聖書:使徒言行録15章1~21節

説教:佐藤  誠司 牧師

「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは靜かにしていなさい。』」 (出エジプト記14章13~14節)

「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。」 (使徒言行録15章8~10節)

 

聖書には「御業の前に黙する」という言い回しがあります。神様がなさる御業の前に、人は言葉を失って黙ってしまうということです。御業の前に黙する。まことに聖書的な、味わい深い言い回しであると思います。この言い方が、どこから生まれたかは定かではありませんが、二つだけ、聖書の個所を挙げることは可能でしょう。一つはヨブ記の40章。神様に対して言葉を尽くして訴えてきたヨブが、ついに黙してしまう場面です。ヨブはこう述べております。

「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論など出来ましょう。わたしはこの口に手を置きます。一言語りましたが、もう主張しません。二言申しましたが、もう繰り返しません。」

ヨブは御業の前に黙して膝を屈めたのです。もう一箇所は、出エジプト記14章。エジプトを脱出したイスラエルの人々が崖っぷちに追い詰められて、前は海、後ろからはエジプトの軍隊が追って来るという場面で、人々が慌てふためいたとき、モーセがこう言うのです。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは靜かにしていなさい。」

神様が御業を行われるのだから、あなたがたは黙していなさいとモーセは言うのです。これは、神様の御業はしゃべっていては見えてこない。騒いでいては見えてこないということです。今日の使徒言行録の物語にも、人々が御業の前に黙してしまう場面が出て来ます。使徒言行録第15章のエルサレム会議の一場面です。私たちの教会でも、そうですが、教会の大切な事柄は、すべて会議で決められます。誰かの一存とか、あるグループの意のままということは、あり得ません。必ず会議が招集されます。その最初の教会会議となったのが、このエルサレム会議です。なお、この会議の名称ですが、新共同訳聖書はこれを「使徒会議」と呼んでおります。しかし、私は、ある理由から、これは「使徒会議」とは呼ぶことは出来ないと判断しまして、エルサレム会議と呼ぶことにしました。

さて、なぜ教会の会議が開かれるかというと、これは今も昔も変わりはありません。危機を乗り切るためです。危機を乗り切るなどと聞きますと、何を物騒なと思われるかも知れませんが、危機は英語で「crisis」と言いますね。これは元々「何事かを判断する」という意味のある言葉です。判断を下して、次の新たなステップに進んで行く。それが危機という言葉の本来の意味です。ですから、危機というのは成長と不可分の関係にあるのです。肝心なのは、その判断が何に基づいてなされるか、です。さて、エルサレム会議は、いったい、何に基づいて開かれ、どういう判断が下されたのでしょうか?

エルサレム会議は、じつは、あるトラブルを契機として開かれました。シリアのアンティオキア教会では、すでに異邦人伝道が盛んに行われておりました。信徒の割合は、それでも依然としてユダヤ人信徒が圧倒的に多かったでしょうが、異邦人信徒の数も徐々にではありますが、増えていたと思われます。その意味で、アンティオキア教会は、史上初のユダヤ人・異邦人混交教会となっていたのです。パウロの手紙には「あなたがたは主にあって一つ、もはやユダヤ人もギリシア人もない」という言葉があちこちに出て来ますが、あれはアンティオキア教会で実際に洗礼式において唱えられていた言葉であろうと推測されます。

そのアンティオキア教会に、ある人々がユダヤから、すなわちエルサレムから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と繰り返し教えるという出来事が起こったのです。これは、アンティオキア教会の人々、中でも異邦人信徒にとっては衝撃的な出来事でした。彼らはパウロやバルナバが説く福音を信じて信仰に入った人たちです。人はただキリストを信じる信仰によって救われる、という福音を信じて、洗礼を受けました。「あなたがたは主にあって一つ、もはやユダヤ人もギリシア人もない」という言葉を受け入れて、洗礼を受けたのです。それが今になって、洗礼だけでは不十分、割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。ほら、あんなこと言ってるパウロ先生も、バルナバ先生も、割礼を受けてますよ、などと言われたわけですから、これは大変です。波紋はすぐに広まりました。異邦人信徒たちが動揺したのです。またエルサレムから下って来た人々とパウロたちとの間で激しい意見の対立と論争が生じたと書いてあります。

しかし、これは救いの根幹に抵触する問題であって、あの人とこの人の対立とか論争で片付けられる問題ではありません。そこでアンティオキア教会では、この件について使徒たちや長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そしてそのほか数名の者を教会代表者に立てて、エルサレム教会に送り出したのです。ここで注意したいのは、このエルサレム行きはパウロたちの個人的な訪問ではなく、パウロたちはアンティオキア教会から遣わされてエルサレムへ行ったという点です。アンティオキア教会が、なぜこれほど大きな関心をこの件について持ったかと言いますと、福音の根幹に触れる問題だったからです。今後、キリストの福音がどのような形で宣べ伝えられるのか。アンティオキア教会の関心はその一点に絞り込まれていたと思われます。

一向はフェニキアからサマリアへと下って、そのままエルサレムに入りました。彼らはエルサレム教会の人々、使徒や長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行ってくださったことをことごとく報告しました。つまり、異邦人たちもキリストを信じる信仰が与えられて、福音を信じて洗礼へと導かれたことを報告したのです。すると、まだ会談も冒頭で、歓迎の挨拶が交わされている段階だというのに、ファリサイ派から信者になった人々が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言ったのです。これは異様な事態です。だいたい「受けさせる」とか「命じる」という言い方、考え方が、信仰に馴染まない。しかし、これが今のエルサレム教会の側面なのです。

当時のエルサレムは空前の愛国運動のさなかにありました。この愛国運動を支えていたのが、律法遵守です。エルサレムではローマに対する抵抗が熱を帯びてきて、律法主義と愛国主義が一体となった風潮がエルサレムを席巻しておりました。そこにアンティオキアでの異邦人伝道の噂がエルサレムの人々の耳にも届きますから、どうもキリスト教会の連中は我々の信仰とは違うのではないかと、エルサレムの人々も薄々気がついてきた。そういう中にエルサレム教会はありましたから、エルサレム教会の人々は耐えず町の人々から試されているわけです。「アンティオキアの教会では律法に熱心ではないと聞くが、あなたたちはどうなのか」と、耐えず試されているのです。ですから、エルサレム教会の人々の正直な思いとしては、アンティオキア教会の人たちにあまり大手を振って異邦人伝道をしてほしくない。異邦人伝道をするのだったら、律法を守ることも、ちゃんと教えておけよ、というのがエルサレム教会側の本音であったと思います。まさにエルサレム教会はエルサレムの愛国主義の中で薄氷を踏む思いであったわけです。

そこでエルサレム教会が取った措置は、長老制度を導入することでした。パウロも第一回伝道旅行で基礎を据えた教会の長老を立てましたが、あれは制度的なものではなく、地区の世話人のような役割を担う人たちでした。それに対してエルサレム教会が採用した長老というのは、ユダヤ教の長老制度をそっくりそのまま模したものだったのです。ユダヤ教の長老制度の最高機関が最高法院ですから、エルサレム教会は、教会の中に最高法院を持つという奇妙な図式になってしまったわけです。以前、6章で、使徒たちを補佐する役割にステファノたち6人の人々が立てられた物語がありましたが、あの人々は律法から自由な考えを持っていたために、迫害に遭ってエルサレムから追放されました。そのあとを補うために、採用されたのが長老制度だったのです。この長老のトップにあったのが主の兄弟ヤコブです。ですから、使徒言行録を丁寧に読んでいきますと、使徒たちの影が次第に薄くなって、代わりに長老たちが教会を代表していくプロセスが微妙に描かれていることに気付きます。今日の物語も、その一つです。使徒であるペトロと、長老であるヤコブの、微妙な関係が浮かび上がってきます。

さて、あの発言によって、使徒たちと長老たちは、この問題を協議するために集まりました。パウロとバルナバも同席しています。エルサレム会議が、こうして始まったのです。議論を重ねた後、使徒ペトロが立ち上がって発言します。ペトロは、以前に神がペトロを導いてなさったローマ人コルネリウスへの伝道を踏まえて、こう発言しております。

「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。」

ペトロは、主イエスの一番弟子であり、使徒たちを代表する人物です。主イエスご自身が「あなたはペトロ。私はあなたの上に教会を建てる」とおっしゃった。まさに押しも押されもせぬ教会の代表者なのです。そのペトロを神様が導いて、異邦人コルネリウスを信仰に導いたのですから、神様の御心がどこにあるかは明々白々です。それにペトロの言葉には実績を伴う重みがあります。聞いている人は皆、心を動かされたに違いありません。そして、ペトロは最後にとどめの一言を発します。

「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

これは決定的な一言であると思います。ペトロはハッキリ言ったのです。人はキリストを信じる信仰のみによって救われるのだとハッキリ言ったのです。使徒であるペトロが、コルネリウスの救いという具体的な事実に基づいて明言したわけですから、これ以上の重みは考えられません。「すると全会衆は靜かになった」と書いてあります。皆、語る言葉をなくした。御業の前に黙したのです。私は、教会の会議は、こういうところが大事だと思います。会議ですから言葉と言葉の応酬はありますし、あっても良いのです。時には意見の対立もあるでしょうし、意見と意見を調停することだってあるでしょう。しかし、それだけで終わって良いものなのか? もし、教会の会議が人と人との交渉だけで成り立っているのなら、それもありでしょう。しかし、教会の会議は、神様の前で行う会議でしょう? 神様の御心を祈って尋ね求め、御業の前に黙すことを知らない会議は教会の会議とは言えません。このとき、人々が黙ってしまったのは、ペトロの言葉を通して、まさに、神の御業を見たからです。ペトロに引き続いて、パウロとバルナバがアンティオキア教会のことを報告しました。アンティオキアでなされた主の御業を報告したのです。この会議の結論は近いと、誰もが思ったことでしょう。もう一度、ペトロに発言してもらって、それを結論とするというのが、順当な線です。

ところが、会議の決論を導き出したのは、使徒であるペトロではなく、パウロやバルナバでもなく、長老の一人であるヤコブだったのです。彼は預言書を引用しながら、穏当に発言しています。その結論は、こうです。

「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

結論としては穏当なものですし、異邦人に対する配慮も見受けられます。しかし、これ、じつは、中間を行く妥協案なのです。割礼は受けなくてもいいですよ。しかし、律法の食物規定だけは守っていただきたい、と、そう言うのです。妥協案というのは、どこから出て来るのでしょうか? 神様から妥協案は出ますか? 出ないでしょう? ならば、この妥協案は、どこから出たのか? ヤコブから出たのです。彼はこう言っていましたね。

「わたしはこう判断します。」

この言い方、いかがでしょうか。ペトロはこういう言い方、してないでしょう? 「私はこう判断する」というのは、とどのつまり、個人の見解なのです。使徒でもないヤコブは、教会を代表する立場にはないはずなのです。それが今や、私の判断で会議を左右するまでになっている。私は、今日の物語は、ルカがぎりぎりのところで書いたエルサレム教会への批判であると思います。教会の会議というのは、神様の前で行うものでしょう。これが本当の「御前会議」なのです。御前会議は人が中心となってはいけない。

今日のお話の最初のところで、出エジプト記の海が割れる場面の話をしました。どうしてと思われたかも知れませんが、これがじつは今日の使徒言行録の物語と関係があるのです。どうしてこれが結び付くのか?

もう時間がありませんので、この物語について詳しくお話することは出来ませんが、これはもう大変な場面なんですね。エジプトを脱出したイスラエルの人々をエジプトの軍隊が追って来るのです。方や女性や子どもを連れた貧しい人たち、方や戦車に乗った兵隊です。しかも、行く手は海です。崖っぷちです。イスラエルの人たちは、迫り来るものを見て恐れています。死と滅びを見て恐れているのです。前へ進んで崖を落ちても死ぬし、後ろ退いてもエジプト軍に殺される。それこそ、これは火を見るよりも明らかです。その意味で、人々が見ていたものは間違いではないのです。

しかし、モーセは別のものを見ていた。モーセも、人々と同じものを見ていたのです。しかし、モーセはそれだけではない。もう一つ、見えないものを見ている。それは何でしょうか? 自分たちをエジプトから導き出してくださった神様の御心、ご計画というものをモーセは見ているのです。だから、モーセは言いました。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは靜かにしていなさい。」

私は、こういうところに聖書のメッセージがあると思うのです。モーセも人々が見ていたものを見ているのです。眼前に広がる海を見ているし、後ろにはエジプト軍の戦車も見ています。しかし、彼はそれだけではなかった。見えないものに目を注いで、それを支えにしていたのです。パウロが書きました第二コリントの5章に、こんな言葉がありますね。

「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」

エルサレム教会の人々も、そうあるべきでした。前にはローマ帝国の圧力があり、後ろからはユダヤ教の厳しい目が追ってくる。そのときに、アンティオキア教会から異邦人が救われたという知らせが噂となって聞こえてくる。見えるものだけを見ていたら、これはもう、自分たちの立場を脅かす出来事にしか聞こえないです。しかし、見えない神様のご計画に目を注ぐなら、どうでしょう。ペトロが示されたように「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と、御業の前に黙すことも出来たのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

私は今日の物語は、現代の教会に向けられた警告のメッセージであると思います。

 

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