聖書:詩編107編29~31節・使徒言行録27章1~12節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が鎮まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」(詩編107編29~31節)

「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたのでサルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた。」(使徒言行録27章7~8節)

 

今日から使徒言行録の第27章に入ります。使徒言行録も、いよいよ終わりに近づいているのです。これまで、パウロは2年に渡って監禁され、カイサリアで予備裁判を受けてきました。パウロはエルサレムでユダヤ人によって訴えられたのですが、パウロは自分がローマ帝国の市民権を持っていることを最大限に利用しまして、エルサレムで裁かれることを断固拒否しました。エルサレムではなく、ローマで、しかも皇帝の裁判を受けることを望んだのです。どうしてでしょうか? それが主から自分に与えられた使命だと確信していたからです。

その確信は一夜にして成ったのではありません。今、私たちはローマへ向けて船出をする前に、そこのところを少し振り返ってみたいと思います。そうすることによって私たちは、パウロが与えられた確信の中身を知ることが出来ると思うからです。

そこで、まず振り返って確認しておきたいのは、第19章の21節です。エフェソでパウロが騒動に巻き込まれたときのことですが、あそこでパウロは、マケドニアとアカヤを通ってエルサレムに行くことを決心するのですが、パウロはさらにこう言っておりました。

「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない。」

この「そこ」というのがエルサレムのことです。つまり、エルサレムからローマへという道筋は、この時点ですでにパウロに示されていたわけです。そこで、マケドニアとアカヤの諸教会、そのほとんどはパウロが基礎を据えた異邦人教会でしたが、それらの諸教会から集めた献金を携えてエルサレム教会に持って行くという計画が生まれたのでした。

ところが、そのエルサレムで大変な事態が発生します。パウロがユダヤ人の暴動に遭って訴えられるのです。そのパウロを救ったのは意外にもローマの守備隊でした。その夜、幻の中で主イエスが現れて、パウロに言います。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

主イエスはハッキリと言っておられるのです。あなたは囚人として連行されるのではない。私があなたを証し人として遣わすのだ。だから勇気を出せ。安心せよ。この言葉がパウロを最後まで支えていくことになります。鎖につながれたパウロはどこから見ても囚人です。しかし、パウロは囚人ではなく、キリストの証人としてローマに向かいます。パウロはローマの市民権を持っていることを最大限に利用して、ローマ皇帝に上訴したのです。そこで、皇帝が判決を下すに足る証拠を集めるために、予備裁判がカイサリアで行われました。この予備裁判の裁判官は総督のフェストスですが、ちょうどカイサリアに滞在していたユダヤ王のアグリッパがこの裁判に同席しています。フェストスがアグリッパ王に敬意を表して、臨席を願ったのです。この裁判の席で、パウロはアグリッパに力強く詰め寄ります。すると、アグリッパはパウロに「お前は短い時間で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と言います。これに対するパウロの答えが、使徒言行録の最後のメッセージとなっていると私は思います。パウロはこう答えているのです。

「短い時間であろうと、長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、わたしのようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」

私のようになってほしいのだとパウロは言うのです。さらに言えば、それが私の祈りなのだとパウロは言うのです。最後に非常に意味深長なことが言われています。

「このように鎖につながれることは別ですが。」

私は、ここにパウロの真の願いがあると思います。そしてそれと同時に、ここに使徒言行録の最後のメッセージがあると思うのです。パウロという人は、ペトロたちと同様に、初代のキリスト者です。初代のキリスト者は、キリストを信じる信仰のゆえに鎖につながれることが多かった。そんな彼らの心からの願いは何であったでしょうか? それは、もう皆さん、お分かりのことと思います。鎖につながれることなく、自由にキリストを信じ、キリストの福音を自由に語り伝えることです。だからパウロは言ったのです。

「わたしの話を聞いてくださるすべての人が、わたしのようになってくださることを神に祈ります。そして、願わくは、鎖につながれることなく、自由に主を崇められる、そういう時代が来ますように。」

この一点に目が開かれますと、私は、パウロの最後の願いが何であったかも分かるようになると思うのです。パウロの話を聞いていた人々が立ち上がります。そのとき、人々は口々にパウロに罪は無いと言い合います。そのなかで、アグリッパが、こう言います。

「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに。」

パウロの死をにおわせるような言葉です。そして、これは、それと同時にパウロの生き方を鮮やかに描いた言葉であると思うのです。パウロがこれまで法廷闘争とも言える努力を重ねてきたのは、釈放して欲しいと思ったからではないのです。パウロ自身は、今や、死を厭わない。福音のためなら、死んでもよいとさえ思っているのです。

しかし、それなら、なぜパウロは皇帝による裁判にこだわるのでしょうか?

パウロの「法廷闘争」の真の目的は何なのか? 死んでも良いとさえ思ってい

る。まして釈放してほしいなどとは露ほども願ってはいない。にも関わらず、

ローマ皇帝による裁判を受けることにこだわっているのは、なぜなのか?

パウロには守るべき人たちがいるのです。それは、生まれたばかりの赤子のよ

うに弱いキリスト者たちです。パウロは自分の命を守るために法廷闘争をしてい

るのではありません。そうではなくて、パウロは、この世に残していくキリスト

者たちが、その信仰の故に国家から命を奪われることのないように、そのための

法的な保障を勝ち取るために、ローマ皇帝による裁判に徹底的に食い下がってい

る。自分の無罪ではなく、残していく人々の無罪を予め勝ち取るために、パウロ

は今、ローマに向かいます。皇帝の裁判を受けるために、向かうのです。

「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに。」

パウロの死を連想させるアグリッパの言葉を響かせながら、使徒言行録はパウ

ロのローマへ向けての船旅の描写に入ります。28章の15節まで続くこの物語は、おそらく、聖書全巻の中で最も長く詳細な船旅の描写であると思います。しかも、「私たち」という主語が示しているように、この船旅には著者であるルカも同行していたのではないかと思われます。これまでもルカは、パウロの健康を気遣う医者として、パウロの伝道旅行にはしばしば同行したようです。しかし、今回は事情が違います。パウロの最後を見届けるために、ルカはローマへの旅に同行しているのです。

しかし、どうして、聖書の中には船旅の描写が少ないのでしょうか? それにはイスラエル民族の性格が大いに関係しています。イスラエルの人々はアブラハム以来の遊牧民であり、海洋民族とは関わりの薄かったイスラエルの人々にとって、船旅は縁遠いものであり、海そのものが恐ろしいものだったです。そういえば、黙示録には奇怪な獣が海から現れる描写がありますね。またヨナは神様から逃れるためにタルシシ行きの船に乗ります。ここには神様は働いておられないだろうという読みが、ヨナにはあったのです。まさに、船旅は神不在の異邦世界の象徴だったのです。しかし、そのヨナを、海に嵐を起こしてまで呼び戻されたのは、やはり主なる神様でした。私は、こういうところに、民族の枠を超える聖書のメッセージがあると思うのです。なるほど、イスラエルの民族にとってみれば、確かに海は恐ろしいものであり、船旅は神不在の旅でした。しかし、その中から、海にも神様は生きて働いておられる。船の中にも神様は生きて働いておられる。そういう信仰が生まれてくるのです。その典型が、嵐の中の主イエスの物語です。

あの物語は、じつに意味深長ですね。主イエスは舟の中で眠っておられるのです。弟子たちだけで船を操らなければならない。もっとも、弟子たちの多くはガリラヤ湖の漁師ですから、船を操るのはお手のもの。主イエスが眠っておられようが、不在であろうが、彼らの自信は揺らがなかったと思います。ところが、この船を嵐が襲うのです。弟子たちは、初めは自分たちだけで努力する。しかし、手に負えるものではない。

そこで、彼らは眠っておられる主イエスを起こして、助けを求めます。主イエスは風と湖とをお叱りになった。すると、嵐はたちどころに静まってしまった。そのとき、弟子たちは何と言ったでしょう。そう、彼らは口々に「いったい、このお方はどういうお方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と彼らは言い合います。これは、弟子たちが主イエスをただのラビ・教師としてではなく、神と等しいお方として見始めたということです。神不在と思われた海の嵐の只中にも、主イエスはおられる。共にいてくださる。そして風と波を鎮め、嵐を鎮めて、船を目当ての港まで導いてくださる。

おそらく、この主イエスの出来事は、ローマに向けて船出するパウロの胸にも深く刻まれていたと思います。パウロの身柄は皇帝直属の百人隊長ユリウスの手に渡されました。カイサリアを出港した船はアジア州沿岸の各地に寄港する船であったと書かれています。ということは、比較的小さな船だったことが、これで分かります。当時は航行技術が発達していませんから、船は沿岸の風景を頼りにして、各地に寄航して進みます。

パウロに同行したのはテサロニケ出身のマケドニア人キリスト者アリスタルコとルカであったと思われます。つまり、この船には3人のキリスト者がいたことになります。彼らは百人隊長ユリウスの許しを得て乗船したのでしょう。ユリウスが許したのは、彼らの乗船だけではありませんでした。舟の中で3人のキリスト者が集まることをもユリウスは許可したものと思われます。「二人、または三人が私の名のゆえに集まるところには、私もその中にいる」という主イエスの約束を思い起こします。この舟の中にも、主イエスはおられる。その確信を持って、彼らは集まったに違いありません。

翌日、シドンに着いたとき、ユリウスは、パウロがこの地のキリスト者を訪問して、もてなしを受けることをも許してくれたと書いてあります。シドンにはすでにキリスト者の群れが形成されていたのです。これを見ますと、百人隊長ユリウスはパウロがただ単にローマの市民権を持っているから優遇したというより、パウロたちの信仰に心開いていたのではないかと思います。だいたいルカが描く百人隊長は、福音書であれ、使徒言行録であれ、キリストを信じる信仰に共感する人物が多いのです。おそらく、これは歴史的な事実を映し出しているのでしょう。ローマの軍人の中でも奴隷達と接する機会の多かった百人隊長がキリストを信じる信仰に入って行くことが多かったのです。

さて、シドンを出発した船は、小アジアのミラという港に着きます。ここで百人隊長はイタリア行きのアレクサンドリアの船を見つけたので、それに一行を乗り換えさせたと書いてあります。アレクサンドリアからはローマに向けて穀物を積んだ大型の船がたくさん出ておりましたから、おそらく、この大型船に乗り換えたということでしょう。この種の船は長さが60メートルもあったと言われますから、これまで乗ってきた船とは段違いです。

ところが、人々の期待に反して船足ははかどらなかった。ここからは聖書の巻末の地図を見ていただくと解り易いのですが、船は信じ難い航路を行くことになります。クニドスの港に入ろうとしますが、風に行く手を阻まれて、入港できず、沖合いから船は引き返すのです。そしてクレタ島の東の端のサルモネ岬を通って、クレタ島の南の岸を出て、そのまま西に進みます。つまり、船はクレタ島を半周するわけです。すると船はラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いたと書いてあります。「良い港」というのは、じつは港ではありません。土地の人たちが「良い港」と名付けていた天然の停泊地です。

ところが、ここで船が停泊している数日のうちに、季節の変わり目がきてしまいます。断食期の終わり、すなわち、10月の終わりごろだと思われます。風向きが変わるのです。冬を越してでないと、西向きの航海は困難になります。さあ、船は二つに一つの選択を迫られます。ここで冬を越すか、それとも、クレタ島の西に面しているフェニックス港まで足を伸ばして、そこで冬を越すか。パウロはここに留まることを提案します。ところが、百人隊長は船長や船主の意見を重んじて、フェニックスまで行くことになります。

さあ、この一連の船旅の描写は、いったい何を私たちに告げているのでしょうか?

この先、船は大変な道のりを行くことになります。嵐が船を襲います。そして船はついに難破してしまうのです。しかし、ただの一人の命も失うことなく、船は目当ての港に到着します。どうしてなのでしょうか? この船の中に、主イエスがおられるからです。詩編の107編の御言葉が思い起こされます。

「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が鎮まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」

旧約以来のイスラエルの伝統では、船旅は神不在の象徴でした。しかし、その舟の中にこそ、主イエスは共にいてくださる。著者であるルカは、はるか末来を見据えているのかも知れません。キリストの福音が船によって世界の地の果てまで伝えられる。ユダヤ教という民族宗教の分派ではない、確固とした世界宗教として広まっていく。そのような時が、必ず来る。「あなたがたは力を受けて、地の果てまで私の証人となる」と言われた主の約束が成就していきます。そして今、福音を乗せた船は教会という目に見える形をとって、私たちをも目当ての港に遣わしていきます。私たちも福音の証人として遣わされるのです。

 

 

 

 

 

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