聖書:イザヤ書65章1~2節・マルコによる福音書12章35~37節

説教:佐藤 誠司 牧師

「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を屈服させるときまで」と。』 このように、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」(マルコによる福音書12章24~27節)

 

皆さんも経験がおありかと思いますが、福音書をずっと読み進めておりますと、ときに、これどういう意味なんだろうと、ふと立ち止まってしまうような御言葉に出会うことがあります。おそらく、今日読みました個所などは、その典型ではないかと思います。ここは、主イエスが誰かと論争したとか、誰かに御言葉を語られたというのではない。主イエスの独白と言いましょうか、答えの無い問いを主イエスがご自身に向けておられる、と見ることが出来る。主イエスはこう言っておられるのです。

「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を屈服させるときまで」と。』 このように、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

一読して何が言われているのかお解かりになった方は、少ないのではないかと思います。何を言おうとしておられるのか、その真意が量りにくいのです。しかし、分かりにくいなりに伝わってくることある。どうもイエス様は困惑しておられるのです。人々がイエス様に寄せる期待が日を追うごとに膨らんでいます。どういうことかと言いますと、ローマ帝国の支配を打ち破って、ダビデ王の栄光をもう一度この国に打ち立ててくれる。そういうメシアの登場を人々は長い間渇望していたわけですが、主イエスこそそのメシアであるという期待を人々は募らせているのです。

身勝手な期待であるかも知れません。しかし、そういうメシア待望に望みを繋がなければ、とても希望を持って生きることが出来ないほど、ユダヤの人々は不幸な道を歩んできたのです。ユダヤの国は小さな国です。常に周りの大国の脅威にさらされてきた。いや、脅威だけではありません。実際に支配と侵略を蒙ってきたのです。その忍従の歴史の中で人々の間に生まれてきたのがメシア待望だったのです。

ついでに言いますと、新共同訳は「メシア」と訳していますが、ここは以前の口語訳聖書は「キリスト」と訳しておりました。キリストとメシア。どう違うのかと言いますと、ヘブライ語の「メシア」をギリシア語に翻訳するさいに「クリストス」という言葉を当てました。今では「メシア」も「キリスト」も共に「救世主」という意味で知られていますが、もともとはそうではない。これは旧約の時代に遡りますが、「油注がれた者」という意味があった。王が即位するさいに、頭に香油が注がれた。そこから、メシア・キリストは、当初は「まことの王」として人々が待望するようになったのです。それが時代が下りまして、主イエスが登場なさるより少し前あたりから、人々の間に、王だけでなく、さらに祭司と預言者の三つの務めを兼ね備えたメシア・キリストが現れるのだというメシア待望の心が生まれてきたわけです。王と祭司、預言者の三つの務めを兼ね備えるのです。

王の務めとは、何でしょう? そう、支配することですね。しかし、支配の中身が問題です。人々を武力でもって無理やり支配する王はたくさんいます。ところが、真実の力、愛の力によって人を心の底から支配する王は、これまで一人でもいただろうか? いなかったのです。

祭司の務めとは、何でしょうか? そう、神と人との間に立って執り成しをする。犠牲をささげて罪の償いをする。それが祭司の務めです。しかし、現実はどうだったでしょうか? 現実に神殿にたくさんいる祭司は、ただの職業人としての祭司でしかなかった。お仕事として神殿祭儀を行っていたに過ぎません。真実に神と人との間に立ち、神様に執り成しの祈りをささげる祭司は、一人としていなかったのです。

預言者の務めとは何でしょうか? そう、神の言葉を取り次ぐことです。しかし、人を恐れず、この世の権力に屈せず、神の言葉を曲げずに語る預言者は、今や稀になっていました。人々の喜ぶような甘い言葉を語る偽預言者がたくさんいたのです。

このように、まことの王でさえ珍しい存在であった。まことの祭司でさえ極めて稀であった。まことも預言者というだけでも、珍しい存在でありました。このように、王と、祭司と、預言者。この三つのうち、一つだけであっても極めて珍しい、稀な存在であるのに、王と祭司と預言者の三つの務めを兼ね備えるメシアが登場するなんて、いったい、そのメシアは、どこに登場するのでしょうか?

そこで浮上してきたのがダビデの血筋です。ダビデはイエス様の時代よりも千年も昔の人ですが、ユダヤの国はダビデとその子のソロモンの時代だけ、栄えていた。まあソロモン王の時代は、それでも、かなり無理がありましたが、ダビデ王の時代は、それこそ黄金時代でありまして、ユダヤの人々にとってみれば夢のような時代であったわけです。ですから、ダビデ王とその時代への憧れは、ユダヤの人々が外国の支配によって散々苦労をする中で、なお一層膨らんでいきました。ダビデはすぐれた詩人でもありましたから、全部で150ある詩編のすべてがダビデによって書き記されたものなんだと信じられるようになりました。それほど、ダビデの名前は大きく、絶対的なものだったのです。

こうして、メシア待望とダビデへの憧れとが結び付いて、メシアがダビデの血筋から生まれるという信仰が人々の間に生まれたのです。ルカ福音書は主イエスの誕生から物語を語り始めましたが、受胎告知の場面で天使ガブリエルがマリアにこう言いましたでしょう?

「あなたは男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」(ルカによる福音書1章30~32節)

ちゃんと父ダビデと言われているわけです。ところが、今日の個所を見ると、どう書いてありますか?

イエス様ご自身が、こう言っておられるでしょう?

「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」

明らかに訝っておられる。怪訝に思っておられるのです。人々が「メシアはダビデの子だ」と言って待ち望んでいるのを訝っておられる。これはいったい、どういうことなのでしょうか? 主イエスは、メシアはダビデの血筋から生まれると固く信じている人々を否定しておられるのでしようか? 私はそうではないと思うのです。主イエスというお方は、人々が素朴に信じているメシア待望を頭ごなしに否定するようなお方ではありません。では、主イエスはここで何を訝っておられるのでしょうか?

こういうことは考えられると思います。確かに人々は、長く続く不幸な歴史の中で救い主を待ち望んでいたでしょう。しかし、救いを求めるその心の中に、いつの間にか、救いのしるしを求める思いが混じり込んできたのです。使徒パウロの手紙に、こんな言葉がありますね?

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を捜し求める。」(コリントの信徒への手紙一1章22節)

ユダヤの人々は「しるし」を熱心に求めるのです。これは出エジプトの昔からそうです。ユダヤの人々の信仰の形と言いますか、信仰の姿は、しるしを求めることだったのです。では、しるしと言うのは、本来、どういうものであったかと言うと、元々は、神様が私たちを愛してくださる、憐れんでくださる。その愛とか憐れみ、慈しみがハッキリと形を取って現れてくる。それを「しるし」と呼んだのです。

例えば、神様がイスラエルの人たちをエジプトから救い出してくださいました。イスラエルの人々を荒野でマナを与えて養ってくださった。これらは皆、しるしなんです。その背後に神様の愛や慈しみ、憐れみがあるからです。神様がイスラエルの人々を憐れんでくださったから、マナが与えられたわけです。ですから、しるしを求めるというのは、本来は、決して間違ったことではない。神様を信頼しているから、しるしを求めることになるわけです。

ところが、ここが人間の弱いところなのですが、ユダヤの人たちは、いつの間にか、しるしというものを、少しずつ取り違えてきたのです。ヨハネ福音書の第6章にイエス様が五つのパンと二匹の魚で5千人の人々を満腹させたというお話がありますね。このお話そのものは他の福音書にも載っていますが、ヨハネ福音書はこのあとの展開が変わっています。主イエスの御業を見た人々が主イエスを自分たちの王にしようとして追いかけて来るのです。その人々に向かって主イエスはこう言っておられる。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(ヨハネによる福音書6章26節)

この言葉は、ちょっと見ると、何を言っておられるのか皆目分からないと思いますが、こう考えてみてください。人々はパンの奇跡を見て「これは素晴らしい神の御業だ」と思ったから、イエス様を追いかけてきたわけでしょう? それなのに、イエス様は「あなたがたはしるしを見たから私を追っているのではない。パンを食べて満腹したからだ」と言っておられる。これ、どういうことかと言いますと、あなた方は、本当にしるしを求めているのではない、と主イエスは言われたのです。あなたがたは腹を満たしただけではないかと言っておられる。満腹したというのは、腹を満たしたということです。で、彼ら腹の中にあるものは何であったかというと、自分の腹の中に自分の物差しを作って、その物差しに合うことをイエス様がやってくれたら、ああ、これは神様の御業だ、しるしだと、そのように考えるようになっていったのです。

そういう考え方の根底にあるのは何かと言うと、自分中心主義なのです。自分の宗教心と言いますか、自分の熱心さを基準にして、それに合格すれば「これは神様から来た人だ、とか、これはそうではない」と決めてかかる。どこまでも自分が中心なのです。

ところが、神様はそういう人間の基準や物差しなんか乗り越えて、本当に私たち人間を救うために御業を起こしていかれる。そういう神様の救いの御業、本当のしるしと出会った時に、ユダヤの人々は自分の物差しや基準でこれを拒んでしまう。本当のしるしというのは、その背後に神様の愛や憐れみ、慈しみがあるのです。ただ単に目を見張るようなことがしるしなのではない。ところが、人々はそういう目を見張る事を自分の物差しで求めたのです。要するに、自分の気にいったしるしを求めたわけです。

しかし、神様のなさり方は違いました。ご自分の独り子を十字架につけて人間の罪を贖うという思いもよらない御業を貫徹なさった。私たち人間は、愚かな弱い者ですから、それこそお腹がすいたら「パンをください」と願い、病気になったら「治してください」と願う。そういう決まりきったことしか願わない。ところが、神様はそういう人間を捨てないのです。そういう願い事しか出来ない人間を馬鹿にしたりなさらないで、そういう人間の根源的な罪をご自分の身に一身に引き受けて、死ぬ。そういう救いの御業を引き起こしてくださったのです。これが本当のしるしなんだよと言って示してくださった。神様はしるしを否定しておられるのではない。自分の基準や物差しをもって神様のしるしを計ってしまう人間を憐れんでおられるのです。だから、主イエスがベツレヘムの馬小屋でお生まれになったとき、天使は羊飼いに告げたでしょう?

「これが、あなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書2章30(ルカによる福音書2章12節)

この幼子こそまことのしるしなのだと天使は告げたのです。

さあ、しるしって、何なのでしょうか? しるしというのは、神様が私たちを愛しておられる、慈しんでおられる。憐れんでくださる。その愛や慈しみ、憐れみが、止むに止まれない思いによって、目に見える形をとって現される。救いの御業となって現されてくる。それが本来のしるしです。

ならば、しるしというのは、言葉を替えて言えば、救いの事実のことです。天使は幼子イエスはしるしなのだと言いました。この幼子が神の子でありながら、人として生まれてくださった。これは事実です。そしてこのお方が十字架の上で死んでくださった。これも事実です。そして三日目に甦ってくださった。これも事実です。事実というのは強いです。事実を前にしては、私たちの思いや理屈なんてものはまるで歯が立たない。だから、神様は、決定的な事実をこの世に起こされたのです。

ところが、事実というのは確かに強いのですが、人間というのは事実によっては救われるわけではないのです。そうでしょう? イエスというお方がダビデの血筋に生まれてくださった。これは、神様が人となってくださったということでしょう? しるしとなってくださった。事実となってくださったということです。主イエスの誕生も、十字架も、復活もしるしです、事実です。しかし、人は事実によって救われるでしょうか? そうではないですね。

しるしというのは、その背後に神様の呻くような、苦しみのような愛がある。慈しみがある。胸を焼くような憐れみがあるのです。その愛や慈しみ、憐れみが、私のためのものであったのだと分かる。そこが大事なのです。それを私たちのところへもたらしてくれるのが福音なんです。福音というと教えのように思っている人がいますが、それは間違いです。教えというのは、私たちがそれを聞いて、気に入ったら受け入れる、その教えを参考にしてやっていく。それが教えです。けれども、福音は教えではない。神様はこのしるしをとおして、この事実をとおして、あなたを愛しておられる、憐れんでおられる。慈しんで、あなたの罪をまるごと贖ってくださる。この知らせ、しるしの背後にある愛を知らせる。それが福音です。この福音を「ありがとうございます」と言って、受け取るのが「信仰」です。

福音を目一杯に受け取るためには、空っぽになっていなければいけません。自分の中に理屈や物差しをぎゅうぎゅうに詰め込んだまま、そこに福音も一緒に頂きます、というわけにはいきません。一度空っぽにしていただくのです。福音書の中に、イエス様から「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただいた人が何人もいます。彼らに共通するのは、何でしょう。そう、一度自分を空っぽにしていただいたということです。パウロもそうでした。ペトロもそうです。だから立ち直ることが出来たのです。

パウロは「福音を恥としない」と言いました。これは大見得を切っているのではないですね。喜んで言っている。私たちも同じです。福音を恥としない。これは言い換えますと、福音を喜ぶということ。福音を喜ぶから、その喜びを伝えることも出来るのです。この喜ばしい務めに、今週もこの礼拝から押し出されて行きたいと思います。

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月9日(日)のみことば(ローズンゲン)

「その集いは、わたしの前に固く立てられる。」(旧約聖書:エレミヤ書30章20節)

「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」(新約聖書:エフェソ書2章19節)

パウロが基礎を据えた教会は、ほぼすべてが異邦人教会でした。ただ、異邦人教会とは言われますが、その構成の実態はユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の混合教会であり、この両者の交わりが重い課題となっていました。福音にユダヤ人向けと異邦人向けの差別はありません。パウロにとって、主にある交わりとは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に一つの福音に与ることだったのです。

パウロは言います。キリストは私たちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り壊し、律法を廃棄された。こうしてキリストはユダヤ人と異邦人の双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて、平和を実現してくださった。このキリストによって、両方の者が一つの霊に結ばれて、共に父なる神に近づくことが出来るようになったのです。