聖書:使徒言行録15章22~35節

説教:佐藤  誠司 牧師

「その日が来れば、あなたの肩から重荷は取り去られ、首に置かれた軛は砕かれる。」 (イザヤ書10章27節)

「使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。『使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちの内のある者がそちらに行き、わたしたちから何の指示も無いのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ、動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するパウロとバルナバとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは、満場一致で決定しました。このパウロとバルナバは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために、身を献げている人たちです。それでユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。』」(使徒言行録15章23~29節)

 

先週の礼拝で、使徒言行録第15章が伝えるエルサレム会議の顛末を読みました。今日がその後半なのですが、今回、聖書を手にしながら、興味深いことに気付きました。どういうことかと言いますと、エルサレム会議を記す使徒言行録の第15章は使徒言行録の真ん中に位置すると共に、新約聖書の真ん中でもあるのです。これは大変に示唆に富むことではないでしょうか。福音の世界宣教の上で、まさにエルサレム会議が分水嶺になっているのです。会議の結論はこうでした。

「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

これは主イエスの兄弟でエルサレム教会の長老の一人であるヤコブが導き出した結論です。苦肉の策ともいえる結論です。この結論からも察せられるように、エルサレム会議は、じつは、あるトラブルを契機として開かれました。シリアのアンティオキア教会では、すでに異邦人伝道が盛んに行われておりまして、異邦人信徒の数も、徐々にではありますが、増えていたと思われます。アンティオキア教会は、ユダヤ人信徒と異邦人信徒が共に福音に与る教会となっていたのです。これは当時、極めて珍しいことでした。パウロの手紙を見ますと「あなたがたは主にあって一つ、もはやユダヤ人もギリシア人もない」という言葉があちこちに出て来ますが、あれはじつは、アンティオキア教会の洗礼式で実際に唱えられていた言葉であると言われます。

そのアンティオキア教会に、ある人々がエルサレムから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と繰り返し吹聴するという出来事が起こったのです。これは、アンティオキア教会の人々、中でも異邦人信徒にとっては衝撃的な出来事でした。彼らはパウロやバルナバが説く福音を信じて信仰に入った人たちです。人はただキリストを信じる信仰によって救われる、という福音を素直に信じて洗礼を受けました。「あなたがたは主にあって一つ、もはやユダヤ人もギリシア人もない」という言葉を信じて洗礼を受けたのです。それが今になって、洗礼だけでは不十分、割礼を受けなければ、あなたがたは救われない、などと言われたわけですから、これは大変です。波紋はすぐに広まりました。異邦人信徒たちが動揺したのです。またエルサレムから下って来た人々とパウロたちとの間で激しい意見の対立と論争が生じたと書いてあります。

しかし、これは救いの根幹に抵触する問題であって、対立とか論争で片が付く問題ではありません。そこでアンティオキア教会では、この件について使徒たちや長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そしてそのほか数名の者を教会代表者に立てて、エルサレム教会に送り出したのです。アンティオキア教会が、なぜこれほど大きな関心をこの件について持ったかと言いますと、これが福音の根幹に触れる問題だったからです。今後、キリストの福音がどのような形で宣べ伝えられるか。アンティオキア教会の関心はその一点に絞り込まれていたと思われます。だからこそ、アンティオキアの人々は公の会議を開くことを求めたのです。

会議は、冒頭、ファリサイ派から信者になった人々が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と発言したことによって、混迷が予想されました。しかし、その混迷を打ち破ったのは、使徒ペトロの発言でした。ペトロは、彼自身が関わったローマ人コルネリウスの回心の出来事を踏まえて、こう述べたのです。

「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

これは決定的な一言であると思います。ペトロはハッキリ言ったのです。人はキリストを信じる信仰のみによって救われるのだとハッキリ言った。これは、割礼は必要ないということです。さらに言うなら、ペトロの発言は、キリストを信じる信仰はユダヤ教の一派ではないとハッキリ宣言したことになる。まことにストレートで、画期的な発言だったのです。

しかしながら、会議の結論は、いま少し中間的な、間を取ったものになりました。ユダヤ人と異邦人の中間を行く、歩み寄りの線です。それが冒頭に紹介したヤコブの意見です。これによりますと、異邦人信徒にも割礼を求めるという過激なユダヤ主義者たちの要求は完全に否定されて、異邦人信徒には不品行と偶像、汚れた肉を避けることだけが求められたのです。しかも、それは救いの条件として求められたのではなく、ユダヤ人信徒と異邦人信徒の間に主にある交わりをいかにして保つかという配慮から求められたものです。確かにこれは、ペトロが出したストレートな意見に比べれば、やや妥協的な中間を行く路線ではありますが、現実的な路線でもあります。ユダヤ人にとって、食物規定というのは絶対的なものだったのです。そのユダヤ人信徒たちと異邦人信徒たちが主にある交わりを保ち、同じ食卓に着くためには、異邦人信徒たちが偶像に供えられた肉を食べない姿勢が、どうしても必要だったのです。これはパウロも、後に大変に苦慮するところでありまして、彼は手紙の中で、様々に配慮しております。例えば、ローマ書の14章で、パウロは、信仰上の理由で肉食を避けようとする信徒たちを「信仰の弱い者」と呼びつつ、第一コリントの8章では、こう述べています。

「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後、決して肉を口にしません。」

エルサレム会議の結論は、一面で妥協案でありつつ、現実路線でもあったわけです。しかしながら、会議の結論というのは、その伝え方によって、受け取り方が大いに違ってくるものです。いかに立派な結論を導き出しても、それを上から目線のお役所的な通達文書で伝えたならば、どうでしょうか? 聞く人の心に届くでしょうか? 届かないでしょう。では、エルサレム会議の結論は、どのようにして伝えられたか?

彼らがとった手段。それは手紙だったのです。これは素晴らしい選択であり、判断であったと思います。近頃はメールという便利なものが盛んになりましたので、以前ほど手紙を書く機会は多くはないかも知れませんが、それでも大事なことは今でも肉筆の手紙で伝えますね。たとい、情報は既に相手に伝わっていたとしても、改めて手紙を書きますでしょう? なぜでしょうか? 手紙は情報を伝えるだけではなくて、心を伝えるものだからです。手紙というのは、必ず人格的なやり取りを伴います。特定の差出人がいて、特定の相手がいるわけです。ですから、後にパウロは、大事な事柄を伝えるのに、手紙を書きました。あれは情報を伝えているのではなくて、心を伝えている。使徒言行録だって、そうでしょう? 歴史文書のように見えながら、じつはそうではない。第1章の冒頭を見れば、分かります。テオフィロという特定の人物に宛てて書かれた手紙の要素を大事にしているのです。

さて、エルサレム会議は、その結論を手紙としてアンティオキア教会に伝えることとし、さらにその手紙の使者として二人の人物を立てます。バルサバと呼ばれたユダとシラスの二人です。彼らは今で言う「問安使」として遣わされる人たちです。「安否を問う使い」と書いて「問安使」です。相手の安否を心から案じて問うのです。今でも教会は、これを大事にしているのですが、公式な手紙は必ず問安使が持参します。教区総会で教団議長の手紙を読むのは、教区議長ではなくて、教団から派遣された問安使です。問安使の第一の役割は相手の教会のために祈ることです。ユダとシラスも、祈るためにアンティオキア教会に遣わされたのです。

では、その手紙の中身は、いかなるものだったのでしょうか? 23節に、こう書かれています。

「使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。『使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。』」

自分たちことを「兄弟として」と言ってますでしょう? そして相手のことを何と言ってますか? 「異邦人の兄弟たち」と言っておりますね? じつは、これ、ユダヤ人が異邦人を兄弟と呼ぶということ自体が、画期的なことです。あり得ないことなんです。ユダヤ人と異邦人の間には乗り越え難い隔ての壁があったということです。しかし、今やその壁が取り払われ、溝が埋められて、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が互いに「兄弟」と呼び合うことが可能になった。これこそが「主に於いて一つ」ということです。手紙は、さらにこう続きます。

「聞くところによると、わたしたちの内のある者がそちらに行き、わたしたちから何の指示も無いのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ、動揺させたとのことです。」

エルサレムからアンティオキアに下って行って「あなたがたは割礼を受けなければ、救われない」と教えて回った人たちの主張は、ここに完全に否定されています。そしてあの割礼を要求した人々がエルサレム教会の人々であったことを正直に認めています。その上で手紙はパウロとバルナバに言及します。

「それで、人を選び、わたしたちの愛するパウロとバルナバとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは、満場一致で決定しました。このパウロとバルナバは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために、身を献げている人たちです。」

パウロとバルナバのことを「私たちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たち」と呼んでおります。これは、パウロとバルナバという個人を賞賛しているのではありません。エルサレム教会側がパウロとバルナバの信仰と思想とを正しいものと認め、エルサレム教会とアンティオキア教会の信仰の一致を宣言しているのです。ということは、どうなりますか? エルサレム教会が公式にアンティオキア教会が行っている異邦人伝道を認めたということです。こういうことをシッカリ確認した上で、手紙は、28節からエルサレム会議の結論を語り始めます。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

「聖霊と私たちは」と言っておりますね。これは、この手紙が人間の思いによって書かれたものではなく、聖霊が私たちに示して書いているのです、ということです。ですから、この手紙には聖霊の示しが満ちている、ということを暗に述べているのです。さあ、聖霊の示しって、どういうことなのでしょうか? 聖霊の働きというのは、まず何を措いても、二つのものを一致させることです。AとBを一致させる。すなわち、エルサレム教会とアンティオキア教会の主にある一致、そしてユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の主にある一致を聖霊が創り出す。そのために、偶像に供えられた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いを避けてください、と手紙は言うのです。

これ、うっかり読みますと、ユダヤ人側が異邦人側に律法の食物規定を守るよう、押し付けているように思ってしまいますが、じつはそうではないのです。異邦人伝道はこうして公認されました。しかし、そこで初めて見えてくる課題があるわけでしょう。異邦人伝道は認めます。どうぞ頑張って異邦人に伝道してください。しかし、同じ食卓に着くのは嫌ですとか、一緒に礼拝を守るのは嫌ですというのでは、何にもならないのです。ユダヤ人のキリスト者と異邦人のキリスト者が一緒に喜んで礼拝をし、喜んで一つの食卓に着くことが大事なのです。そのために、今、必要なものは何か? 主にある互いの尊敬と配慮なのです。

そしてもう一つ、この手紙は「重荷」という言葉を使っています。あなたがたに重荷を負わせないように、と言われております。重荷って何ですか? 重荷を初めから背負っている人はいません。誰かに背負わされるのです。マタイ福音書23章の主の言葉が思い起こされます。

「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとはしない。」

主イエスが律法学者たちを批判なさった言葉です。ここでは明らかに律法が重荷と言われています。そして聖書は「罪の重荷」ということも言います。罪の重荷を自分で降ろせる人はいるでしょうか? 罪の重荷を自分で軽くすることの出来る人はいるでしょうか? いないですね。じゃあ、どうすれば良いのか。誰かに身代わりになってもらって、背負ってもらうしか道はないです。誰によって、その御業はなされるのか? イザヤ書10章に、こんな言葉があります。

「その日が来れば、あなたの肩から重荷は取り去られ、首に置かれた軛は砕かれる。」

これは、マタイ福音書11章の主イエスの言葉のもとになった言葉です。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

罪の重荷を取り去って、身代わりになってくださるのは、主イエスをおいてほかにはないのです。この主イエスの十字架の贖いの前に立つとき、ユダヤ人と異邦人の差別は取り払われます。ユダヤ人と異邦人が一致し、エルサレム教会とアンティオキア教会が一致する。最初に救われたユダヤ人信徒たちも、最後に救われた異邦人信徒たちも、等しく一デナリオンの恵みを受け取る。教会とは主のぶどう園です。アンティオキア教会の人々はこの手紙を読み、その励ましに満ちた決定を知って喜びました。彼らは何を喜んだか。教会と教会の一致を喜んだのです。福音の前進は諸教会の一致が生み出す。これが今日の物語のメッセージではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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