聖書:出エジプト記20章1~17節・ローマの信徒への手紙8章1~3節

説教:佐藤 誠司 牧師

「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。』」(出エジプト記20章1~4節)

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書43章1節)

 

先週に引き続いて、出エジプト記第20章の十戒の御言葉を読みました。説教題を「福音としての律法」と致しましたが、これについて違和感を感じられた方もおられると思います。と言いますのは、私たちは常々、福音と律法は対立するものだということを教えられてきたからです。特にパウロの手紙、ローマ書やガラテヤ書を見ますと、そのことが強く言われています。律法ではなく、福音に生きることが大事なんだと繰り返し言われています。

ところが、そのパウロがローマ書の8章で不思議なことを語っております。8章の2節です。

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

ここに「法則」という言葉が出て来ております。この言葉は、聖書の原文を見ますと、じつは「律法」という言葉が使われております。実際、ほかの箇所では、この言葉は、ほぼすべて「律法」と訳されています。それを、敢えて「法則」と訳したのです。ここを「律法」と訳しますと、なんだかややこしい、意味が通じにくい。そこで、意味が通じるように、敢えて「法則」というふうに、意訳をしたのだと思います。おかげで、分かりやすい日本語になりました。ここを「法則」と訳すことは、口語訳聖書も新共同訳聖書も、最新の聖書協会共同訳も支持しています。意訳ではありますが、疑念の余地のない翻訳なのです。

ところが、ごく少数の人々が、これに対して疑問を呈してきた。どういうことかと言いますと、パウロはもともと、ここを「律法」という意味で語っていたのではないかと。もしそうであるならば、ここには二通りの律法があるということになります。一つは「罪と死の律法」。私たちがふだん「律法」と呼んでいるのは、この「罪と死の律法」のことです。

それに対してあるのが「命をもたらす霊の律法」です。そういう律法があるのだとパウロは言うわけです。元来、聖書は一つのものです。聖書それ自身が対立して分裂するということはない。あくまで聖書は一つのものです。そうしますと、私たちは旧約聖書も福音として受け取らなくてはならないのではないかと思います。

そこで、パウロが言う「命をもたらす霊の律法」という言葉をもう一度、旧約聖書の律法に立ち帰って、一から考え直してみたいと思います。そこで、律法と呼ばれるものの中でいちばん有名な十戒について、ご一緒に学んでみたいと思います。

十戒といえば、「十の戒め」と書きますので、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めから始まると考える人が多いと思います。確かにモーセが神様から頂いた石の板には、ここから十戒の言葉が刻まれていたと思われます。しかし、この戒めの言葉は、言ってみればメモのようなものです。要点だけを短く記すのがメモです。

皆さんがメモを取るには、どんな時でしょうか。大事な話を聞く時ですね。大事な話なんだけれど、全部を書き記すわけにはいかない。そこでお話の要点だけを書き記す。それがメモです。ですから、後になってメモを読み直しますと、なんだか味気ない。こんな話だったかなと思うことがある。大事なのは要点だけではないのです。

十戒の言葉も、これとよく似ています。十戒の要点である戒めの言葉だけを読んでいきますと、私たちは十戒が本当に言いたいことが分からなくなってしまうのです。この第一の戒めの前、20章の1節と2節には、十戒全体の全文があります。そこにこう書いてあります。

「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』」

ここが大事なのです。ここから「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」というふうに続いて行くわけです。この第一の戒めは、その前の「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という言葉と決して切り離してはならない。いわば不可分の関係にある。これが一つ、大事な点です。

これは何を言っているかと言うと、もう皆さんご存じのとおり、イスラエルの人たちはかつてエジプトで奴隷であった。その人々の叫びを神様は聞いてくださって、モーセを遣わして奴隷の家から導き出してくださったのです。

この十戒が記された20章の少し前、19章の初めのところに、十戒の心を知る上で大事なことが記されています。19章の3節以下です。

「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと。また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』」

いかがでしょうか。ここでは20章よりもさらに詳しく神様がなさった業が語られています。要するに、神様はイスラエルの人々を愛して、本当に御自分のものとして責任を負い、彼らを祝福してくださったのです。

どうしてそんなことになったかと言いますと、ずっとさかのぼって、やはりアブラハムに行き着く。モーセが初めて神様にお会いした時に、神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。アブラハムまで行くのです。アブラハムは、ある日突然、神様から言葉をかけられて、「わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福の源となる」と言われた。一番の元の起こりは、やはりここなのです。「祝福の源になる」というのは、「あなたの子孫によって全人類が祝福に与る」ということです。

この目的のために、神様はイスラエルの人々を選び、導いて、このシナイ山に連れて来た。今、神様はイスラエルの人々の前にご自身を明らかに示して、確認をさせておられる。神様が求めておられるのは、イスラエルの人々がこの神様の愛を感謝をもって受け入れ、受け取ることです。ですから、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」というのは、何か法律のような規則としてあるのではなくて、神様が「わたしはあなたたちを愛している。この愛を受け取ってほしい」と言っておられる。それが、十戒の心なのです。

私たちは、ややもすると、律法とは裁きである、堅苦しい規則であり、命令であると思い込んでいます。しかし、律法のいちばん元にある十戒が、じつは今お話ししたように、神様の深い愛の現われだったのです。このことは、じつは十戒だけでなく、旧約聖書全体を貫いている大事な原則です。それは、喩えて言えば、コマの心棒のようなものです。コマにはいろんな部分がありますが、それらすべてを支えているのは一本の心棒です。この心棒を中心にしてコマ全体が回ります。

旧約聖書も、これとよく似ています。いろんなことが書いてあります。その「いろんなこと」のあれやこれやに目を奪われていますと、いったい旧約聖書というのは何を言っているのか、もう訳が分からんということになってしまいます。

では、旧約聖書の心棒はどこにあるか。そこが問題になってきます。礼拝の冒頭にある招きの言葉で、しばしば読まれる御言葉に、イザヤ書43章1節の言葉があります。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

神様の御心が預言者を通して切々と語られています。「どんなことがあっても恐れてはならない。狼狽してはならない。なぜなら、天地の造り主である私があなたを贖ったのだから。あなたのすべてに私が責任を負うている。私はあなたの名を呼ぶ。あなたは私のものだ。」 これが旧約聖書全巻を貫く神様の御心です。

律法と呼ばれるものもまた、この神様の御心の現われです。ここから私たちは律法をもう一度読み返し、読み直してみることが大切です。私たちは、旧約聖書といえば、イエス様も出て来ないし、聖霊も出て来ない。旧約聖書には厳しい神様しか出て来ないではないかと、そういうふうに思いがちです。しかし、これは、じつは誤解です。

確かに旧約の時代には「三位一体」ということは、まだ知られてはいません。しかし、それは人が知らなかったということであって、「父、子、聖霊」なる神として、神様は生きて働いておられた。「三位一体」が知られていない旧約の時代に、「神は言われた」とか「主は言われた」と言われる時、それはじつは、この「父と子と聖霊」なる神様のことを言っている。ですから、先ほどのイザヤ書の「わたしはあなたを贖う」というのは、父なる神様の言葉であると同時に、主イエス・キリストの言葉でもあるのです。

このように、私たちは、神の愛の現われとして律法が与えられたのです。ところが、人間はこの律法を受け取りそこなったのです。どういうことかと言いますと、本来は神様の語りかけの言葉だった律法を、法律の条文の言葉として受け取ったのです。法律というのは、そこに書かれている条文そのものが絶対の権威を持っています。ですから法律は、そこに書かれているとおりのことが要求されるわけです。しかし、神様の律法は、そうではなかった。律法は、固定されて絶対に動かすことの出来ない規則の言葉ではない。律法の言葉というのは本来、それを通して神様の御心に出会う、そのために与えられた語りかけだったのです。

ところが、この語りかけの言葉が、本来の神様との生きた関係を離れて、規則だけが絶対化される時に、それは人間に死をもたらすものとなりました。このことをパウロは「文字は人を殺し、霊は生かす」と言いました。イスラエルの人々は律法を文字として受け取り、文字として守ろうとしました。こうして生まれてきた生き方が「律法主義」と呼ばれるものです。律法主義に陥りますと、聖書の読み方が分からなくなってしまいます。法律の条文のように固定された言葉として読んでしまうから、読み方が分からなくなってしまうのです。しかし、聖書の言葉が固定されてはいない。

聖書の言葉というのは、その一つ一つを別々に取り上げますと、これはどう受け取ったら良いか分からなくなってしまうほど、多様です。前に言っていたことと、後になって言っていることが対立する、矛盾するなんてことが実際、起ってくるわけです。しかし、聖書というものは、じつは、聖霊の働きと深い関係がある。神様が聖書の言葉を通して語ってくださるという前提のもとに書かれています。そのような聖霊の働き、神様の働きを離れて、一つの思想として、あるいは規則として私たちが聖書を読もうとしますと、それこそこれは迷路の中に足を踏み入れるようなものです。ある人は、特定の言葉を絶対だと主張するでしょうし、別の人はそれと反対の事を言うでしょう。例えば、新約聖書でも、パウロの手紙とヤコブの手紙では言っていることが180度違う。こういうのを読み比べると、本当に困ってしまうわけです。

しかし、そこに、じつは「神様がこれらの言葉を通して私たちに語りかけてくださる」という神様と私たちとの生きた関わりを前提としているから、これがちゃんと筋の通ったメッセージになるわけです。

十戒の最初のところに「神はこれらすべての言葉を告げられた」とありました。この「告げられた」というのは、「語りかけられた」ということです。私たちの神様は語りかけてくださる神様です。それに対して、聖書は偶像のことを「もの言わぬ偶像」と呼んでいます。偶像は語りかけてはくれない。偶像礼拝というのは、私たち人間の宗教心が作り出したものです。人間の宗教心が作り出したものを金や銀で豪華に飾り付けたのが偶像です。それがどんなに芸術的で美術的な価値があろうとも、結局、それは私たちの心の反映であり、願望が映し出されたものに過ぎません。もの言わぬ偶像は、語りかけてはくれないのです。

しかし、聖書は天地の造り主である神様が今、あなたに語りかけてくださるのだと約束しています。聖書を開きますと、あちこちに「神はこれらすべての言葉を語って言われた」とか「神は言われた」とかいう言葉が繰り返し出て来ることに、皆さん、気づかれると思います。神は語られたというのが、聖書の大事なメッセージです。神が語り、私が聞く。これが今私たちがやっている礼拝の本質です。

私たちの人生は、まさに予測不可能、予期せぬ出来事に直面します。うろたえもしますし、慌てもします。がっくりくることも、あるでしょう。そんな私たちに、神様が聖書をとおして語りかけてくださる。そのメッセージに耳を澄まし、心を高く上げて聴き従いたいと願うものです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

3月10日(日)のみことば

「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(旧約聖書:詩編51編14節)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて、真理をことごこく悟らせる。」(ヨハネ福音書16章13節)

ヨハネ福音書の中で、聖霊は様々な呼び名で呼ばれています。「助け主」「慰め主」「真理の霊」「弁護者」というふうに、じつに様々です。それだけ、聖霊の働きは多様だということなのでしょう。しかし、その働きの本質は「弁護者」です。聖霊とは、キリストを信じる者に必ず与えられる神からの弁護者なのです。その聖霊が、真理を悟らせてくださる。さあ、その「真理」とは、どういうことなのでしょうか?

聖霊の賦与に当たって、主イエスは弟子たちに不思議なことを語られました。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」

この「実を言う」というのは「真理を告げる」という意味があります。ということは、キリストが去って行かれて、聖霊が来られる。そのことの中に「真理」はある、ということです。さあ、キリストが去り、聖霊が来ることによって明らかになる「真理」とは何なのか?

それは、まことに不思議な聖霊の働きのことです。聖霊が働いて、イエス・キリストは2千年前のお方なのに、そのお方が今、ここに生きておられて、今目の前で私に向かって語っておられる。2千年の時の壁を越えて、今ここにおられる。私と共にいてくださる。これは錯覚でもなければ、幻覚でもない。紛れも無い聖霊の賜物です。