても、キリスト教幼稚園のクリスマス劇では、今に至るまで「博士たち」が現役で頑張っています。どうやら「学者」という言葉は、いささか馴染みにくいところがあるのでしょう。最新の聖書協会共同訳聖書は「博士」という言葉を復活させました。というわけで、この件は一件落着したかに見えますが、どうして「博士」か「学者」かでもめたかと言いますと、彼らが東の国で何をしていたか、そこが長い間よく分からなかったのです。

東方、東の方という言い方も、じつは微妙です。ユダヤの人々にとって東の国・東方というのは、じつは得体の知れない恐怖心を連想させる言葉です。ユダヤの東にはアッシリアがあり、バビロンがあり、ペルシアがある。これらの国々はイスラエル民族を脅かし、征服した国々として旧約聖書に登場します。ですから、東の国から来たというだけで、多くのユダヤ人は漠然とした恐怖心を抱いたのです。この博士たちは、そういうところから来たのだということを、私たちはまず心に留めておきたいと思います。

博士、学者と聞きますと、私たちは、大学の教授や研究者を連想しますが、ここで言う博士や学者は、それとはずいぶんと様子が違うようです。1985年に新共同訳聖書が出た時、先にも述べたように、博士という訳を捨てて、学者という訳を採用したのですが、新共同訳はそれに一言を付け加えて、「占星術の学者」としました。これはやはり聖書学の進歩の成果だと思います。彼らが占星術をしていたことが、新共同訳聖書によって広く知られるようになったのです。占星術というのは、あくまで占いであって、天文学のような学問ではありません。どちらかと言えば魔術に近いものです。

ご存じの方も多いと思いますが、聖書は占いや魔術の類を固く禁じています。生ける神の導きに信頼するのが信仰ですから、占いや口寄せの類に頼るのは信仰とは相容れないことです。だから聖書はこれを固く禁じたのです。

とは言え、ユダヤの人々の中にも、ひそかに占いや魔術の類に心引かれる者もいたようです。いちばん有名なのは、イスラエルの最初の王となったサウルでしょう。サウルははじめ、神様の導きに応えて国を治めていましたが、ダビデが頭角を現すに連れて嫉妬心に駆られて、神様ではなく、魔術の類に頼るようになります。そして、落ち目になったサウルは、変装して口寄せのもとを訪れて、ついに神様から見捨てられて非業の死を遂げます。

このように、聖書は魔術や占い、口寄せの類を固く禁じ、警告を発しています。ですから、占いや魔術が神に背く悪事であることは、ユダヤ人であれば、誰もが知っている、最低限の常識。いわゆる民族の常識に属することだったのです。

以上のようなことを考えますと、遠い東の国から来た占星術の博士というのは、ユダヤの人々にとってみれば、一種異様な存在なのです。そんな博士たちが、エルサレムに来て、こう言います。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いたヘロデ王は不安を抱いたと書いてあります。また不安を抱いたのはヘロデ王だけでなく、「エルサレムの人々も皆、同様であった」と書いてあります。これはどういうことかと言いますと、東の国を出発した博士たちは、エルサレムにやって来たものの、どこへ行くべきかが分からない。そこで道すがら出会う人々に、先の言葉を告げていたということです。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

この言葉を聞いたエルサレムの人々が皆、不安を抱いたのです。その人々の中に、新しい王様なら宮殿で生まれたのだろうと、博士たちに告げる人がいたのでしょう。こうして博士たちはヘロデの宮殿にたどり着いた。そして、あの言葉を告げたのです。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」

ヘロデ王が抱いた不安。それはエルサレムの人々が抱いた不安とは異なるものがあったと思います。人々が不安を抱いたのは、東の国から得体の知れない占い師がやって来て、王の誕生を告げた。そのことに対する不安であったと思います。しかし、ヘロデ王が抱いた不安は違いました。新しい王が生まれた。これはヘロデにとってみれば、自分の王位を奪う存在が現れた、ということです。心穏やかであるはずがありません。

ヘロデは祭司長や律法学者、民の長老たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているか、問いただします。すると、彼らは答えます。

「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

祭司長、律法学者、民の長老たちが口をそろえて答えています。ということは、どうでしょう。ヘロデだけが、この預言の言葉を知らなかったということです。じつは、このヘロデという人物はユダヤ人ではありません。ユダヤの南にあるイドマヤの出身で、ローマによってユダヤ王に取り立ててもらった人物です。ですから、どうも聖書に弱い、というか自信がないのです。特に預言者の解釈などになりますと、手も足も出なかった。だから祭司長や律法学者たちを呼び寄せたのです。

さて、彼らによって急ごしらえの知識を得たヘロデは、博士たちを呼び寄せて、星の現れた時期を確かめて言います。

「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」

博士たちを騙して送り出したわけですが、最後の「わたしも行って拝もう」というのは、おそらく、マタイが書いた皮肉ですね。ユダヤ人は王を拝むことをしなかったからです。それをヘロデは「わたしも拝もう」と言った。いくら博士たちを欺くためとは言え、ユダヤ人なら考えられない発言です。まあ、お里が知れるといいいますか、彼が異邦人であることが、こういうところで透けて見えるわけです。

さて、ベツレヘムと知らされて送り出された博士たちではありますが、彼らにはベツレヘムがどこにあるかが分かりません。にっちもさっちもいかなくなったわけですが、マタイはここから、まことに驚くべき展開を見せていきます。

語りの調子が変わるのです。これまで、マタイは、どちらかと言うと理詰めでお話を展開してきました。私の説教も、東の国とはこういうところで、ヘロデの出自はこれこれこうでと、理屈の積み重ねて進めてきました。ところが、ここからは違う。もう理屈では進めない世界が展開していく。さあ、お話の調子は、いったい、どこで変わるのか。じつは新共同訳聖書では省かれていますが、9節の前半の「彼らが王の言葉を聞いて出かけると」という言葉と、後半の「東方で見た星が先立って進み」という言葉のはざまに、原文では「見よ」という短い言葉がある。それを新共同訳聖書は不要な言葉と判断して、省略したのです。

ところが、「見よ」という言葉は、確かに小さな言葉であり、省いても差支えがないように思いますが、聖書に出て来る「見よ」という言葉には注意喚起の意味がある。著者が注意喚起をしている。ここから世界が変わりますよ、心して読み取ってくださいよ、という合図なのです。ここを口語訳聖書で読むと、次のようになります。

「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼子のいる所まで行き、その上にとどまった。」

いかがでしょうか。「見よ」という注意喚起が効いていますでしょう? ここから世界が変わるのです。じゃあ、どういう世界が始まるのか。星が動く世界が、ここから始まる。博士たちが東方で見たとき、星は動かなかった。これはどういうことかと言いますと、あの星は、あくまで占星術の対象に過ぎなかった。占いの材料に過ぎなかったのです。

ところが、同じ星が、今や彼らを導き始めたのです。魔術・占いの世界から、導きの世界へ。博士たちは真逆の世界へ一歩、足を踏み入れたのです。博士たちは、もはや占いによって歩んではいない。神の導きによって歩んでいる。

「博士たちはその星を見て喜びにあふれた」と書いてあります。彼らをベツレヘムへと導いた星が、止まった。止まって何かを告げた。ここに新しい王は生まれた。星が告げたのは、その一点であったと思います。だからこそ、彼らは喜びにあふれたのでしょう。この喜びとは、どういう喜びなのでしょうか。まず言えるのは、彼らじは自分たちの占いが当たったから喜んだのではない、ということです。星が動いたから喜んだのでもない。これまで、博士たちは、動く星に望みをつなぎつつ、それでもなお、不安があったと思います。まことの王にまみえたい。その一心で、彼らは旅を続けたのです。ところが、星が止まった。この時、星の意味が変わったのです。星が動いた時、その星は導きの星でした。しかし、星が止まった。この星はもはや導きの星という枠を超えて、ここにあなたがたの望みがある。望みを指し示す星となって輝いたのです。11節に、こう記されています。

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

これは、彼らにとっても、思いもよらぬ行為であったと思います。彼らはあの喜びに押し出されるようにして、ひれ伏して幼子を拝み、宝物を献げたのです。ひれ伏して拝むというのは、東方で行われていた王礼拝の姿だそうです。さぞかし、おかしな姿であったと思われます。しかし、東方の習慣を引きずったまま礼拝をしたこの人々の礼拝を、幼子キリストは受け入れておられる。博士たちには、そのことが分かったのです。だからこそ、彼らは宝物を献げたのでしょう。

彼らが献げた黄金、乳香、没薬とは何か。近年、よく言われるのは、この三つの宝は、彼らが東方でやっていた占星術・占いの道具ではなかったか、ということです。こんなもの、もう要らないと言って献げたのではないでしょう。そうではなくて、この幼子を礼拝することで、大事なことが分かった。インマヌエル、神が我らと共におられる、ということが分かった。もう占星術に頼らなくてよい。それが分かったから、彼らは感謝の献げものをすることが出来たのです。

ひれ伏して拝むクリスマス。ここに、魔術・占いからキリストに導かれた私たち日本人キリスト者の原点があると思うのです。

 

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