聖書:イザヤ書7章14節・ルカによる福音書2章8~20節

説教:佐藤 誠司 牧師

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章14節)

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書2章10~12節)

 

アドヴェント・クランツに4本目の灯りが点って、今日が待降節の第4の主日であることを告げています。今日も、イザヤ書の御言葉をもって待降節のお話に入っていきたいと思います。

「『見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

主イエスがお生まれになったのは、華やかな王宮でもなければ、にぎやかな街中でもありませんでした。それはベツレヘムの町外れの馬小屋の中。若い夫婦が旅先で、泊まる宿も見つからなかった。そこで彼らは、仕方なく、馬小屋に入った。馬小屋の中の、貧しい飼い葉桶。そこが神の御子が身を横たえた場所でした。それはこの世の目から見れば、とても小さな出来事でした。貧しい若夫婦が旅先で男の子を出産した。それだけの話です。水面に広がる波紋のように、すぐに消えてしまうような小さな出来事だったのです。

ところが、神は、この幼子の誕生を自分たちのための救いの出来事として伝える人々を起こされる。それが羊飼いたちです。どうして神様は彼らを選ばれたのか?

羊飼いたちは、当時、「うそつき」と呼ばれていたようです。貧しい羊飼いは自分の羊を持っているわけではありません。裕福な町の人たちの羊を預かって世話をしているに過ぎないのです。だから、羊が狼に襲われようものなら、弁償しなければならない。貧しい羊飼いにはそれが出来ません。ところが、弁償を免れる道が一つだけあった。それは食い殺された羊の体の一部分を羊の持ち主に見せて、このとおり、あなたの羊は狼に食われたのですと言って、不可抗力を訴えるのです。すると、彼らは責任を免れることが出来たのです。

創世記のヨセフ物語で、羊飼いをしている兄たちがヨセフが死んだことにして父ヤコブに言い訳する場面がありますが、あそこで兄たちは動物の血をヨセフの衣服に付けて、「このとおり、あなたの息子は狼に殺されたのです。私たちに責任はありません」と言いますでしょう? あれがいわゆる「羊飼いのウソ」なのです。ですから、羊飼いは証人にはなれなかった。普通の人なら二人揃えば証人になれるのです。ところが、羊飼いの場合は、何人寄ろうが証人にはなれなかった。それだけ羊飼いたちには信用が無かったのです。

ところが、神がご自分の独り子の誕生の証人としてお選びになったのが、彼ら羊飼いたちだった。どうしてなのでしょうか? どうして、神様は、よりによって、証人になることの出来ない人たちを御子の降誕の証人とされたのか? 一つ言えるのは、神様というお方は、資格の無い者を敢えてお選びになる、ということです。

特に御子イエスに関する証人は、振り返ってみますと、そのすべてがこの世的には資格の無い人々ばかりです。復活の最初の証人とされたのは、罪の女と呼ばれたマグダラのマリアでした。12人の弟子たちも、この世の目から見れば優れた人は一人もいません。そして降誕の証人とされたのが、うそつきと呼ばれて、人々から蔑まれていた羊飼いたちだったのです。どうしてこれらの人々が証人に選ばれたのでしょうか? その理由は、これらの人々は世の人たちからの信頼や信用に頼って語ることが出来ない、という一点にあります。だから、「ああ、あの人の言うことだから信用しても間違いなかろう」などということは起こり得ない。語る人の人柄や信用によって語るのではなく、ただひとえに語るメッセージの内容に頼らねばならない。ですから、この人たちは、ひとえに神の憐れみによって立てられた主の証し人なのです。羊飼いたちが、まさにそうだった。

夜通し羊の群れの番をしていたと書かれています。町の外なのです。彼らは町の人々を恐れていた。町に入るよりも、寒さの中で野宿するほうが心安らいだのです。彼らは闇の中でささやかな平安を得ていたのです。そんな彼らを突然、天からの光が捕えた。そしてその光の中から天使が言った。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

天使が告げた「大きな喜び」とは、どういうものなのでしょうか? よく考えますと「喜び」というのはモノではありませんから、「喜び」に大きい小さいは無いはずです。その意味で「大きな喜び」というのは、おかしいのです。じつはこの「大きな」というのは正確に言えば「包み込む」という意味のあった言葉です。相手をスッポリと包み込むのです。すると当然、相手よりも大きくなければ包み込むことは出来ません。そこでこの言葉は「大きな」という意味を持つようになった。

それに関連してもう一つ言えば、「民全体に与えられる」というところ、以前の口語訳聖書ですと「すべての民に与えられる大きな喜び」となっていたのを覚えておられる方も多いと思います。今でもそのほうを支持する人は多いです。なぜかと言えば、「すべての民」というふうにすれば、ユダヤ民族だけではなくて日本人もドイツ人も韓国人も入る。すべての民族に与えられる大きな喜びこそがクリスマスの恵みなのだというわけです。これは大いにうなずける解釈です。

ところが、新共同訳聖書はそれに異を唱えたのです。「すべての民」ではなくて、やはり「民全体」なのだと主張した。その根拠は聖書の原文を見ると、この「民」というところは、じつは複数形ではなくて、単数形なのです。だから、新共同訳聖書は「すべての民」ではなくて「民全体」というふうに原文に忠実に翻訳したわけです。

しかし、本当にそれで良いのかという思いも残ります。主イエスの誕生は本当にユダヤの民だけに与えられる喜びであったのか? そうではない。やはり、すべての民に与えられる喜びではなかったか? 先ほどの「大きな喜び」の「大きな」というのは「包み込む」という意味の言葉なのだと申しました。大きな喜びとは包み込む喜びだったのです。何を包み込むのでしょうか? すべての民、すべての人を包み込むのです。包み込んで一つにする。一つの新しい民にする。新しい神の民を生まれさせる。だから、この「民」という言葉は単数でよい、いや、単数でなければならないのです。ちなみに最新の聖書協会共同訳聖書はここを「すべての民」に戻しています。

天使は救い主の誕生だけを告げているのではなかった。やがて、この救い主によって成し遂げられていく新しい神の民の誕生をも予告していたのです。天使が告げた「大きな喜び」という言葉には、そういう意味が込められていたのです。天使は続けて言います。

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

ここまで告げると、天使は、もう歌わないではおれなくなる。言葉で告げるだけでは収まらなくなって、とうとう歌い始める。一人で歌うのではありません。おびただしい天使たちが天の軍勢となって、声を合わせて歌い始める。天がどよめくように歌声が響くのです。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

大変に短い歌です。おそらく最も短い歌の一つでしょう。しかし、この短い歌は決して小さい歌ではない。幼子イエスの誕生によって引き起こされていく救いの出来事をすべて歌い切っている。そう言っても過言ではない。その意味でこの歌は、先ほど天使が告げた「大きな喜び」の中身を語っていると言ってもよい。「大きな喜び」が成し遂げる御業を歌っていると言ってもよいのです。

この天使の歌は、今の「頌栄」の原点になった歌です。頌栄と他の賛美歌はどこが違うか。他の賛美歌は、多かれ少なかれ私たちの心を歌う。そういう面がありますが、頌栄はどうでしょうか? 私たちの嬉しい心、悲しい心は一切歌わない。ただひたすら神の栄光を賛美する。それが頌栄の頌栄たるところです。神を神としてたたえる。そのとき、地上にまことの平和が来るのです。

ルカ福音書2章の最初に登場するローマ皇帝アウグストゥスは「我こそまことの神である」と言って人々を自分の前で礼拝させたことで知られます。日本の天皇も、かつて「現人神」と祭り上げられた。古今東西、国家権力を手に入れた人物は神になりたがる。自分を拝ませるのです。しかし、これらは所詮、人が神とされているに過ぎません。はたして、そこに真の平和はあるだろうか? 真実の平和は、私たち人間が神を神として心からあがめ、賛美するときに訪れる。この天使の歌は、そう歌うのです。

ですから、これは天使の歌ではありますが、ただ高い所で、地上の悲しみにも苦しみにも関わりの無い天国の歌を歌っているのではないのです。そういう地上に無縁の歌を歌っているのではなくて、天使はまさに地上に向かって歌った。天の歌をもって地上を訪問したのです。だから、この歌は「神には栄光」と歌うだけではなくて、「地には平和」と歌う。神に栄光を帰する歌と地上の平和を願い求める歌とが別々の不協和音を立てるのではなくて、一つに溶け合っている。

天使は「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。「御心に適う人にあれ」とは、どういうことでしょうか? ここは、ともすれば私たちが大きな誤解をしてしまうところではないかと思います。あの人たちは御心に適っている、この人は御心に適っていないというふうに読んでしまうのです。そうしますと、御心に適っていない人々には平和は来ない、と、そのように理解をしてしまう。もちろん、これは誤解です。天使はそのような狭い了見の歌を歌ったのではないのです。そもそも、この地上に、神の御心に適う人がいるのか、というと、いないのです。パウロがローマ書の中で言うように「正しい人はいない、一人もいない」のです。しかし、天使は、まさにそういう人々しか生きていない地上に向かって、平和を告げる歌を歌ったのです。なぜでしょうか?

この「御心」というのは、じつは、ただの「心」ではありません。心というより「意思」に近い。つまり「意思的な心」なのです。どのような意思かと言いますと、救いに向かって突き進んでいく意思です。あの人も、この人も捕えずにはおれない意思の力です。この救いに向かう意思の力が向けられている人すべてに平和がある。この神の意思を受け入れる人すべてに平和がある。天使はそう歌ったのです。平和といえば、ルカの師匠であるパウロはローマ書の中で、こう述べました。

「わたしたちは、主イエス・キリストによって、神との間に平和を得ている。」

神との間にある平和だったのです。この平和は、あくまで与えられる平和です。和解を通じて与えられる平和なのです。この平和は、私たちがまだ敵であったときに、すでに備えられていた平和です。その平和が、時満ちて、ついに与えられた。人となって地上に与えられた。それがクリスマスの出来事です。

あの夜、天使たちの歌が地上に響いたように、天の喜びが今地上にある。だから、私たちは神との間に平和を得ている。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」

この歌を今、私たちも歌うことが出来る。クリスマスの平和を味わい知って、感謝をもって歌うのです。

 

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