聖書:申命記29章9~14節・ヘブライ人への手紙4章16節

説教:佐藤 誠司 牧師

「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。」(申命記29章9節)

「わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。」(申命記29章13~14節)

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネによる福音書4章23節)

 

今日は申命記29章の9節から14節を読みました。今、私たちは旧約聖書の学びを続けているわけですが、旧約を取り上げる時に、避けて通ることが出来ないのが、旧約の人々の礼拝の姿です。出エジプト記20章の18節以下に、こんなことが書いてあります。

「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。』」

ここはモーセを指導者とするイスラエルの人々がシナイ山で礼拝を守って、神様から十戒を授かった。その時の模様を伝えている箇所です。人々は恐れおののいています。十戒が与えられたという空前絶後の礼拝だったということもあるでしょうが、ここには旧約時代の礼拝の姿が鮮やかに語られていると思います。神への恐れがあったのです。

それに対して、今の私たちの礼拝は、どうでしょうか。どちらが良いというような短絡的なことではありませんが、少なくとも、神への恐れというのは礼拝が本質的に持っているものでしょう。その恐れが今の私たちの礼拝にあるでしょうか。

日本の教会、特にプロテスタントの教会は、伝道集会のような心持で礼拝を守ってきました。多くの教派が比較的最近になって日本に入って来たものですから、回りはすべて異教の人たちです。その人たちに聖書のメッセージ、福音のメッセージを伝えなければならない。大変です。礼拝をしましても、信者ばかりではないのです。

いきおい、新しい人たちに解っていただくことが当面の目的になります。教会の礼拝に足を運んでくれた人たちに、とにかくキリスト教は良いものだと思ってもらう。聖書のメッセージに好意を持ってもらう。そういう目的を無意識のうちに育みながら、日本の教会は歩んできました。ですから、そういう伝道集会的な礼拝で中心になるのは、説教を聴くことです。大事なことです。しかし、そこでは神様が臨在しているという厳しさは、ややもすれば、希薄になります。

ところが、先ほどのイスラエルの人々の礼拝はどうでしょう。伝道集会ではないですね。全員が荒野の旅を経験して、主なる神様に対する信仰を持っている人々が、今、神の御前に出る。大変な緊張感があるのです。

それなら、我々日本の教会の礼拝はダメで、古代イスラエルや、その伝統を引く欧米の礼拝は立派かというと、そんな短絡的なことではない。旧約聖書を読みますと、イスラエルの人々が陥った、誤った礼拝のことが繰り返し出て来ます。最初は素朴で力強かったイスラエルの人々の礼拝が、神殿が建てられたことを機に、段々と大げさになり、華美になって、見た目に美しいものになっていきます。壮麗な神殿があって、そこで犠牲がささげられ、美しい音楽が奏でられる。ああこれは立派な礼拝だと多くの人々が感嘆の声をあげた。

それに対して、預言者たちが痛烈な批判を繰り広げました。どうして預言者たちは人々の礼拝を批判したのか。それは、礼拝と実際の生活とが全然結び付いていないからです。神様を賛美しているのに、貧しい隣人を奴隷に売り飛ばす。早く礼拝を終わって商売しに行こうと言い合っている。いったい何のための礼拝なのかと預言者たちは批判したのです。

今日は申命記の御言葉を読みましたが、旧約の専門家によりますと、申命記という書物は、当時の礼拝の順序で書かれているといいます。どういう順序かと言いますと、最初にシナイ半島で起った出来事をずっと語りました。神様がイスラエルの人々をどんなに憐れんでくださったかを語って、そのあとにモーセの勧告の言葉が続きます。そのあと、ではその神様に従って行くにはどうすれば良いかということで、ここで律法が語られるわけです。

そして律法が語られたあとで、契約の言葉が出て来ます。神様とイスラエルの人々が契約を結ぶわけです。申命記はこの契約の儀式については語っていませんが、出エジプト記がこの儀式の有様を語っています。モーセが律法の言葉を人々に読み聞かせたあと、「あなたがたはこれを守るか」と問います。すると人々は「はい、守ります」と答えます。この言葉による応答のあとで、モーセは動物を犠牲にささげて、その血を取って、半分を祭壇にかけ、あとの半分を人々の頭に振りかけました。

こうして契約締結の儀式が終わります。そして最後に「祝福と呪い」が宣言されます。あなたがたがこの契約を守るならば、神様はあなたがたを祝福してくださる。しかし、もしこの契約に背くなら、呪いが来る。これを「祝福と呪い」と言って、これが礼拝の締めくくりになって、礼拝が終わる。これが古代イスラエルの礼拝の順序でした。まず、神様からの恵みを確認して、次に勧めがあって、次に守るべき律法が語られ、「それを受け入れます」と約束をして、最後に祝福と呪いがある。イスラエルの人々は、そういう形の礼拝を守っていました。ところが、時代が下がると共に、礼拝の形は整えられて行きましたが、本当に神様の前で約束をし、契約を結ぶという厳粛さが失せてしまった。

イスラエルの信仰にそういう危機が起こった時に、この申命記という書物は書かれたのです。申命記はモーセの遺言という形で書かれています。40年の荒野の旅を導いて、モーセは今、死を目の前にして、最後の言葉を語っている。そういう設定で申命記は書かれている。しかし、これはモーセが筆を執って書いたものでもなければ、誰かがモーセの語る言葉を聞いて口述筆記したものでもない。じつは、この申命記の中心部分が書かれたのは、モーセの時代から数百年の後です。

それは先ほど言いましたように、イスラエルの礼拝が形は整えられましたが、神様に対する恐れも信頼も無い。儀式中心の形式だけになっている。そういうことを憂慮する人たち、その多くは下級の祭司や宮廷の書記官たちであったと思われますが、その人々が、もう一遍あのモーセの時の信仰の原点に立ち帰ろうという願いを込めて書いたのが、この申命記だったのです。今日読んだ箇所の9節に、こんな言葉が出て来ました。

「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。」

これなのです。礼拝で大切なのは、この一点です。この一点を揺るがせてしまいますと、おかしなことになってしまいます。礼拝というのは、ただ昔のことを思い起こして、その説明をしたり、解説を加えたり、そこから何か大切な教えを受けようというものではない。あのモーセの時に起こった出来事、神様とイスラエルの間に結ばれた約束が、今、ここで、もう一度起こっている。モーセの時に神様がイスラエルの人々の前に臨んでくださったように、今、この礼拝にも臨んでおられる。ここに神様がおられる。そのことを確認する。そこから賛美が生まれ、祈りが引き起こされていく。それがこの申命記が言おうとしていることです。13節と14節に、さらに大事なことが言われています。

「わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。」

これはじつに意味深長な言葉です。最後に出て来る「今日、ここに我々と共にいない者」って、いったい誰のことなのでしょうか。もう、うすうす気が付いておられる方もあるかと思います。これ、私たちのことなんです。先にも言いましたように、申命記はモーセの時から数百年も後に書かれたものですから、申命記を書き記した人々は、自分たちよりも数百年、数千年後にも同じ神を礼拝する人たちがいることを、想定することが出来たのです。彼らはタイムカプセルのようなものを、モノではなく、出来事として想定することが出来た。これは凄いことだと思います。数千年後にも、この同じ神様を信じて、礼拝をする人々がいる、ということを申命記は見抜いていたのです。見抜いただけではありません。何千年か後の人々がまことの礼拝を守るようにと、心から願ってこの申命記は書かれたのです。

聖書に書かれているのは、ことごとく古い事です。しかし、その古い事と私たちが今、どう関わりを持つか。そこが肝心要です。私たちが普通、古い書物と関わりを持つ場合、そこに書かれていることに感心して、ああ、これはなかなか良い事だ、これをひとつ、自分の生活に利用しよう、参考にしようというふうにして関わりを持ちます。自分の気に入るものを受け入れて、それを自分のものにして自分を養って行くわけです。

しかし、礼拝は、そうではないですね。過去にあったものが、今、ここに起こっている。今の事として起こる。申命記を書き記した人々は、そこに気が付いていたのです。まことの礼拝は時の壁を越えて起こる。

このように考えますと、聖書というのは、じつに不思議な書物だと思います。ほかの書物は、どんなに優れた書物であっても、過去のものです。今、大河ドラマで改めて源氏物語が注目を浴びていますが、いくらテーマが現代に通じるものであっても、あれは過去の文学です。私たちも、かつて、こういうことあったのだ思って読みます。

しかし、聖書は違います。なぜ違うのか。聖書は、その中で生ける神様が語りかけてくださる書物だからです。その意味で、聖書は現在の書物なんです。申命記を書いた人々は、それを知っていた。この人々は、モーセの時のことを思い起こしながら、それを現在のこととして書きました。これは、普通だったら嘘になりますね。何百年も前の事を今の事のように書いたら、噓になります。けれども、聖書では、それは嘘ではない。

「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。」

今日、今日なのです。今の出来事なのです。今、あなたがたは、あのモーセに語りかけ、イスラエルの人々をエジプトから導き出した神様の前に立っている。主イエスを死者の中からよみがえらせた神様の前に立っている。こうして、主の日にこの礼拝が行われている。

神様の前に出るのですから、私たちは心も形も改めなければなりません。日常の延長ではないのです。イスラエルの人々は神様の前に出ることを恐れました。ちょっとでも私たちは神様の声を聞くことは出来ませんから、モーセさん、あなたがどうぞ神様のお言葉を聞いて、それを私たちに取り継いでください。私たちはあなたの言葉を神様のお言葉として聞き、従いますから、神様に直接お会いすることだけは勘弁してくださいとモーセに頼みました。そういう厳しさがあったのです。

もちろん、イエス様が来られてからは、私たちの神様に対する思いが一変しました。イエス様ご自身が神様を「父」と呼びなさいとおっしゃった。恐れることなく、むしろ心安んじて神様の前に立つことを教えていただきました。しかし、それでも、ただの人の前に出るのとは違います。

神様の前に立つというのは、またとない特権と言いますか、恵みなのです。この恵みの背後には、やはり主イエスの十字架と復活があります。私たち罪人が心安んじて神様の御前に出ることが出来るためには、私たちの罪を贖って、神の前に清い者としてくださった十字架と復活の御業がどうしても必要だったのです。そして、主イエス・キリストの十字架と復活は、礼拝そのものの意味を一変させました。罪の赦しを乞い願う礼拝から、罪の赦しと永遠の命に感謝をささげる礼拝に変えられて、私たちは今、この礼拝をしています。主イエスはスカルの井戸のほとりでサマリアの女性に、こうおっしゃいました。

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」

今がその時なのだと言っておられる。これはサマリアの女性に言われた言葉ではありますが、それと同時に2千年の時を超えて、今、礼拝をしている私たちに向けられた招きの言葉でもあります。主イエスはまことの礼拝へと私たちを招いておられます。この招きに喜んで応える者でありたいと切に願います.

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

3月24日(日)のみことば

「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」(旧約聖書:イザヤ書50章4節)

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ福音書10章42~44節)

口が酸っぱくなるほど、という言い方がありますが、これは主イエスが、まさに口が酸っぱくなるほど繰り返し弟子たちに語られた言葉です。逆に言えば、弟子たちは、主イエスがこのことを繰り返し諭さなければならないほど、上昇志向だったということです。偉くなりたいし、人から偉く見られたい。あの人は、なかなか頑張っている。見上げたもんだと言ってもらいたいのです。主イエスは、そんな弟子たちの身勝手な願いも、愚かな上昇志向の心根も、すべて承知して、こう言われました。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

物語はここで終わっています。考えてみれば、唐突な終わり方だと思います。私たちは教会生活を続ける内に、福音書の語り口調に慣れてしまっていますから、あまり違和感を感じないかもしれませんが、初めて福音書を読む人は、なんでここで終わるのだと、不思議に思うのではないでしょうか。福音書の物語は、主イエスが言われた決定的な言葉で終わっていることが多いのです。これが普通の文学作品なら、決定的な言葉を聞いた相手の人物の反応や心の思いを描くことが多いと思います。しかし、福音書は、敢えてそうはしない。なぜでしょうか。福音書は私たちの判断と行動を問うているのです。