申命記8章1~10節・マタイによる福音書4章1~4節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8章3節)

「あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。」(申命記8章8章16節)

 

今日は申命記8章の1節から10節を読みました。これはモーセがイスラエルの人たちに語った言葉です。エジプトを脱出したイスラエルの人々が40年の荒野の旅を経て、ヨルダン川を渡って今、約束の地カナンに入ろうとしている。モーセは今、この荒野の旅を振り返って、人々に言い残す言葉、遺言を語っている。そういう場面です。3節を見ますと、こう書いてあります。

「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。」

ここに「苦しみ」という言葉が出ております。40年に及ぶ荒野の旅は、苦しい旅だったのです。苦しむということは、私たちの人生にとって、じつに切実な問題です。今まで苦しんだことのない人というのは、おそらく、一人もおられないと思います。今日、この礼拝にかけつけた皆さんの中にも、どうしても心を去らない苦しみや痛みを抱えながら礼拝をしている方もあるでしょう。私たちが生きていく上で、悩みや苦しみは、どうしても避けられないことだと思います。

よく日本の宗教は、これこれを信じたら苦しみが無くなりますと言って、有難い御利益を宣伝しますが、聖書はどうかと言うと、聖書は苦しみを否定していない。むしろ、苦しみに遭うのは当たり前だとさえ聖書は語っています。イエス様も弟子たちに「あなたがたはこの世で苦難がある」と言っておられます。苦難があることを否定しておられないのです。なぜでしょうか。主イエスは続けてこう語っておられるのです。

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

聖書が苦しみを否定しないのは、訳がある。苦しみの只中に、主が共におられる。そのことを聖書は知っているのです。

また、聖書は苦しみが祝福をもたらすことを語っています。詩編の119編に、次の言葉があります。

「苦しみに遭ったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(口語訳)

これは強がっている言葉ではありません。苦しみというものを本当に受け止めて、それに正しく対処することが出来た人、その人は「苦しみに遭ったことは、わたしに良い事であった」と心から言えるのです。モーセは今、40年の荒野の旅で経験したイスラエルの人々の苦しみは、そういうものだと語っています。

「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。」と言われています。ここに、私たちが心に留めるべきことが、一つ、出ております。それはどこかと言いますと「主があなたを苦しめ」と書いてあります。40年の荒野の旅は、ただの偶然ではなく、神様がことさらに、イスラエルの人々に与えた苦しみであった、ということです。

神様が人を苦しめるなどと聞きますと、私たち日本人はすぐに祟りだとか神罰が下ったとか、そういうことを連想してしまいます。また因果応報ということも、日本では嫌と言うほど言われることです。しかし、聖書はそうは考えない。ここで言われている「主はあなたを苦しめ」というのは、そういう、罰が当たった、ということではないのです。

では、どういうわけで、神様はイスラエルの人々を苦しめたのか。そこが問題になってきます。ここで、もう一か所、同じ申命記の御言葉を読みます。8章16節の御言葉です。

「あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。」

なぜ神様はイスラエルの人々を苦しめたのか。その理由がここにハッキリと書かれています。神様が人々を苦しめられたのは、この人々を本当の意味で幸福にするためであった。これは、逆に言いますと、この人々を真の意味で幸福にするためには、あの荒れ野の苦しみを経験させなければならなかっとたということです。

この言葉は、私たちが耐え難い苦しみに遭った時に、よくよく耳を傾けなければならない言葉だと思います。私たちの人生を支配しておられる神様が、どうして私たちをこうまで苦しめられるのか。それは決して罰でもなければ、祟りでもない。ついには、あなたを幸福にするためなのだと。私は、この言葉はとても大きな言葉だと思います。私たちは、主イエスを救い主と信じ、神の子とされていることを信じて信仰生活に入ったのに、どうしてこんな苦しい目に遭わないといけないのか。信仰に入る前の方が、もっと苦しみが少なかったと、そう感じておられる方もあると思います。その時に、どうかこの言葉を思い出していただきたいと思います。

「それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。」

しかし、幸福にすると言っても、それはどういう幸福なのだろう。どうも聖書が言う「幸福」というのは、世間一般が言う幸福とは違うのではないかと、うすうす感じておられる方もおられると思います。さあ、聖書が語る「幸福」とは、どういうものなのでしょうか。それについて、3節にこんな言葉があります。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

この3節と、先ほど読んだ16節は、じつは同じことが言われています。ただ言い方が少し違います。なぜ神様があなたがたを苦しめたかというと、それは「あなたがたを幸福にするためであった」というのが16節ですが、その「幸福にする」ということの意味はこういうことだと語っているのが、3節の言葉です。

ここに「パン」という言葉が出て来ます。これは実際のパンのことも含んではいますが、それよりも、もっと広い意味で、私たち人間の肉体を生かすもの、生命の維持に必要なもの、という意味があります。

私たちは食物を摂って、呼吸をして生きている。それは確かなことです。しかし、聖書は、誰もが確かなことだと思う、その一点に向かって疑問を投げかけます。本当に人はそれで生きていると言えるのかと。

この疑問に対して、聖書は「人は主の口から出るすべて言葉によって生きるのだ」と答えています。「主の言葉」と言わずに、敢えて「主の口から出る言葉」と言われています。さあ「主の口から出る言葉」って、どんな言葉なのでしょうか。「口から出る言葉」といっても、神様に口があるとは考えにくいですから、これは一種のメタファ・譬えで言っているわけです。

言葉にも、いろんな言葉があります。例えば法律とか規則の言葉は、特定の人ではなく、みんなに当てはまるようにしてある。そういう意味で、これは動かない言葉です。法律の言葉が相手によって変わったら大変ですね。

それに対して、特定の相手に向かって、諄々と語られる言葉があります。例えば親が我が子を教え諭す言葉。これはほかの誰にもあてはまるというわけではない。子どもと自分との関係の中で、心を込めて語りかけられる言葉。これは生きた言葉です。この生きた言葉のことを、聖書は「口から出る言葉」と呼んだのです。

ところで、私たちが日ごろ、聖書を読む時、どういう心持で読んでいるでしょうか。多くの人は、聖書の中に人間が生きていく上での真理が語られていると思って、その真理を見つけようとして聖書を読んでいます。目的があるわけです。悪いことではありません。しかし、目的というのは、打ち砕かれると弱いのです。

福音書に金持ちの青年のお話がありますね。あの青年にも目的がありました。永遠の命を得たいという目的です。ところが、イエス様は彼のこの目的を揺さぶられた。すると、彼の心は激しく波打って動揺する。その時、イエス様は「私に従いなさい」と言われたのだけれど、彼は自分の目的が揺さぶられたことに動揺して、主の御言葉を聞くことが出来なくなった。彼は悲しみながら立ち去って行きました。

目的がある生き方というのは、そういう弱さを秘めていることなのです。私たちが抱く目的は、必ず効果を期待します。効果を期待する目的のことを、世間では「下心」と言います。いわゆる「目的・効果論」というやつです。目的と効果を両天秤にかける考え方です。目的に見合う効果が得られれば満足するけれど、さしたる効果が得られないと、「たいしたことねえや」と言って立ち去ってしまう。聖書も、二度と開かない。そういうことになってしまいます。

私たちが聖書を読む時、目的を持たない、効果を期待しない。素の心で読むことが大事です。これは何も期待しないで読むということではない。大いに期待して良いのです。しかし、効果を期待するのではなく、神様が語りかけてくださる。そのことを期待して読むのです。

私が大阪の教会で求道していた頃、よく言われたのは、聖書を読む時は祈ってから読みなさいということでした。なるほど、確かにこれは正しい指導です。しかし、これは、なかなか出来ないことでもあります。しかし、私は思うのですが、聖書を読むという行為自体が、じつは祈りなのです。ですから、今日はお祈りせずに聖書を開いてしまったと悔やむのではなく、そのまま読んでいけば良いのです。

しかし、聖書を読む時、二つのことを心に刻むことが大事ではないかと思います。一つは、神様は必ず私の祈りに答えて下さる。必ず生きた御言葉を語ってくださると信じること。もう一つは忍耐して読むということです。必ず神様は答えてくださる。だから、それまでは忍耐して待つ。御声を聞くまでは、ほかのもので代用しない。どんなにこの道が良い、こうしたほうが良いと思っても、神様の御言葉を頂くまでは、ほかの道を選ばない。この忍耐が大事です。

皆さんも経験がおありのことと思います。人生の予期せぬ出来事や苦しみの中で、祈り悩んだその果てに、御言葉が光を放って、私たちの心を照らし出してくれた。ルカによる福音書の23章に、次の御言葉があります。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

これは主イエスが十字架の上で祈られた祈りの言葉です。この御言葉を栄冠幼稚園の先生方と一緒に読んだ時、「彼らをお赦しください」の「彼ら」って誰なのかということが話題になりました。逃げた弟子たちとか、イエス様を十字架につけた人たちとか、十字架を見ていた人たちとか、いろんな答えが返って来ました。その最後に、こんなことを言う人がいました。彼女はこう言ったのです。

「ひょっとして、私たちも入っているのですか。」

御言葉が光を放った瞬間でした。それまでは、2千年の時を隔てて聖書を読んでいた。イエスという方が2千年前、人々にこう言われたのだと読んでいた。それが、どうでしょう。今、イエス様が私に向かって語っておられるのだと分かった。こういうことが起こってくるのです。

人は何によって生きるのか。人はパンだけで生きるのではない。人は生ける神の口から出る言葉によって生きるのだ。このことを、私たちは日々の信仰の歩みの中で確認をしたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

3月17日(日)のみことば

「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。」(詩編139編23節)

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来た我が家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出掛けて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(ルカ福音書11章24~26節)

今日の新約の御言葉は主イエスのユーモアが感じられる言葉です。追い出された悪霊は必ずもう一度戻って来るというのです。せっかく主イエスによって悪霊を追い出していただいたとしても、聖霊を主人として迎え入れなければ、その人の心は空き家も同然。そこは悪霊がいなくなって、掃除がしてあって、いかにも住み心地が良さそうです。そこへ悪霊が戻って来る。すると、うまい具合に空き家になっているではありませんか。そこで悪霊は大いに喜んで出掛けて行って、自分よりもさらにたちの悪い七つの霊を連れ込んで一緒に住み着く。すると、その人の状態は、悪霊を追い出してもらう前よりも、さらにひどくなったというのです。

これは私たちにも思い当たることがあります。せっかく主イエスと出会って、救われて洗礼にまで導かれても、そのあとの信仰生活が無責任で聖霊とも聖書とも関係のない、いいかげんな生活をしていると、そこへ一度は追い出された悪霊がもう一度戻って来る。見ると、主人が不在で、家はきれいに整えられている。すると悪霊は、さらに七つの霊を連れ込んできて、一緒に住み込む。すると、その人の状態は洗礼を受ける前よりもさらに悪くなる。主イエスの警告の譬えです。