聖書:コロサイの信徒への手紙3章1~5節

説教:佐藤 誠司 牧師

「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。」 (コロサイの信徒への手紙3章1~5節)

 

使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙を見ますと、死者の復活をめぐってパウロがかなり熱い議論を戦わせているところがあります。第一コリントの15章ですが、今日のコロサイ書とも関わりのある、大事なところですから、そこをまず読んでみたいと思います。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

一読しただけで、パウロがかなり激していることが判ります。どうしてでしょうか。教会の中に、キリストの復活は信じるけれど、死者の復活なんて、あり得ないと、そう公言してはばからない人たちが現れたからです。その人たちも、イエス・キリストの復活は信じていたのです。なのに、死者の復活は信じられない。

ということは、キリストの復活が他人事になっていたということですね。復活はキリストだけに起こった特別のことであって、私たちには関係がないと思っていたのです。

このことは、じつは私たちの信仰生活にとって、大事な問題を提示しております。どういうことかと言いますと、私たちは信仰告白という大変に大事なことを受け入れて、それを告白をするわけですが、そのことと、自分の日常の生活とが、あまり繋がっていない。そういうことが、しばしば起こってくるわけです。キリストの復活は信じるけれど、自分たちは死んだらもうお仕舞いだと。そういう思いを持っている人たちが抱えている問題は、じつは、そこにある。信じていることと、実際の生活が結び付かないのです。そういう人たちに対して、パウロは言います。

「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお、罪の中にあることになります。」

キリストが復活しなかったのなら、とパウロは繰り返しています。もしそうなら、私たちの罪が十字架によって贖われたということも嘘になる。そして、私たちの信仰も中身の無い絵空事になる。キリストの復活というのは他人事ではない。キリストだけが復活をして、あとの人は皆滅びてしまうなどということは、断じて無い。これは実に、私たちみんなが復活する、その道をキリストが開いてくださったのだと、パウロは言うのです。そこでパウロが持ち出すのが「初穂」という言葉です。20節です。

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

キリストが甦られたということは、私たちの「初穂」なのだ。私たちみんなが、やがて甦らされる。これがキリスト者が持っている希望です。私たちは死んだ後の世界を見ていないですから、世間には、いろんなことを言う人がいます。テレビを見ますと、死後の世界や霊の世界のことを勿体を付けて言う、うそ臭い人がもてはやされているようです。

しかし、そんなのは皆、当てにならない。キリスト教の葬儀は素晴らしいですねと、よく言われます。しかし、キリスト教会の葬儀が、いったい、どういう望みを持って行われるかというと、来世に対するいろんな解釈とか、極楽浄土を仰ぎ見るとか、そういうことではないのです。そうではなくて、イエス・キリストが私たちの初穂として復活なさった。そのことだけを見つめているわけです。なぜ、キリストの復活を見つめるのか。それは、キリストの復活こそが、今の私たちの命と切っても切れない関係にある、希望の源泉だからです。

死者の復活をめぐるコリント教会の人たちとの悶着は、よほどパウロの心を捕らえたらしく、パウロはこれ以降、手紙のあちこちで、私たちの究極の希望は何かということを、言葉を尽くして述べるようになりました。キリストの復活と私たちの命とは、どういう関係にあるのか。パウロの関心は、専ら、その一点に絞り込まれていきます。今日読まれたコロサイ書の御言葉も、まさに、その一点を語っております。

「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」

パウロの言葉遣いに注目してください。「キリストと共に」という言葉を繰り返し述べていますね。私たちはキリストと共にある。これがパウロの言いたいことなのです。ここをしっかり踏まえてから、パウロは、私たちの命の所在を語り始めます。3節に「あなたがたは死んだのであって」という言葉がありますね。そして1節に「あなたがたはキリストと共に復活させられた」とあります。つまり、私たちはキリストと共に死んで、キリストと共に復活させられたのです。これは何によって起こったかと言うと、洗礼に於いて起こったことなのです。そして、この洗礼の事実に立脚して、パウロは私たちの命の所在を明らかにしていきます。

私たちの命は、どこにあるのか。この問いにパウロは答えます。「あなたがたの命は隠されている」のだと答えています。隠されているのだったら、どこにあるのか分からないではないかと思われるかも知れません。しかし、この「隠されている」というのは、言葉を替えて言いますと「覆われている」「守られている」ということなのです。しかも、キリストと共に、神の内に覆われ、守られているというのですから、これほど確かな所在はありません。

パウロは、この一点を抑えた上で、「心を高く上げよ」と言います。心を高く、天に向けるのです。私たちが心を高く上げたとき、そこに私たちとは何の関わりも無いものがあるというのではない。そうではなくて、私たちの命がある。やがては朽ちてしまう地上の命ではない。「永遠の命」と呼ばれる命が、守られて、そこにある。

この「命の奥義」とも言うべき真理を、パウロは手紙のあちこちで述べております。このことをパウロは、別の手紙では、「我らの本国は天にある」と言いました。この命の真理を抑えておかないと、私たちの信仰生活が建前的なものになってしまいます。キリストの復活と私たちの生き方との関係が、ぼやけてしまうのです。

今日のお話の冒頭で述べたコリント教会の人たちの問題は、じつにここに原因があった。キリストの復活は信じるけれど、自分たちがやがて復活させられるなんて、信じられない。つまり、主イエスの復活が他人事になっていたわけです。どういうことかと言いますと、信仰が建前になっていたということなのです。だから、信仰と生活が、なかなか結び付かない。これがコリント教会の人たちが抱えていた問題点です。キリストの復活が他人事になっているというのは、そういうことなのです。

そう思って、もう一度、コロサイ書の御言葉を見てみますと、大事なことに気付かされます。1節から4節までのところで、パウロは、キリストの復活と私たちの命の関係について熱く語っておりました。それを受けて、次の5節から後は、どうでしょう。パウロは、私たちの生活について語り始めていますね。まさに、パウロは、キリストの復活と私たちの生活との関わりを語っていくわけです。3節から5節を、続けて読んでみたいと思います。そのつながり具合を、どうか皆さん、心に響かせながら聞いていただきたいと思います。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。」

いかがでしょうか。「だから」という言葉が利いていますでしょう。キリストの復活と私たちの生活は「だから」という言葉で結ばれている。これが大事なのです。このあと、コロサイ書は、私たちの生活のあらゆる局面を取り上げて、それらすべてを5節の冒頭の「だから」に結び付けて語っています。日々の信仰生活を語り、夫婦の生活を語り、親子の有り方を語ります。奴隷と主人の関係まで語っています。それらがすべて、「だから」という接続詞によって、キリストの復活と結ばれている。そこにこそ、キリストの復活の真理が隠されている。そこに目を開かれることが大切です。

ですから、皆さんお一人お一人が、キリストは十字架にかかり、死者の中から復活をなさったということを、真面目に考えて、心に刻んでいただきたいと思います。そして、皆さんお一人お一人が、キリストの復活を他人事のように思うのではなく、キリストの復活によって与えられている自分の救い、本当の生き方というものを、しっかりと確認をして、掴んでいただきたいと心から願うものです。

この説教は丸岡教会でなされたものです。

 

 

 

 

 

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