聖書:コリントの信徒への手紙一15章12~20節

説教:佐藤 誠司 牧師

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(コリントの信徒への手紙一15章12~14節)

 

受難週が明けて、復活祭の朝を迎えました。このように、復活祭というのは、それだけが、いきなりやって来るのではなくて、受難週と分かち難く結ばれております。受難週が明けて、復活の朝を迎える。両者は切り離すことが出来ない。主の十字架と復活は一つながりの出来事なのです。ですから、カトリック教会では今でも、復活祭は前の晩から徹夜で祝います。

と言いますのも、キリスト教信仰というのは、復活が要なのです。復活されたイエス・キリストが、いつも私たちを守り、支え、導いてくださる。そういう信仰に立っているのが私たちです。それは、普通の人の感覚からすれば、あり得ないことです。「そんなこと、あるはずがない」と、多くの人は言うでしょう。しかし、そのあり得ないことが、イエス・キリストにおいて起こったのだというのが、じつはキリスト教の一番肝心なところなのです。

今日はパウロの手紙を読みましたので、そこに入る前に、少し福音書の復活の物語をさらってみたいと思います。キリストが十字架につけられたのが受難週の金曜日です。息を引き取られたのが、午後3時過ぎ、ということは、早くも日没が近づいているわけです。金曜日の日没から、ユダヤ人が最も大事にしている安息日が始まります。ユダヤの一日の数え方は変わっておりまして、日没から日没までが一日なのです。ですから、金曜日の日没から安息日が始まります。その安息日である土曜日には、もう人を葬るというようなことはしてはならない。そこで日が暮れないうちに急いでイエス様のご遺体を降ろし、洞穴になっている墓に納めたのです。

ユダヤでは、人が亡くなりますと、その人の遺体に香料を塗って、丁寧にお別れをして埋葬する。ところが、今言いましたような事情から、もう刻限が迫っていますので、そういう心を込めた葬りが出来なかった。そこでイエス様を愛して止まない婦人たちが心残りに思いまして、日曜の朝、改めて香料を塗ってお別れをしようと、墓へ行きました。つまり、彼女たちはイエス様のご遺体に会うために墓へ行ったのです。そうしますと、墓は石の蓋が転がしてあって、中は空だった。主のご遺体はそこには無くて、天使が「あの方は甦って、もうここにはおられない」と告げた。それが日曜日の朝の出来事です。私たちは今、当たり前のように日曜日の朝、礼拝に集っておりますが、これはキリストの復活の命に与るために、復活の朝、主の御前に集うているのです。

今日は使徒パウロがコリント教会の人々に宛てて書いた手紙を読みましたが、ずいぶん熱を込めて語っております。何を熱くなって語っているかと言うと、キリストの復活が私たちの救いとどういうふうな関係にあるか、そういうことをパウロは問題にしているわけです。今日は12節からを読みましたが、その前の11節に、パウロは、キリストの復活が紛れもない事実であることを力を込めて語っております。そして12節以下になるわけですが、ここはキリストの復活がどういう意味を持っておるのか。これが今日の箇所の問題です。かなり熱い議論をしております。事の起こりはどういうことかと言いますと、コリントの教会の中に、死者の復活はあり得ないことだと、そう主張する信者たちが現れたのです。そのために、教会の人々が大変に動揺しまして、パウロ先生に相談をしたのです。それに対して、パウロが手紙で答えているのが、今日読んだ第一コリントの15章です。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

死者の復活などあり得ないと言っておる人たちも、キリストの復活は信じていたのでしょう。キリストの復活は信じるけれど、死者の復活なんて、あり得ないと、彼らはそう言っておったのです。ということは、どうでしょう。キリストの復活が他人事になっていたということですね。復活はキリストだけに起こった特別のことであって、私たちには関係がない、と。そういうふうに思っていたのです。

これは、じつは私たちの信仰生活にとって、大事な問題を提示しております。どういうことかと言いますと、私たちは信仰告白という、キリスト教で最も大事なことを信じて告白をするわけですが、そのことと、自分の実際の生活とが、あまり繋がっておらん。そういうことが、しばしば起こってくるわけですね。キリストの復活は信じるけれど、自分たちは死んだらもうお仕舞いだと。そういう感じを持っている人たちの根本問題は、口で告白した信仰と実際の生活とがつながっていないことなのです。そういう人たちに対して、パウロは言います。

「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお、罪の中にあることになります。」

キリストが復活しなかったのなら、とパウロは繰り返しています。そうなると、私たちの罪が十字架によって贖われたということも嘘になる。そして、私たちの信仰も中身の無い空虚なことになる。キリストの復活というのは他人事ではない。キリストだけが復活をして、あとの人は皆滅びてしまうなどということは、無い。これは実に、私たちみんなが復活する、その道をつけてくださったのだと、パウロは言うのです。そこでパウロが持ち出すのが「初穂」ということです。20節です。

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

キリストが甦られたということは、私たちの初穂なのだ。私たちみんなが、やがて甦らされる。これがキリスト者が持っている希望です。私たちは死んだ後の世界を見てはいないですから、世間には、いろんなことを言う人がいます。しかし、皆、当てにならない。キリスト教の葬儀が、いったい、どういう望みを持って行われるかというと、来世に対するいろんな解釈とか、そういうことではないのです。そうではなくて、イエス・キリストが復活なさった。そのことだけを見つめておるわけです。なぜ、キリストの復活を見つめるのか。それは、キリストの復活こそが、今の私たちの生活にとって、切っても切れない関係にある、希望の源泉だからです。

福音書の中に、こういうお話があるのを、皆さん、ご存知でしょうか。イエス様があるとき、弟子たちに言われたのです。

「私はあなたがたに天国の鍵を授ける。」

天国の鍵って、いったい、何のことなのでしょうか? 皆さんは今、どういう状況にあるか、それは十人十色でありましょうが、ある方は救いの部屋の中に入って喜びにあふれているかも知れません。けれども、何となしにドアに鍵がかかっていて、なかなか中に入れない。もどかしい思いがしている。そういう感じがしておられる方もあるかと思います。そういう救いの部屋に鍵がかかっておって、閉まっている。開けようと思ってガリガリ引っかいたり、ガタガタ揺さぶったり、あるいは体当たりをしてみたりと、そういうふうに、あの手この手で救いを求めさせる宗教があります。これは、まあ、言ってみれば、自分の精進や努力で救いが得られると、そういうふうに考える人たちですね。けれども、この扉は私たちが体当たりをしたくらいでは、ビクともしない。これを開けるのは、どうしても鍵が要るのです。で、その鍵は何かと言いますと、キリストの十字架と復活という歴史的事実、そしてこれを宣べ伝える福音なのです。

皆さんは、よくこんなことをお聞きになるかと思います。宗教はいろいろあるけれど、結局、言っておることは同じだとか、目指すところは一つだとか、そういうことを言う人が学者の中にもいます。なるほど、いろんな宗教のことを聞いてみますと、似ているところがありますね。ことに北陸で盛んな浄土真宗、あるいは浄土宗の親鸞や法然のことを聞いておりますと、うかうかすると、キリスト教よりも信仰が深いのではないかと、そういう感じがいたします。徹底的な他力信仰です。ついすると、キリスト教も仏教も、あんまり変わらんなと、そういうふうに思われる方もあるかも知れません。

しかし、その時に、いったい、そういう同じように見られる宗教が、救いを開くために、どういう鍵を持っているかということを、皆さん、考えてみてください。あなたは救いを開くのに、どういう鍵を持っていますか? この救いの扉を開く鍵は、一つしかないのです。それは、救い主が十字架にかかって、甦られたという事実なのです。イエス・キリストのほかに、誰が私たちのために十字架にかかったでしょうか。イエス様のほかに誰が、死者の中から復活してくださったでしょうか。いろいろなことを教えられても、結局、最後の最後に救いの鍵を私たちに与えてくださるのはキリストなんです。この鍵は大事です。よく家の鍵を無くして、作り直す人がいますが、天国の鍵は、誰も作り直すことが出来ません。キリストの十字架と復活以外の鍵は、ほかに無いのです。皆さんは、そういう鍵を手にしています。これは大事な宝です。

しかし、どうでしょうか。鍵を手に持っているだけでは、扉は開きません。与えられている鍵を、ちゃんと鍵穴に入れて、回さないと、扉は開かない。中には貰った鍵を首からつるして、飾りにしている人もあるかも知れません。手に持って、ちゃらちゃら鳴らしているだけの人もあるかも知れません。あるいは、鍵穴がすっかりさび付いてしまって、鍵が回らないと、そういう人もいるかも知れません。しかし、鍵穴に鍵を入れて回すとは、いったい、どういうことなのでしょうか?

これは、今、私たちが抱えている問題があると思います。どういう問題かは、人によって違うかも知れません。しかし、共通しているのは、自分が本当に健やかに生きていくために、どうしても解決しておかなければならない問題というものが、誰の中にもあると思うのです。その問題と、キリストの復活とが、どういう関わりを持っているかということを、真面目に考えてみることです。コリント教会の人たちが陥った問題は、じつにここに原因があったのです。キリストの復活は信じるけれど、自分たちがやがて復活させられるなんて、信じられない。つまり、主イエスの復活が他人事になっていたわけですね。これ、どういうことかと言いますと、信仰が建前になっていたということなのです。

私たちは、何事も刹那的に流れていく現代日本社会の中にあって、いつも表向きの建前で生きていく癖がついています。他人に対してもそうですげれど、どうかしますと、自分に対しても建前ばかり言って、本当の自分を無意識のうちに隠してしまっています。これは、小さい頃から、本音を出してはいかん、本当の自分を人前に出してはいかんと、躾けられてきたからかも知れません。表向きの建前で、その場その場をきれいにまとめて、そつなく生きていく。それが世渡り上手などと言われて、良いことのように言われています。

しかし、普通のことなら、そういう生き方でも良いかも知れませんけれど、本当に自分の救い、本当の生き方を考える時には、そんなきれいごとではダメなのです。自分の心の奥底にあるもの、それは触れられたくないものかも知れません。しかし、それがどんなに醜いものであっても、どんなに情けない、いやらしいものであったとしても、本当のものを一遍、出してみるのです。そしてそれが、キリストの復活とどう関わっているか、キリストの十字架と復活というものが、この嫌な醜い自分の問題を本当に解決する力があるかどうかということを、ごまかさないで考えてみるのです。その時には、聖書の御言葉や、信仰の先輩たちの言葉、あるいは牧師が語る説教とかが、ある程度までは参考になる。しかし、最後の最後は、どうでしょうか? やっぱり最後は自分と神様との間で、自分だけに向けられている答えを、ちゃんと聞き取らないといけない。その答えを神様が出してくださらない限り、鍵を差し込んでも鍵は回らない。本当の自分を出して、本当の答えを聞くことが大事なのです。

ペトロの場合も、そうでした。ペトロは、主の復活を知らされて、それでたちどころに立ち直ったかと言うと、そうではなかったですね。むしろ、彼は、イエス様を裏切ってしまった自分が赦せなくて、もう主イエスの弟子であることを捨ててしまった。そして、失意のうちに、故郷のガリラヤに再び漁師になるために帰って行ったのです。人間って、落胆すると、不思議の故郷に帰るたがる。そういうところがありますね。傷ついた心を、故郷の風景が慰めてくれるのかも知れません。ご存知のように、ペトロは主イエスが捕らえられた時、三度にわたって主イエスを否認しております。イエス様のことを「知らない」と言ったのです。そのことが、どうしても赦せずに、彼は弟子であることを捨てた。主イエスを三度、否認したことを忘れるために、弟子であることを捨てたと言っても良いと思います。

ところが、このガリラヤで復活のキリストが彼と出会ってくださる。そしてペトロに向かって、三度「あなたは私を愛するか」と問われたのです。三度問われた。これはペトロに、主イエスを三度否認したあの出来事を思い起こさせたに違いありません。主イエスは、いったい、何のために、そんなことをなさったのでしょうか? ペトロの心の傷に触れて、痛めつけてやろうと思われたのでしょうか。ペトロのことを、責めておられるのでしょうか。もちろん、そうではないですね。ペトロを、本当の意味で、立ち直らせるために、敢えて、あの出来事に触れておられるのです。

私たち人間は、自分のとんでもない失敗や醜い失態を、忘れてしまおうとする性質があります。人に触れてもらいたくないし、自分でも触れたくない。忘れてしまうと、確かに楽なのです。しかし、その問題が本当の意味で解決されないと、本当の生き方が出来なくなる。建前の生き方しか出来なくなってしまう。主イエスはペトロに、本当の生き方を取り戻させるために、あの出来事に触れられたのです。そして、ペトロの、そうした罪が、すべて赦され、完全に贖われていることを、お示しになりました。そしてペトロに向かって「私の羊を養いなさい」と言って、新たな使命をお与えになったですね。自分でも触れたくない本当の自分、忘れてしまいたい自分の問題が、キリストの十字架と復活と、どういう関係にあり、どういう解決が成し遂げられているのか。そこをきちんと白日のもとにさらけ出し、始末をつけていただくことが大事なのです。

ですから、皆さんお一人お一人が、自分の本当の問題は何か、その問題のために、キリストは十字架にかかり、死者の中から復活をなさったということを、真面目に考えて、心に刻んでいただきたいと思います。そして、皆さんお一人お一人が、キリストの復活を他人事のように思うのではなく、キリストの復活によって与えられている自分の救いというものを、しっかりと確認していただきたいと思います。主は私たちのために十字架についてくださって、私たちが神様の子どもとなるうえで差し障りとなっていたものをすべて、取り除いてくださいました。そして、私たちが神の子として生きていくために、甦ってくださった。私たちの中にその命を与えてくださった。私たちは復活祭の今日、そのことを改めて心に刻み、感謝をもって、新らしい歩みを踏み出したいと思います。

この説教は2015年4月5日(日)、佐藤牧師着任の日に行われたものです。

 

 

(教会に咲いたシュウメイギクです)

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com