聖書:出エジプト記3章5~6節・マルコによる福音書12章18~27節

説教:佐藤 誠司 牧師

「神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』神は続けて言われた。『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」(出エジプト記3章5~6節)

「イエスは言われた。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。』」(マルコによる福音書12章24~27節)

 

福音書を読んでいますと、当時のユダヤで、主イエスと敵対する二つのグループが存在したことが分かります。一つはファリサイ派の人々、もう一つはサドカイ派と呼ばれる人たちです。このうち、ファリサイ派の人々のことは比較的よく知られていると思います。後期ユダヤ教の一つの特徴は、犠牲動物をささげる神殿礼拝から、聖書の御言葉による会堂礼拝へと、礼拝そのものが変化していったことですが、この礼拝改革の立役者となったのがファリサイ派の人々です。ファリサイ派は律法学者を多く輩出しましたから、律法学者といえばファリサイ派という印象を私たちは持っています。大変に禁欲的で真面目、律法に忠実なファリサイ派の人々は、復活を信じましたし、天使の存在も信じておりました。

それに対して、死人の復活なんてあり得ない、天使なんか信じない、と、そう主張したのが、サドカイ派の人々です。この人たちは神殿に仕える祭司の中でも、上級階級の祭司を多く輩出し、中でも大祭司や祭司長と呼ばれる上級祭司のほとんどがサドカイ派であったと言われます。そういうことからサドカイ派の人々は「神殿貴族」とも呼ばれたのです。

貴族ですから、暮らし向きも豊かです。当時の世界共通の教養であるギリシア文化にも通じていて、なかなかのインテリが多かったようです。そういう人たちが復活を否定し、さらに天使の存在をも否定した。もうそれだけで、彼らの思想が浮かび上がってきます。サドカイ派の特徴は現世中心主義なのです。生きてるうちが花という考え方です。ですから、死後の復活などに望みを繋がない。現実的なのです。

そういう人々ですから、世俗的で現世利益を追求するサドカイ派と宗教的で禁欲的なファリサイ派は、まさに水と油です。わけても、この二つのグループが最も深刻に対立をしたのが復活をめぐる論争です。サドカイ派の人々が復活をめぐってファリサイ派の人たちをやっつける。そのための論法が今日の個所に出て来ます。彼らは主イエスにこう尋ねたのです。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。」

じつはサドカイ派の人々はモーセの教えを大変に尊んだことで知られます。旧約の最初の五つの書物、創世記から申命記までの五つの書物をモーセ五書といいますが、サドカイ派の人たちはモーセ五書さえあれば、ほかは要らないとまで考えたようです。19節の括弧にくるまれた言葉も、モーセ五書の一つである申命記25章の言葉です。その言葉を根拠にして、彼らは主イエスに問うのです。

「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

いかがでしょうか? 私は、これは不真面目な議論だと思います。実際にこういう女性が存在していて、その女性が、自分が復活した時、いったい誰の妻になるのかと思い悩んでいて、サドカイ派の人たちがこの女性に深く同情してイエス様に相談にきたというのではない。これは明らかに架空の想定に基づく空論です。クイズ感覚の言葉の遊びに過ぎない。実際、彼らは復活を信じていないわけですから、復活の時どうなるかという問いかけは、議論としても成り立たない。不真面目な言葉のゲームです。

しかし、そう思いつつ、私は、現代に生きる私たちは、案外、このサドカイ派の人たちのような考え方をしているのではないかとも思います。では、サドカイ派の人たちの問題点とは何でしょうか? それは、せっかく申命記の御言葉を引用しておきながら、自分の腹の中にある常識や本音から一歩も外に踏み出そうとしていない点にある。聖書の御言葉によって自分が変えられていくのではなくて、逆に聖書の言葉を常識や本音という自分の土俵の中に引き込んで、自分の物差しで聖書の言葉を解釈している。そこが問題なのです。

しかし、そういう問題は、何もサドカイ派だけのものではないと私は思う。復活をめぐってサドカイ派と対立をしていたファリサイ派の人々は、どうであったか? じつは、この七人の兄弟と一人の妻の話は、当時、サドカイ派の人々がファリサイ派の人々を論破するために用意していた難問集の一つなのですが、ファリサイ派の人々はこれに答える模範解答のマニュアルをちゃんと作っていたそうです。それによりますと、ファリサイ派の人々は、この女性は復活した後は、最初の夫である長男の妻となるべきだと答えたというのです。

さあ、これをお聞きになって、皆さんはどう思われるでしょうか? 私は、やはりこれも空しい議論だと思います。ファリサイ派の人たちの答えは、一見、見事に、サドカイ派の人々の仕掛けた難問に答え得たかに見える。しかし、結局は同じレベルなのです。同じレベルの反対側からの結論に過ぎません。

さらに、ファリサイ派の人々は、こんなことまで大真面目に論議したようです。死んで埋葬されるとき、死者の衣を着せられては、復活の時に場違いな格好になるので、自分だけは復活にふさわしい白い衣を着せて葬ってほしいと願ったり、怪我や病気で死んだ人は怪我や病気のまま復活するのかとか、そういう議論を熱心に戦わせたようです。

結局、ファリサイ派の人たちも、サドカイ派の人たちも、同じレベルなのです。まず、自分の常識や本音があって、そこに合わせて聖書の言葉を自分流に解釈している。だから、聖書の言葉、神の言葉によって自分の生き方が根底から変えられていく、という肝心要の一点に思いが及ばないのです。まさに、その一点において、サドカイ派とファリサイ派は、導き出された結論は正反対ではありますが、ものの考え方においては、まるで瓜二つ、双子の兄弟のように似ています。

さあ、そういう議論に、主イエスは、どうお答えになったか? イエス様はサドカイ派の人たちの議論が持っている不真面目さを見抜いておられたと思います。ですから、主イエスは彼らの問いかけを無視なさっても良かったはずなのです。しかし、主イエスは、そうはなさらなかった。主イエスはこうお答えになったのです。

「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

さあ、ここは大変に大事なことが言われておりますので、心して読み取りたいと思います。主イエスはここで何を言っておられるのでしょうか? めとったり嫁いだりする。あるいは、この女性は誰の妻で、この人は誰の夫か、この人は誰の子で、誰の親か。そういうことはこの世の絆なのだ。復活というのは、そういうこの世の絆を引きずったまま起こるのではない、と、主イエスはそう言っておられるのではないでしょうか。誰の妻、誰の夫、誰の子、誰の親ではなく、等しく神の子とされる。復活とはそういうことなのだと主は言われるのです。だから、復活とは、純粋に神の御業であり、人がああだろうか、こうだろうかと詮索すべきことではない。あの黒い服を着せられて葬られたら復活した時に恥をかくとか、病気で死んだら病気のまま復活するんじゃないかとかいった詮索は、もはや要らない。神様が天地創造の昔に、命をお造りになったことを信じるならば、一度死んでしまった命を、この世の終わりに、神様がもう一度よみがえらせてくださることを、どうして信じないのか? イエス様が言っておられるのは、そういうことではないでしょうか。

しかしながら、まだ一つ、ひっかかることが、ある。おそらく、ここで皆さんが一番困惑を覚えられるのは、26節の言葉ではないでしょうか?

「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」

この「柴の個所」というのは、出エジプト記の第3章、燃える柴の中から神様がモーセに語りかけられたところです。神様がモーセと出会って、モーセに使命を与えられるところです。あそこで神様はモーセに自己紹介をなさいました。「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった。でも、どうしてそれが、死者の復活をあらわす言葉になるのでしょうか? 考えてみれば、不思議です。

じつは、こういうところは、日本語の翻訳では伝わりにくいのですが、神様はここでモーセに自己紹介をするのに、現在形で言っておられる。過去形ではないのです。どういうことかと言いますと「私はかつてアブラハムの神でした、次にイサクの神になりました。ヤコブの神もやったことがあります」というふうには言っておられない。あくまで現在形で語っておられるのです。しかも、この現在形は、私たちの思いをはるかに超えて、大変に強い意味を持つ、いわば特別の現在形なのです。言葉を補って言いますと「私は今もなおアブラハムの神である。今なおイサクの神であり、ヤコブの神である」というふうに「今もなお」とか「今に至るまで」という非常に強い意味が秘められている。そういう現在形なのです。

これは、どういうことかと言いますと、「私はアブラハムの手を離していない」ということなのです。確かにアブラハムは死にました。イサクも死にましたし、ヤコブも死んだのです。だから、聖書は彼らの墓のことまで記します。しかし、神様は、生前のアブラハムを選び、愛し、導いたその手を、今もアブラハムから離してはおられない。

私たちは、愛する人が亡くなりますと、亡き人の手にすがり付いて涙します。それこそ、ありったけの力を込めてすがり付きます。しかし、いつかは、すがり付いたその手を離さなければなりません。これはもう、どうしようもないことです。

私は、父と母を送りましたが、棺が閉じられるとき、斎場の炉の扉が閉ざされるとき、私は、父や母から手を離さざるを得ない自分というものを感じないわけにはいかなかった。私たちは、愛する人の手を、いつかは離さなければならないのです。しかし、神様は手を離さない。離さないで、ご自分の御手をもってアブラハムの死んだ命をしっかりと支えておられる。だから、神様は「私は今もアブラハムの神であり、今もなおイサクの神であり、ヤコブの神である」と言われる。神様は死んだアブラハムの手を離してはおられない。あの現在形は、そういう意味だったのです。

そして大事なことですので、聖書が語る現在形について少しお話ししますと、モーセが神様から使命を託されて、神様に問い返しますね。人々があなたのことを聞いてきたら、どう答えればいいですかと尋ね返しました。そのとき、神様はどう言われたでしょうか?

「わたしはある。わたしはあるという者だ」とおっしゃたでしょう? あれも現在形ですね。「私はあった。私はかつてありました」という過去形ではない。しかも、この現在形は大変に強い意味を持っている。決して古びないのです。普通の現在形は、まるで日めくりのように、日がたてば過去のものになってしまいます。今日の現在形は明日になれば過去形になってしまう。

しかし、神様の言葉の現在形は違います。決して古びない。永遠の現在形とでも言いましょうか。100年たとうが1,000年たとうが、私はある、ということです。これはどういうことかと言いますと、私は今、あなたに語りかけている、ということなのです。だから、私たちは、2千年前の聖書の言葉を、今、私たちに語り掛けられている今の言葉として聞くことが出来るわけです。

あのとき、モーセは、そういう神の語りかけを信じたのです。あのとき、神様はモーセにおっしゃいました。「私はアブラハムの神である。今もなお、アブラハムの神であり、今なおイサクの神であり、ヤコブの神である」と、おっしゃった。アブラハムは死にました。イサクもヤコブも死んでいます。それはモーセも知っている。しかし、モーセは、神様が死んだ彼らから手を離すことなく、支え続けておられることを知る。そしてその神様にすべてを委ねることを知るのです。「私はアブラハムの神であり、イサクの神、ヤコブの神である」と言葉としては、ここで終わっていますが、モーセが聞いたメッセージはさらにこう続きました。

「そして、わたしはあなたの神である。あなたの神であり続ける。」

どうしてモーセはそこまで聞くことが出来たのでしょうか? それは、モーセが礼拝をしていたからです。靴を脱ぎなさいと神様が言われたでしょう? あれは礼拝するということです。礼拝で聞く神の言葉は、いつだって現在形です。しかも、決して古びることのない永遠の現在形なのです。

主イエスもこれと同じ現在形でご自身を現されました。ヨハネ福音書にそれは出て来ております。

「わたしは甦りであり、命である。」

これは、かつてイエス様がこうおっしゃいましたよ、というのではない。生ける主が、今、この礼拝の中で私に語りかけておられる、ということです。復活を信じるとは、このお方にすべてを委ねることです。その主イエスが「すべての人は神によって生きる」とおっしゃいました。すべての人ですよ。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、そして私たちが先に天に送った親しい人々も、神によって生きる。これも永遠の現在形です。神が生きて働いておられる。手を離すことなく、しっかりと命を支えて御子の命に与る者としていてくださる。だから私たちは復活の望みに生きることが出来る。そこにこそ私たちの望みはあるのです。

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月2日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。」(旧約聖書:詩編119編64節)

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(新約聖書:ヨハネ福音書15章12節)

ヨハネ福音書の13章から17章には、主イエスが十字架にかけられる前の晩に弟子たちになさった御業と、お語りになった言葉が記されています。弟子たち一人ひとりの足を洗い、食卓を囲み、遺言ともいえる御言葉を語ってくださいました。その御業と御言葉を、もし一言で言い表すなら、それはおそらく「弟子たちを愛し抜かれた」ということになるでしょう。

ところが、ここが主イエスの愛の大いなる特徴だと思うのですが、主イエスの愛は、それだけで完結しないのです。完結して終わりというのではなく、続きがある。弟子たちが跡を引き継ぐのです。弟子たちの足を洗ってくださったときは「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。そして「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。「互いに」「共に」ということが、主イエスの弟子たちのしるしになって2千年。これが今も生きている喜ばしい「掟」になりました。