聖書:ローマの信徒への手紙15章1~6節

説教:佐藤 誠司 牧師(役員による代読)

「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」 (ローマの信徒への手紙15章5~6節)

 

「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」

パウロは自分たちのことを「強い者」と呼んでおります。皆さんの中には、ここがちょっと引っかかるという方もあるかも知れません。しかし、一言で強いと言いましても、様々な強さがあるわけです。腕力が強いとか、財力が強いとか言いますし、発言力の強い人もいます。また最近ではインパクトが強いなどと、よく言いますが、パウロが言っているのは、もちろん、腕力のことでもなければ、武力の強さでもない。インパクトの強さでもありません。

じゃあ、パウロの言う「強さ」とは、どういう「強さ」のことなのかと言いますと、これは他者を支え得る強さのことなのです。ですから、パウロが「あの人は本当に強いなあ」と言ったとすれば、それは腕力が強そうな人でもなければ、筋肉隆々の人でもない。周りの弱い人たちを支えている人のことです。でも、一言で人を支えると言っても、いろんな支え方があると思います。経済的に支えるという形も、当然、考えられますし、反対に精神的に支えるということもあり得ます。相手のやらかした失敗を、人目につくことなくカバーしてあげる、なんてことも相手を支えることになるでしょう。相手の落ち度を執り成すというのも、支えです。困っている人を助けてあげることも、立派な支えと言えるでしょう。

しかし、そういった様々な支えの中でも、究極の支えは何かと言うと、やはり、相手が負い切れない重荷を身代わりになって負うことでしょう。何の重荷を負うのでしょうか。もうお解かりの方もおられるでしょう。そう、罪の重荷を担うのです。私たちが負い切れない罪の重荷を、私たちの代わりに、身代わりとなって負うてくださる。私たちの主イエス・キリストの御業です。主イエスの十字架の御業こそ、究極の支えではないでしょうか。このお方に支えていただいたからこそ、私たちは他者を支え得る者となることも出来るのです。

その意味で、イエス・キリストこそが、最も強い人、いや、ただ一人の強い方と言えると思います。パウロが「私たち強い者は」と言うことが出来たのは、このお方の強さに支えていただいていることを知っているからにほかなりません。だから、パウロは、フィリピ教会に宛てた手紙の中で、次のように言うことも出来たのです。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

パウロはここで、ふんぞり返って「私にはすべてが可能なのだ」と豪語しているのではないのです。そうではなくて、キリストに強めていただいて、強い者とならせていただいた。キリストに支えていただいて、他者を支え得る者とならせてもらったのだと、パウロは言うのです。このように、自分のことを語っているように見えながら、じつはキリストの御業に集中していくというのが、パウロの語り方の特長です。だからこそ、パウロは、第二コリントの中で、弱さの中に働くキリストの力を語り、「私は弱い時にこそ強い」とまで言い切ることが出来たのです。

どうもパウロには激しい発作を伴う病気があったようです。そんな厄介な病ですから、パウロは祈るのです。神様、どうかこの病を取り除けてください。伝道者としてもっと働けるようにしてくださいと祈った。ところが、この祈りに対する神様からの答えは、どうだったでしょう。祈りの中で、こんな答えが返って来たのです。

「わたしの恵みは、あなたに対して十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

これは、パウロだけではない、おそらく、すべての伝道者が示される主の真実ではないでしょうか。伝道者というのは、すべからく、この真実に生かされていく存在です。

そして、パウロは、この真実に生かされる歩みを、次のような言葉で締めくくっています。

「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」

皆さん、お読みになってお解かりにように、これは祈りです。最後は委ねて祈っている。言葉を尽くして勧めを語ってきたパウロですが、やはり最後は祈りであった。祈らずにはおれない思いがあったのです。私はこれは大事なことだと思うのです

キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、神を讃美することが出来ますように。この祈りに、共に立つことが大事です。ここに一緒に立とう。パウロの願いは、詰まるところ、そこだったのです。

私は、これは、教会の問題や課題を本当の意味で解決しようとする時に、とても大事なことだと思うのです。教会にとって大切なのは、具体的な個々の問題の解決ではなくて、健やかな交わりの回復なのだということが、しばしばある。その時に、何よりの力になるのが、心を合わせ、互いに同じ思いを抱くことです。ここなら一緒に立つことが出来る、という原点に立ち返ることです。

確かに互いに思いを一つにするなんて、難しいことですね。そんなの、始めから無理。出来っこない、と、そう思われたかも知れません。確かに、十人十色の私たちが自分たちの思いを一つにするのだったら、それは難しいかも知れません。しかし、私たち一人一人がキリストの思いを貰っているなら、どうでしょうか? パウロは第一コリント2章の最後で、こう言い切りました。

「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」

この「抱く」というのが「貰っている」ということです。この土の器のような、もろく、価値の無い私たちの中に、神様はキリストの思いを与えてくださった。私たちの交わりは、詰まるところ、このキリストの思いを分かち合うことだったのです。そしてそこに教会の交わりの秘密があると私は思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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