聖書:創世記1章27~28節・マルコによる福音書12章13~17節

説教:佐藤 誠司 牧師

「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1章27節)

「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。『なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。』」彼らがそれを持って来ると、イエスは、『これは、誰の肖像と銘か』と言われた。彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らはイエスの答えに驚き入った。」(マルコによる福音書12章15~17節)

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントの信徒への手紙一6章19~20節)

 

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

一度聞いたら忘れられない御言葉であると思います。それだけに、いつも心のどこかに引っかかっている御言葉でもあろうかと思います。聞き流すことの出来ない言葉なのです。この御言葉も、論争の中で生まれました。

しかし、その論争はいかなる論争かと言いますと、お世辞のも真面目な論争とは言いがたい。真剣な議論がぶつかり合った論争ではないのです。主イエスを陥れようとする人々が論争を装って仕掛けた罠なのです。ですからこれは真剣な論争ではない。偽りの論争、不真面目な論争と言って良い。ところが、主イエスは、この論争の不真面目さと偽りを見抜きながら、大変真剣にお答えになった。それが冒頭に紹介した主のお言葉です。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

私たちは今日、この御言葉の意味と、そこに込められた御心を聞き取りたいと思います。

エルサレムでは、すでに主イエスを陥れて、訴える機会を伺っている人々がいたようです。その人々が主イエスの言葉尻を捕らえようと、主イエスのもとにやって来ました。。彼らは主イエスにこう尋ねます。

「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」

明らかにこれは、主イエスを陥れるための罠です。もし、主イエスが、皇帝への納税は律法に適っていないと答えれば、主イエスを皇帝への造反者・反逆者として訴えることが出来る。逆に律法に適っていると答えれば、主イエスは人々の信頼を失ってしまう。いずれにしても、主イエスを窮地に陥れることが出来る、要するに、にたちの悪い質問なのです。

主イエスは彼らのたくらみを見抜いておられました。ですから、主イエスは彼らを軽くあしらってしまっても良かったはずです。ところが、主イエスは、この質問を装った罠の中に、自ら足を踏み入れて、こうおっしゃいました。

「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」

彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、主イエスは言われました。

「これは、誰の肖像と銘か。」

彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスはこう言われたのです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

デナリオン銀貨というのはローマ帝国の通貨ですが、ローマ帝国の勢力の及ぶ地中海世界全体で通用した通貨です。マタイ福音書20章の「ぶどう園の労働者」の譬えに、主人が労働者たちを一日一デナリオンの賃金で雇い入れ、ぶどう園で働かせたことが記されていますから、これはユダヤの人々も普通に使っていた通貨なのです。しかし、ユダヤの人々がデナリオン銀貨に寄せる思いは一種複雑なものがあったようです。

発掘されたローマのデナリオン銀貨が現在も残っております。それを見れば、ユダヤの人々の屈折した思いが伝わってきます。この銀貨には当時の皇帝ティベリウスの像が刻まれていて、そこには「皇帝ティベリウス、神の子と崇められる皇帝」という言葉が記されていたのです。ユダヤの人々は像を刻むことを極端に嫌います。なぜだかお分かりでしょうか? そう、十戒で禁じられていたからです。十戒には「あなたはいかなる像も造ってはならない。それにひれ伏してはならない」という定めがあって、ユダヤの人々は肖像画や銅像の類も偶像礼拝を引き起こすものとして厳しく退けたのです。

ところが、ローマ帝国はそういうユダヤの人々の思いを知りつつ、皇帝に納める税金はこのデナリオン銀貨でなければならないと通達を出しました。ローマ皇帝に税金を納めるだけでも屈辱であるのに、その上、皇帝の像と銘が刻まれたデナリオンでの納税が義務付けられたわけですから、これはユダヤの人々の愛国心と誇りをいたく傷つけました。各地で納税拒否の運動が生まれました。それに対してローマは徴税人をユダヤの人々の中から立てまして、税金を取り立てたわけです。ルカ福音書の19章に出て来たザアカイは、この徴税人の親分だったのです。だから、ザアカイは町の人々に嫌われたのです。

そして、エルサレム神殿では、そんなローマ帝国に対抗して、神殿に納める神殿税と献金はデナリオン銀貨を用いてはならないという通達を神殿当局が出したのです。ユダヤの伝統的な通貨でなければ受け入れないと宣言したわけです。さあ、これで困ったのは一般の人々です。なにせ、日常生活ではデナリオン銀貨が通用しています。いまどき古めかしいユダヤの通貨など使う人はいないのです。そこで、どうしたかと言いますと、エルサレム神殿の境内でデナリオン銀貨をユダヤの通貨に両替をする両替商の出店がいくつも生まれたのです。

主イエスを試して、罠にかけようとした人々も、デナリオン銀貨を持っていたのでしょう。そこで主イエスは「皇帝のものは皇帝に返したらよいではないか」とおっしゃった。もし主イエスのお言葉が、ここで終わっていたならば、たちの悪い質問に、主イエスが上手に答えられたという、何でもないお話になっていたでしょう。しかし、主イエスの言葉は、ここでは終わらなかった。「神のものは神に返しなさい」と、そこまでハッキリ言われたのです。

さあ、いかがでしょうか? 「皇帝のものは皇帝に」と言われた、そこまでは主イエスの言葉の矛先は、主イエスを試そうとした人々にだけ向けられていたのです。従いまして、主イエスの言葉を聞いている私たちも、どこか他人事と言いましょうか、対岸の火事のような気持ちで聞いていられた。他人事として聞けたわけです。

ところが、主イエスが「神のものは神に返しなさい」と言われたその途端、御言葉の矛先は180度転換します。主の御言葉が向けられているのは、もはやあの人たちではない。今や御言葉は神様を信じる者すべてに向けられている。主イエスはこちらのほうへ向き直って、真顔で問うておられるのです。あなたは、神のものを神に返しているか? 本来、神様のものであるはずものを我が物としてはいないか? 神のものを掠め取ってはいないか?

先週も申しましたが、今日の物語は、先週読みました「ぶどう園と農夫」の譬え話と切っても切れない関係にある。この二つのお話は別の物語のようでありながら、じつはお互いが主題を補い合っている、響かせ合っているのです

こんな譬え話です。ぶどう園の主人が農夫たちにぶどう園を任せて、長い旅に出た。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園を任せたわけです。ぶどう園の一切を任された農夫たちは、任された喜びも手伝って、一生懸命に働いたのでしょう。その成果が現れてきました。ところが、収穫を納めさせるために、主人が僕を送ってきた。その僕に農夫たちは何も持たせず、袋叩きにして追い返したのです。あの譬えに出て来る主人は、神様のことでしょう? あの主人は農夫たちの上にふんぞり返って、あれこれ指図をしたわけではない。首根っこを押さえつけて労働を強制したわけでもない。信頼して任せた、任せ切ったのです。

主イエスはあの譬え話で、神様とはこういうお方ではないかと教えておられるのではないでしょうか? あなたがたの父なる神は、あなたがたを信頼してぶどう園を任せておられる。そこでは、あたかも自分が主人であるかのように振舞うことも許されている。そういうことすら許しておられるのが、あなたがたの父なる神様ではないか。しかし、そこで自分が主人になってしまうか、主人を主人として生きるか、そこに生き方の分かれ道がある。使徒パウロは驕り高ぶるコリント教会の人々に向かって言いましたね?

「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるのか。もしもらっているのなら、なぜ、もらっていないもののように誇るのか。」

ここに、一つの主題があります。しかし、皆さん、どうでしょう。主イエスが「神のものは神に返しなさい」と言われるときの「神のもの」とは、そういう私たちの財産とか、収穫とか収入とか、そういう持ち物・所有物のことだけを言っておられるのでしょうか? 皆さんは、どう思われますか。私も、初めはそう思っておりました。しかし、ここまで読み取って来た今、どうもそうではないのではないかと思うのです。主イエスは私たちに問うておられるのです。あなた自身は一体誰のものなのかと問うておられるのではないでしょうか?

今日はマルコ福音書と併せて、創世記第1章27節の御言葉を読みました。創造物語の一節です。創造物語は一見、御伽噺のように展開しながら、じつは人間とは何か、世界とは何かということを神様との関わりの中で明快に語っております。おそらく、21世紀の今日でも、人間と世界と命の関係を、これほど明快に語り得た書物は、ほかには無いでしょう。今日読んだのは、人間の創造の場面です。

「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」

ここに「かたどって」という言葉が出ておりますね? これ、どういう意味なのでしょうか? 「かたどる」という日本語ですと、なんだか、和菓子のお干菓子のように、型枠にはめて造ったような、形を似せて造られたというふうに理解してしまいますが、じつはここは、そういう見た目の形のことではなくて、関係のことなんです。目鼻立ちが似ているとか、足が二本あるとか、そういう形ではない。神様と真向き合いになって、関わることが出来るように造ってくださった、ということです。さらに言えば、神様は人間を「我が子」としてお造りになった、ということです。これが聖書が語っている本来の人間像です。つまり、人間とは神のものなのです。神のものと言いましても、それは神の奴隷とか、神の所有物という意味ではない。神に愛され、信頼され、任されている。そういう意味です。

ということは、どうでしょうか? 主イエスが「神のものは神に返しなさい」とおっしゃった。その意味は、私たちが働いて得た収入とか財産とか、そういう持ち物も、もちろんそうではありますが、究極的には「あなた自身を神に返しなさい」ということではないでしょうか? でも、私自身を神様に返すとは、いったい、どういうことなのでしょうか? ヒントはパウロの手紙の中にあります。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

第一コリント6章19~20節の言葉です。ここにはハッキリと「あなたがたは神のものだ」といわれています。先にも言いましたように、「神のもの」というのは、神の奴隷・神の所有物ということではないのです。あくまで神様は私たちを愛して、信頼して、任せてくださいます。私たちの体も、命も、人生も、任せてくださる。あたかも、私たちが私たちの人生の主人であるかのように振舞うことすら許しておられる。じつに心が広く、おおらかと言いますか、寛容なのです。

しかし、そのときに、ああ、これは神から与えられた人生だ、神様から託された人生なのだと知って生きているのか、それとも、そういうことを全く知らずに、我が物顔で自分が自分の主人になって生きているのか。そこで生き方が180度分かれてしまいます。

私には主人がおられる。神様が主人になっていて、私を我が子と呼んでくださる。そのことを知って生きるのです。そのことを弁えて、私たちは、私の体で、私の命で、自分の人生を生きて良いのです。神様は「お前の体も命も人生も私のものだから、私に返しなさい」とはおっしゃらない。これが、あなたの体だ、これがあなたの命だ、これがあなたの人生だ、そしてこれがあなたの信仰だと言って、送り出してくださる。背中をポンと押して、私たちを押し出してくださいます。そこから始まる人生、生き方こそ、パウロが言う「神の栄光を現す」生き方ではないでしょうか?

「神のものは神に返しなさい」と主イエスはおっしゃいました。それは、あなたの命、あなたの体、あなたの人生を受け取りなおして、神の栄光を現すために安心して行きなさいということではないでしょうか? 「神のものは神に返せ」という主の御言葉は「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という御言葉とピタリと重なる。それこそが今日の物語が語ってやまない福音の真理だと思うのです。

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月25日(日)のみことば(ローズンゲン)

「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない。」(旧約聖書:ハバクク書2章3節)

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(新約聖書:マルコ福音書1章15節)

今日の新約の御言葉は主イエスがその公生涯に入ったときの第一声としてマルコ福音書が伝えている言葉です。「時は満ちた」と言われています。これは、おそらく日本語としては馴染みが薄い、聖書独特の言い回しであると思います。日本語では「時が流れる」という言い方が一般的だと思います。じつは新約聖書にも「流れる時」が出て来ます。「アワー」という英語の元になった「ホーラ」という語です。

しかし、新約聖書はもう一つの「時」があることを告げています。それが「カイロス」と呼ばれる時、「満ちる時」です。カイロスは喩えて言うなら、砂時計が告げる時です。砂時計は流れる時を計ることは出来ません。砂時計が告げるのは、一つの計画の成就・完成だからです。紅茶のポットに砂時計が添えられて出てきたら、それはおいしい紅茶の完成の時を告げている。つまり、満ちる時・カイロスには誰かの計画が秘められているのです。