聖書:イザヤ書7章14節・ルカによる福音書1章26~38節

説教:佐藤 誠司 牧師

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章14節)

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカによる福音書1章38節)

 

アドヴェント・クランツに1本目の明かりが灯って、今日が待降節の第一の主日であることを告げています。

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」

これは今日読んだ旧約のイザヤ書7章14節の言葉です。大変有名な預言の言葉ですが、じつはこの言葉は古代イスラエルの歴史の中で長い間、謎の言葉でした。いったい何を言っているのか解らなかったのです。どうして乙女が身ごもって男の子を産むのか? どうしてその子が、インマヌエル、すなわち「神が我々と共におられる」と呼ばれることになるのか? これらは謎のまま残りました。

この謎が解けたのは、イザヤがこの預言を語ってから700年の後のこと。神がナザレに住む一人の乙女をお選びになったことによって、初めて、イザヤの預言の意味が分かったのです。ルカはその有様を、こう語り始めます。

「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである乙女のところに遣わされたのである。その乙女の名はマリアといった。」

このようにしてルカは、マリアこそが、700年前にイザヤが預言した乙女なのだと語っているのです。

「六ヶ月目に」と書かれています。さあ、六ヶ月前に、何があったのか?

それは1章のはじめに書かれています。神様が天使ガブリエルを遣わして、一人の男の子の誕生を告げたのです。その子は、のちにバプテスマのヨハネと呼ばれて、主イエスの到来を声高らかに告げて、人々に悔い改めを力強く迫る。イエス様が世に現れるための道備えをした重要人物です。

面白いことに、神はこのヨハネの命を、ザカリアとエリサベトという老夫婦の間に宿してくださるのです。このヨハネの母となったエリサベトは、マリアの親類筋に当たります。一方は老婦人、もう一方は十代の乙女です。二人とも、人間の常識では身ごもることなど考えも及ばない。ところが、神様というお方は、人間の常識が思いもつかない人を選ばれる。そしてその人の真っ只中に御業を起こしていかれるのです。エリサベトの妊娠が、まさにそうでした。これが六ヶ月前の出来事です。

ということは、どうでしょう。神様はマリアに御業を告げるまでに六ヶ月待ったということです。時を選んでおられるということです。大変慎重に事を運んでおられるのです。六ヶ月といえば、身ごもったことが誰の目にも明らかになる頃です。その時が満ちるのを待って、神様はマリアに真正面から向き合われたのです。その御心を告げるために、天使ガブリエルが遣わされて来ます。そして、天使は告げます。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

マリアの胸は騒ぎます。当然です。突然、日常生活の中に天使が現れたのです。天使と聞いて、そんなのいるのかなと思う方もおられるかも知れません。また天使といえば、羽の生えた、絵に描いたような姿を連想なさる方もいらっしゃるでしょう。

ところが、聖書が言う天使とは、そういう目で見る視覚的な存在ではない、こういう姿形をしているのが天使というわけではないのです。では、聖書が言う天使とは何なのか?

聖書が言う天使。それは純粋に役割のこと。神様から特別の役割を与えられて、特定の人のもとに遣わされていく。それが聖書の言う天使なのです。ですから、極論をいえば、礼拝の中で神様からたくさんの恵みを受けて、その中で神様から役割が与えられる。そして礼拝の祝祷によってそれぞれの家族のもとに、持ち場に遣わされていく私たちも、知らず知らずのうちに「天使」の役割を果たしているとも言える。

そういうわけだから、天使が告げるのは神の言葉なのです。神の言葉、神の御心をそのまま告げる。しかも、人の日常生活の真っ只中に入り込んで来て、告げる。日常生活というところが大事です。決して改まった晴れ姿の生活の中に現れるのではない。日常生活の中に現れる。それが天使です。だから、ガブリエルはマリアの日常生活の中に入って来たのです。そして「おめでとう」という神の言葉によってマリアの心の扉をノックしたのです。

しかし、マリアにはそれが何を意味するのかが解らない。自分の日常生活と神の御業がどのように結び付くのか。それが解らないのです。そこで天使は言います。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

あなたは神から恵みをいただいた。これはもっと正確に言うなら、あなたはすでに神の恵みに捕らえられているということです。本人すら知らない間に、すでに神の恵みがマリアを捕らえていたのです。

しかし、これは何もマリアに限ったことではありません。私たちの誰もが、あとになって思い至ることではないでしょうか。私たちの心が神様に向かい始めるより先に、神の恵みが私たちを捕らえていたのです。しかし、それは今は解らない。だからマリアは、こう答えるのです。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

マリアはまだ信じられない。あくまで彼女は自分の中に立っている。自分という土俵から一歩も外へは踏み出していないのです。私たち人間は、ここでなら不安なく勝負が出来るという土俵を持っています。ここでなら大丈夫。自信を持って相手に立ち向かうことが出来る。安全圏内と言っても良いと思います。この土俵の中は安全なのです。しかし、冒険が無い。そういう土俵です。

ところが、天使は彼女をいざなう。自分という土俵の外へ、自分だけでしっかりと立つことの出来る安全圏内から一歩踏み出すようにと、マリアをいざなうのです。天使は言います。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」

いかがでしょうか? ガブリエルが着々と駒を進めているのがお解かりのことと思います。あなたは神の力に包まれて、神の子を産むのだと、そこまでガブリエルは言うのです。そして、最後に天使は切り札を出します。

「神に出来ないことは何一つない。」

短い、しかし、決定的な一言です。この言葉が、ついにマリアを揺り動かす。自分の力だけで立つことの出来る土俵から、神に支えていただかないと立つことの出来ない世界へと、一歩を踏み出すのです。そのとき、マリアの口から、本人すら予想だにしない言葉が出て来ます。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

本人すら予想しない言葉、思いもよらない言葉というものがあります。あとになって、こんな弱い私が、なぜあんなことが言えたのかと不思議に思う。そういう言葉を、皆さんも人生のある場面で口になさったことがあると思います。

それは、今思えば、自分の中から出て来た言葉ではないですね。何と言ったら良いか、外から与えられた言葉。さらに言うなら、神様が与えてくださった言葉なのです。マリアの場合が、まさに、そうでした。それは彼女がそれまでの生き方から、一歩、外へと踏み出したことの、しるしの言葉だったのです。

「私は主のはしためです」とマリアは言いました、「はしため」という言葉は今や死後になりましたが、これは「私はあなたの下に身を置きます」ということなのです。神様を主人として、その下に身を置くのです。そしてマリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。

どうして、「お言葉どおり」と言ったのか? それは、日本語の翻訳では伝わってはきませんが、天使が最後に言った「神に出来ないことは何一つない」という言葉の中に「言葉」という単語が出て来るからなのです。天使が告げた言葉を直訳すると、次のようになります。

「まことに神にあっては、語られた言葉が出来事にならないことは、ない」。

神にあっては、語られた言葉は、そのまま出来事になるのだと天使は言ったのです。

「まことに神にあっては、語られた言葉が出来事にならないことは、ない」。

この言葉がマリアを土俵から誘い出すのです。マリアは、その誘いに乗った。誘いの手に乗ったのです。すると、天使は去って行ったと聖書は語ります。神の言葉、約束の言葉がマリアの中に宿ったから、天使は去ったのです。役割が終わったら、天使は去るのです。第2章に出て来る羊飼いの物語でも同じです。あそこにも、天使が羊飼いに救い主の誕生を告げて神を賛美したあと、天使たちは「天に去った」と書いてあります。天使が去るというのは、残された人々に役割が託されたということなのです。マリアが新しい生き方へと生まれ変わったから、天使は去って行ったのです。

マリアが生まれ変わった新しい生き方とは、どのようなものなのでしょうか? それは彼女が口にした言葉に端的に現れています。彼女はこう言ったのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

これは「私はあなたの下に身を置きます。」という意味なのだと申し上げました。私はあなたの言葉の下に身を置きます。あなたの御業の下に身を置きます。だから主よ、お語りください。そのお言葉が私の身の上に出来事となりますように。だから、私はあなたの下に身を置きます。

マリアという人を私たちプロテスタント教会は決して信仰の対象にはしません。カトリックとはそこが違うところです。しかし、私たちはマリアの中に信仰者の姿を見る。

マリアという人は、いつも相手の下に身を置いた人です。夫ヨセフの下に身を置き、天使が告げた神の言葉の下に身を置いた。そして、やがてはわが子がつけられた十字架の下に身を置く定めにある。身を置いて、そこに神の御心を探し求めた人なのです。この出来事にはきっと御心がある。その御心、出来事の陰にある御心を思いめぐらした人です。

羊飼いたちが救い主の誕生を告げたときも、彼女は思いめぐらして、神の御心を尋ね求めました。そして彼女は、十字架の下に身を置いて、御心を尋ね求めたときに初めて理解するのです。なぜ、神の子が人として生まれねばならなかったか。なぜ、自分が選ばれなければならなかったか。

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」

神が私をお選びになったのは、このためであったかとマリアは十字架の下に身を置いて、思い至ったと思います。イザヤが預言した神の御業が成就するためだったのです。この方の十字架において「インマヌエル・神が我々と共におられる」ということが明らかになる。そのことをすべての人に示すために、神は私を選んでくださった。

神様はマリアに秘密を明かされた。御自分の計画を打ち明けられたのです。私はあなたを選んで、あなたの身の上に、私の業を起こす。私はあなたを誘う。あなたはこの話に乗ってくれるか? 神様はそう声をかけてくださったのです。

マリアはこの誘いの手に乗った。信じるほうを取った。だから彼女は「私はあなたの下に身を置きます」と自ら言ったのです。あなたのご計画の下に私は身を置きます。そしてあなたの下に私は生きます。

これによって、マリアの生き方は180度転換しました。自分の力だけで立って行ける土俵から、神様に支えていただかないと立ってはいけない世界、信仰の世界へ一歩を踏み出したのです。これはマリアだけではない。私たちにも開かれている生き方の転換であると思います。

 

 

 

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