聖書:詩編118編22~25節・マルコによる福音書12章1~12節

説教:佐藤 誠司 牧師

「農夫たちは息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」(マルコによる福音書12章7~11節)

 

ぶどう園の譬え話です。そこに農夫たちが働いている。そして、ぶどう園の持ち主である主人がいます。そういう設定でこの譬え話は語られていきます。聖書の中にぶどう園が出てきたら、それはまず神の民イスラエルのことだと思って間違いありません。ぶどう園には主人がいるのですが、主人が自らぶどうを栽培したり世話をしたりするわけではありません。主人は多くの農夫たちを雇い入れて、ぶどう園で働かせた。そして主人は農夫たちが安心して家族を養えるだけの賃金を提供したのです。その代わり、農夫たちはぶどうの収穫を主人に納めました。それが主人と農夫の本来の関係だったのです。

ところが、この譬え話に出てくる農夫たちは、どうでしょう?主人はぶどう園を農夫たちに貸して、遠い国へ旅立ちます。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園を託した。任せたのです。

この譬え話の一つの急所は、ここであろうと思われます。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の一切合財を任せた。しかも、その任せ方が半端ではないのです。指図をしているわけでもなく、強制労働を強いているのでもない。ほぼ完全に任せ切っている状態です。しかも、主人は遠くへ旅立っていて、不在なのです。ただこの主人は、このぶどう園が自分のものである証として、農夫たちに収穫を納めさせた。

翻って、農夫たちはといえば、彼らは雇われてこのぶどう園に連れて来られた。主人持ちの身です。雇われなければ、生活の保障もない人たちです。ですから、この主人と出会って、雇われ、ぶどう園に連れて来られたときは、それこそ、感謝もしたでしょうし、主人のために懸命に働こうと決心もしたに違いありません。職を得た喜びがあったでしょう。荒れた土地を耕し、ぶどうを栽培する。主人が自分たちを信頼して任せてもらっている。そこに、ささやかな誇りもあったかも知れません。悪いことではありません。懸命に働くほどに見事に様変わりしていくぶどう園を見ながら、自分たちも結構やるではないかと自分たちの仕事ぶりに満足もしたでしょう。これも悪いことではないと私は思います。

ところが、彼らの中で何かが変わっていったのです。いったい何が変わったのでしょうか? それは収穫の時期になって明らかになりました。主人が収穫を納めさせるために僕を送ったのです。ところが、農夫たちは、この僕を袋叩きにして何も持たせずに追い返したと書いてあります。この主人は収穫の全部を要求はしていないのです。お前たちの取り分は取っておきなさいと主人は言う。ただこのぶどう園の主人としての当然の権利を主人は要求したのです。ところが、農夫たちは、この僕が主人から送られてきた僕であることを十分知りつつ、空手で返した。これは主人に向かって「あなたにあげるものは何一つない」と言ってのけたも同然の振る舞いです。

ところが、主人は怒ることなく、次の収穫の時期に、もう一人の僕を送りました。農夫たちに期待を寄せていたのです。ところが、農夫たちの僕に対する扱いは、前よりも更にひどくなっておりまして、袋叩きにして、から手で追い返すだけでは満足せずに、今度は僕を侮辱したと書いてあります。侮ったのです。これは、とりもなおさず、主人を侮辱したということ、侮ったということです。

しかし、主人は諦めません。なおも農夫たちの望みをかけて、三人目の僕を送りつけるのです。ところが、農夫たちは、この僕に傷を負わせてぶどう園から放り出した。この「放り出した」というのは、追放したということです。主人からの僕を追放した、これは主人を追放したということにほかなりません。つまり、農夫たちは、もはや雇い人ではなく、主人になっているのです。

ところが、ここがこの譬え話の主人の凄いところですが、ここに至っても主人は農夫たちを信頼する。そして、愛する息子を送ろうとまで決心をするのです。6節にこう書いてあります。

「わたしの息子なら、敬ってくれるだろう。」

ずいぶんお人よしの主人だなと思われたかも知れません。しかし、主イエスの譬え話に登場する主人というのは、概してお人よしです。気前が良いのです。しかも、人の心の腹黒さを見抜けないほど、底抜けにお人よしです。疑わないのです。なぜでしょうか? もう、皆さん、薄々お気づきでしょう。主イエスの譬え話に登場する主人や父親というのは、神様のことです。神様はなぜ人間を疑わないのでしょうか? なぜ、人間の心の思いの腹黒さを見抜かないのでしょう? なぜ、人間の罪深さに愛想を尽かさないのでしょうか? 愛しておられるからでしょう? ご自分が造った人間を愛して、信頼しておられるからでしょう? だから、どんなに罪深い人間であっても、その命を惜しんでくださる。エゼキエル書に書いてありますね?「私は罪人の死を喜ばない」と書いてある。あれが神様の御心でしょう?

ところが、人間の思いは、そういう神様の御心から離れてしまう。農夫たちは何と言ったでしょう? 14節です。

「農夫たちは息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』。」

お気づきでしょうか? この農夫たちの言い分は、先ほどの主人の言ったことの、ちょうど裏返しになっていますでしょう? 「これは私の愛する息子だ」と主人は言いました。それに対して、農夫たちは「これは跡取りだ」と言いました。「送ってみよう」と主人は言いました。それに対して「殺してみよう」と農夫は言った。「敬ってくれるだろう」と主人は言いました。それに対して「相続財産は我々のものになるだろう」と農夫は言った。目論見が180度食い違っているのです。

そして、農夫たちは主人の息子をぶどう園から追い出して、ついに殺してしまいます。譬え話は主イエスの次の言葉で終わっています。

「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」

さあ、この譬え話は、いったい、何を語るのでしょうか? 私は、この譬え話には複数の主題が織り交ぜられていると思います。一つは、私たちが持っているもので、私たちのものはあるのかという本質的な問いかけです。その意味では、今日の物語は12節で切るのは不十分でありまして、さらに先へ読み進めて17節まで行かなければならないでしょう。そこには何と書いてあるでしょうか?

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

ここに、ぶどう園と農夫の譬えの一つの主題があると思います。神のものは神に返せ。あの農夫たちが見誤ったのは、ここです。このぶどう園が神のものであることを忘れて、我が物であるかのように振舞った。まさに我が物顔で振舞ったのです。どうして、そうなってしまったのでしょうか? その原因の一つは、このような言い方は不謹慎かも知れませんが、誤解を恐れずに言えば、この主人のあまりの人の良さでしょう。

この主人はぶどう園に陣取って、農夫たちの働き振りを監視していたわけではありません。あごで人を使っていたのではないのです。命令を下しているのでもありません。しかも、遠くにいる。しかし、放任しているのではない。信頼して任せている。私たち人間の自由に委ねておられる。これが主イエスが言われる神のお姿であります。これが主イエスの言われる神の支配なのです。神様のご支配というのは、本質的にそうなのです。神様のご支配は、他のどんな人間の支配よりも自由です。なぜか? 愛しておられるから、信頼しておられるからです。その愛と信頼とに応えて生きる、そのことだけを神様はお求めになる。そういうお方なのです。これは大いなる恵みです。

ところが、ここに恵みと共に落とし穴があると言わざるをえない。あの農夫たちは、この主人がこれほどまでに自分たちを信頼し、任せきっていることを良いことに、自分たちがぶどう園の主人として振舞い始めたのです。彼らは、主人がいないかのように、凡てを任されていました。人間は、神からすべてを委ねられている。それほど深く信頼されている。自由です。しかし、これは与えられた自由です。主人が与えた自由です。ところが、自由を自由に生きることは何にも増して難しいのです。本当の自由とは、主人を受け入れるところから始まる。神を喜んであがめるところから生まれる。そのことを神様は何よりも喜んでくださる。そのような神は、ほかにいないのです。

さあ、そのように考えますと、この農夫たちは、意外と、今の世の中に生きる私たちと重なってくることに改めて気付きます。神様は私たちに多くのことを任せて委ねてくださっています。それはまるで、神不在と思えるほどに、任せてくださっている。しかし、私たちの家族や持ち物、働き、命、といった、大切なものは、いったいどなたが与えて、任せてくださったものなのか? 使徒パウロは驕り高ぶるコリント教会の人々に向かって言いましたね?

「あなたがたの持っているもので、貰っていないものがあるのか。もし貰っているのなら、なぜ、貰っていないかのように高ぶるのか。」

私たちは、私たちを信頼し、すべてを任せてくださるお方のあまりの人のよさに付け込んではいないだろうか? 自分の人生や命を我が物顔で支配してはいないだろうか? 「神のものは神に返せ」と主イエスはおっしゃいます。あなた自身が神のものではないかと主は言っておられるのです。あなた自身を生きた聖なる供え物として、神にささげなさい、と主イエスは言っておられる。これが、この譬え話の一つの主題であります。

そしてこの譬え話には、もう一つの主題があると私は思います。主人が農夫たちのもとへ送ってきた三人の僕たち。彼らは、神から離れてしまったイスラエルの人々を神に立ち返らせるために、神様がお立てになり、遣わして来られた預言者のことでしょう。その預言者たちを人々は追い出し、侮辱し、袋叩きにしたのです。彼らが語る神の言葉を聞かなかったのです。そして主人が最後に送ってきた独り息子とは、いったい誰のことか? もう皆さんお気づきのことと思います。主イエスご自身のことなのです。

その息子を農夫たちは殺しました。主イエスはすでにご自分の死を見据えておられるのです。しかし、主イエスは人々に向かって「あなたがたは私を殺してしまうだろう」と恨みがましく、譬え話で当てこすっておられるのでしょうか? 私は違うと思うのです。主イエスは確かに人々が自分を殺すことも、弟子たちが自分を見捨てることも見抜いておられたに違いありません。しかし、主の眼差しは、もっと奥深いところで焦点を結んでいます。主イエスが譬えを語り終えられたとき、人々は「そんなことがあってはなりません」と憤慨をしました。その人々に向かって、主は「いや、今そう言っているあなたがたも私を殺すだろう」とおっしゃったのではないのです。そうではなくて、詩編118編の言葉を引用して、こうおっしゃいました。

「家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった。」

私の命は奪われる。捨てられる。しかし、その命の上に、まことの神の家が建てられていくのだと主イエスは言っておられるのではないでしょうか? 主イエスの命が土台となって、そこに教会が建てられていく。その教会こそ、新しい神の民、まことのぶどう園ではないでしょうか? 私たちは、主イエスの命に贖い取られて、皆このぶどう園に導かれて来た者たちです。ここで共に主の栄光のために喜んで働いています。「神のものは神に返せ」と主はおっしゃいました。私自身を神のものとして神さまの御用のためにおささげできる幸いが、このぶどう園にはあります。あなた自身が贖い取られて、神様のものとなっている。この奇跡ともいえる出来事を語っているのがこの譬えではないかと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月18日(日)のみことば(ローズンゲン)

「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置き、北と南を創造されました。」(旧約聖書:詩編89編12~13節)

「万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものより先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(新約聖書:コロサイ書1章16~17節)

「世の成らぬさきに」という讃美歌があります。グレゴリア聖歌風のメロディによって歌われるクリスマスの賛美歌ですが、あの曲が歌っているのが「先在のキリスト」ということです。「先在」というのは平たく言えば「創造以前」ということで、「永遠の昔」とも言われます。御子キリストはこの「永遠の昔」にお生まれになって、父なる神と共に創造を決意され、その決意に基づいて万物は創造されました。

この先在のキリストを最も鮮やかに語っているのは、ヨハネ福音書のプロローグですが、それと並んで重要な意味を持つのが、コロサイの信徒への手紙です。この手紙は「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」と明言して、すべてのものが御子において造られたと語っています。造られただけではありません。キリストはすべてのものを統治しておられる。「御子によって支えられている」とは、そういうことです。