聖書:詩編51編18~19節・マルコによる福音書12章38~44節

説教:佐藤 誠司 牧師

「イエスは教えの中で言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』」(マルコによる福音書12章38~40節)

「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」(マルコによる福音書12章43~44節)

 

今日はレプトン銀貨二枚をささげたやもめの物語を読みました。しかしながら、今日は、このやもめの物語だけではなく、その前の物語から読みました。主イエスが律法学者を厳しく批判しておられる物語です。どうしてこの厳しい物語と、あの美しいやもめの物語が結び付くのでしょうか? 主イエスは、ここでこう言っておられる。

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

このあとに、レプトン銅貨二枚をささげたやもめのお話が続くわけですが、この二つの物語がどう繋がってくるのでしょうか? まず、一つ言えることは、主イエスが「律法学者に気をつけよ」とおっしゃるとき、それは決して他人事ではないということです。「律法学者に気をつけなさい」というのは、「あの連中に気をつけなさい」というふうに、他人のことを言っておられるのではない。あなたがたの中に潜む律法学者的な思いに気をつけなさい、ということです。では、私たちの中に潜む、「律法学者的な思い」とは、どういう思いなのでしょうか?

主イエスの言葉の中に登場する律法学者の一番の特徴は何でしょうか? そう、人目につくことを好むということです。しかも、人々に見られて、人々の賞賛を得る、あの人は立派な信仰者だなあと人々の賞賛を得られる。そういうことを好むのです。これはじつは律法学者だけの問題ではありません。私たち人間が皆持っている思い、正直な思いです。褒められたい、認められたい、賞賛されたい、そういう思いは誰の心にもあるものです。また、それは、決して非難されたり、排斥されたりすべきものではありません。しかし、それが信仰の世界に入り込んでくるときに、様々な問題を生じさせてくるわけです。

使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙の中に「信仰の法則」と「行いの法則」という言葉が出てきます。ローマ書の3章27節以下に、こう書かれています。

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」

ここでパウロが言っているのは、信仰の事柄に行いの法則を持ち込むなということです。信仰の法則というのは、私たちは行いによって義とされるのではなくて、信仰によって義とされるのだという鉄則です。これはもう、キリスト者の方ならよくご存知のことでしょう。

ところが、ここがまことに厄介なところなのですが、私たちが本当に信仰の法則のもとに生きているかというと、これがなかなか難しいのです。やっぱり行いの法則で物事を判断したり、人を評価したりしている。「行いではなくて、信仰が大事だ」とよく口では言いますが、そういう場合でも、自分の信仰というものをいつも問題にするのではないでしょうか。どうも最近、自分の信仰は弱いとか揺らいでいるとか、そういうふうに自分が持っている信仰というものを評価して、喜んだり、がっかりしたり、まさに一喜一憂するわけです。

これは、なるほど一見、信仰に立っているように見えますが、じつは行いの法則に生きている生き方です。この「行いの法則」の「行い」というのは、ただ単に外に現れた行為のことではありません。行いの法則の一番もとにあるのは、人間を、その人が持っているものによって評価するということです。立派なものを持っておれば立派な人だ、持っていなければダメな人間だと。そういうふうに、その人の持っているもの、あるいは、その人の性質や性分で、その人を評価して、この人は合格、この人は落第と、そう決め付けるのが「行いの法則」です。

そう考えますと、案外、私たちはキリスト者になってからも、ずっと行いの法則に捕らわれている、行いの法則で他人を裁き、自分を評価していることに改めて気付きます。で、それが原因で、信仰生活にどこか不安がつきまとうわけです。自分を顧みて、とてもじゃないけれど、神様に褒めていただけるような信仰生活ではないと思っている。一見、謙遜に見えます。しかし、これは、つまるところ、行いの法則から一歩も出ていない生き方です。

では、信仰の法則とは何かと言いますと、それは「自分を問わない」という一言に付きます。自分を問題にしない。反省しないのです。自分はダメな人間だとか、自分は立派だとか、熱心だとか、いい加減だとか、自分の値打ちで物事を判断しない。自分を問題にしないのです。では、何を問題にするかというと、神の恵みを、いつも見ている。この私という人間の歩みの上に、神様がどんなに大きな恵みを備えてくださったか、その一点に、いつも目が届いている。それが「信仰の法則」です。

皆さんも、ご自分のこれまでの歩みを振り返って、神様の恵みが見えておられると思います。「恵みを数える」という美しい言い方が教会にはありますね。私たちが神様の恵みに目が届くのは、どんなときですか? 自分のやったこと、努力したことを、手柄に思っているうちは、神の恵みは見えてはこないでしょう? そうではなくて、「いさおなき我を」という讃美歌があるように、あれは、何も出来ない、何も出来なくなった。そのときに生まれてきた讃美歌でしょう? 恵みが見えた人が歌った讃美歌です。

マタイ福音書の20章に有名なぶどう園の主人の譬え話があります。ぶどう園の主人が朝早く、ぶどう園に労働者を雇うために出て行った。夜明けと共に主人は出て行きます。そして労働者を雇って、一日働いたら1デナリオンあげますという約束をする。主人はそのあと、12時にも、3時にも、そして夕暮れ近い5時ごろにも市場に出て行って、仕事にあぶれた人々を自分のぶどう園に雇い入れる。さあ、やがて夕暮れが迫って、その日の賃金を支払うときが来ます。このときに、最初に雇われた人から順に賃金が支払われたていたら、問題は起きなかったでしょう。

ところが、この主人のやり方は違いました。最後に来た人に、まず1デナリオンあげました。これを、朝早く来た人がじいっと見ておりまして、ぬか喜びをする。あの連中が1デナリオンもらえたのだから、朝一番に雇われて丸一日働いた我々はさぞやどっさり貰えるだろうと、大いに期待をしていたのです。ところが、結果はどうだったでしょう。貰えたのは、やはり1デナリオンであった。これでは不当ではないかと青筋を立てて文句を言い立てる。そのときに、主人は何と言ったでしょうか。

「わたしは、あなたと一日1デナリオンの約束したではないか、わたしは何も不正はしていない。しかし、この最後に来た人たちは、一日中、市場で立ち尽くしていた。その人たちにも、わたしは同じようにしてやりたいのだ。」

この最後の者にも、私は、同じようにしてやりたいのだと、あの主人は言いました。この主人って、誰のことですか。そう、神様のことでしょう? 皆同じデナリオンを、この主人から貰っているのです。「恵み」というのは「貰いもの」のことです。ところが、その貰い方と言いますか、受け取り方が、人によって全然違う。朝早く来た人は、確かに一日中働いた。一生懸命働いたのです。自分はあの主人のために、あれもやった、これもやったと心の中で思うところがあるわけです。これが「行いの法則」の考え方です。デナリオンを貰いました。手の中に確かに約束のデナリオンがあるのです。しかし、「恵み」が見えていない。見えているのは、「報酬」としてのデナリオンです。だから不平不満が噴出するのです。

けれども、最後に来た人は、このデナリオンをどう受けたでしょうか? 恵みとして受けたのです。主人が恩恵として与えたものを恵みとして受ける。「ありがとうございます」と言って受け取る。これが「信仰の法則」ではないでしょうか?

さあ、イエス様はこの譬えで何を言っておられるかというと、あなたは神の恵みが見えているかということでしょう? 私たちは、ついすると、自分の働きに対する報酬として、神の恵み、神様の救いを考えてしまいますが、本当はそうではないのです。神様が主イエスによって与えようとしておられるのは、この最後の人にあげたデナリオンと同じように、無条件で与えるものなのです。このことが本当に分からないと、神様の御心は分からない。しかし、この御心は、私たちの常識では考えられないことです。私たちは、あまりにも、行いの法則に慣れ親しんでいます。朝から来た人と夕暮れに来た人に同じように賃金が支払われたら、誰だって文句を言うでしょう。

さあ、同じようなことを、私たちは信仰生活の中でしているのではないでしょうか? そして自分のような者は恵みを受ける資格は無いとか、値打ちも無いとか思ってはいないでしょうか? ここは大事ですよ。私たちが信じている神様は、そんな了見の狭いお方ではない。必ず無条件で恵みを与えてくださる。その価なく与えられた恵みに目を注ぐときに、どうなっていくか。そこを示しているのが、レプトン銅貨2枚をささげたやもめの物語です。

今日はこのやもめの物語に入って行くために、かなり長い回り道をしました。なぜそうしたかと言いますと、このやもめの献金の物語は、行いの法則で読むと必ず失敗するからです。このやもめの献金の理由をあれこれ詮索したり、この献金の値打ちはどこにあるかと考えたり、そういうことを、あれこれ詮索するときに、私たちは恵みが見えなくなってしまう。そういう読み方で、最後の最後に明らかになるのは、私たちが立っているのは、結局の所、行いの法則だということです。その意味で、あの律法学者がこだわったのと同じ世界に留まってしまうでしょう。我々も、このやもめのように、イエス様に褒めていただけるようなささげものをしましょうとか、そういうことを言っている限り、この御言葉は解けません。

このやもめのやったこと、それは、たった一つ、自分に与えられた神の恵みに目を開いた。その一点だけです。その恵みに感じて、応えて、感謝して、彼女は祈り、礼拝した。賛美した。それが彼女のすべてです。

神殿での出来事です。主イエスが目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのを主イエスはご覧になって、弟子たちに言われました。

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

これだけのお話です。このやもめは主イエスと出会ったわけではありませんし、主イエスに声をかけていただいたわけでもありません。主イエスと顔見知りであったとも思われません。主イエスは行きずりの彼女の小さな行為に目を留めて、彼女のことを弟子たちにお話しになった。それだけのことです。彼女は自分が主イエスに見られていることも知らなかったでしょうし、ひょっとして主イエスのことを知らなかったかもしれない。しかし、私は、このやもめは確かに主イエスと出会っていると思います。いや、もっと正確に言えば、主イエスは彼女と出会ってくださっているのです。

やもめがささげたレプトン銅貨の重みをしっかりと受け止めてくださっているのは、やはり、主イエスお一人です。「生活費全部を入れた」と書いてあります。確かにそのとおりなのですが、福音書がここで用いた言葉は「生活費」ではなく、「生活」という意味の言葉です。しかしながら、「生活を全部入れた」というのは日本語としてあまりにこなれが悪いので、意味を補足して「生活費全部を入れた」と翻訳したわけです。

しかし、案外、「生活を全部入れた」というのが福音書の真意ではないかと思います。ここに言う「生活」。それは、生き方そのものという意味です。自分自身をささげたということです。恵みに目が開かれたからこそ、彼女はそうしたのです。私たちにも、この礼拝において同じ恵みが与えられています。そのことに、心からの感謝をささげたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月16日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥をぬぐい去ってくださる。」(旧約聖書:イザヤ書25章8節)

「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(新約聖書:ヨハネ福音書16章20節)

今日の新約の御言葉は、主イエスが十字架につけられる前の晩に弟子たちに語られた言葉です。この言葉は、この少し前に語られた次の言葉と深い関連があります。

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16章16節)

ここに「見る」という語が繰り返し出ていますが、最初の「見る」と次の「見る」は聖書の原文では別の言葉になっています。

なぜ異なる言葉が使われるのかというと、生前の主イエスを見る目と、復活された主イエスを仰ぎ見る目は全く異なるからです。復活の主を見る目は、言うなれば「信仰の目」なのです。主イエスは肉眼では見えなくなって弟子たちは悲しみます。しかし、聖霊によって弟子たちは復活の主を見るようになって、悲しみは喜びに変わる。そして、この喜びを奪い去る者はいないのです。