聖書:使徒言行録16章16~40節

説教:佐藤  誠司 牧師

「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」 (詩編23編3~6節)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。』看守は明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外に連れ出して言った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」 (使徒言行録16章25~34節)

 

今日、私たちに開かれている御言葉は使徒言行録の第16章が伝えるパウロの第二回伝道旅行の物語です。この第二回の伝道旅行の特徴は、キリストの福音がヨーロッパ世界まで進出していくことでしょう。ヨーロッパといえば、今でこそキリスト教世界と思われていますが、当時のヨーロッパ世界は全くの異教世界です。そこへキリストの福音が入って行くのです。大変なカルチャーショックが起こってきます。反対する力が大きかったのです。しかし、その中で、たった一人の人が御言葉に心開かれて、そこから信じる人々が起こされていきます。伝道とは人の業にあらず、主が生きて働かれる。そのことを一番示されたのは、当の伝道者たちであったと思います。

使徒パウロも、その一人でした。パウロは第二回伝道旅行でヨーロッパ世界に渡るのですが、使徒言行録によりますと、これは彼の当初の計画ではなかったようです。パウロは当初、第一回伝道旅行で訪ねた町々をもう一度訪ねて、兄弟たちを励まそうと考えたのでした。ところが、その計画は、不思議なことに、聖霊によって阻まれます。御心ではなかった、と言いますか、神様には別のご計画があったのです。そして、パウロは南に進むことも北に進むことも聖霊に阻まれて、仕方なく内陸部を行くことになります。内陸部には大きな町はありません。パウロは西へ西へと向かって、小アジアの西の果てにある、トロアスという港町に到着します。パウロたちにとってみれば、ここは地の果てです。我々の伝道の旅も、ここで終わるのかと思ったかも知れません。ところが、その夜、幻の中で、一人のマケドニア人が立って、こう願ったのです。

「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください。」

この幻がヨーロッパへの道を開きます。それまで地の果てだ、地の果てだと思っていたこのトロアスの港が、新しい世界へ通じる扉だと分かったのです。マケドニアはヨーロッパ世界の東の玄関口に当たります。このマケドニアでパウロたちが最初に伝道したのが、フィリピの町でした。12節を見ますと、フィリピの町はローマの殖民都市であったと書かれています。これはローマ帝国の政策によって、主としてローマ軍の退役軍人に入植が奨励されて、その人々には優遇税制の措置が取られたといいます。そして、フィリピの町は何につけ極端なローマ主義が貫かれておりました。ローマ帝国は普通の町ですと、ローマの公認宗教であるユダヤ教の会堂を作ることを認めたのです。だから、十世帯のユダヤ人が集まる所には必ずと言って良いほど、会堂・シナゴーグが建てられて、安息日には礼拝が行われておりました。この会堂にはユダヤ人のみならず、聖書の神を信じる異邦人も参加しておりましたから、パウロたちも、伝道旅行では、まず会堂に行って福音を語ったのです。

ところが、ローマの殖民都市フィリピでは会堂を建てることが禁じられておりました。つまり、フィリピではユダヤ教の伝道も、キリスト教の伝道も法に反する行為だったのです。これが今日の物語の伏線になっていきます。そこでユダヤ人や神を信じる異邦人たちは、仕方なく、川のほとりに「祈りの場」という場を設定しまして、そこで讃美と祈りをささげ、聖書の御言葉を聞いたのです。この祈りの場でパウロたちの語る御言葉に心開かれて救われたのがリディアという女性でした。15節を見ますと「彼女も家族の者も洗礼を受けた」と書いてあります。これがフィリピ伝道の一つの特徴です。導かれ、救われたのは、一人ではなかった。家族と共に救われたのです。

そこで今日の物語です。パウロたちが祈りの場に行く途中で、占いの霊に取り付かれている女奴隷と出合ったのです。占いとか口寄せの類は旧約聖書が固く禁じるものです。なぜかと言いますと、占いや口寄せは神様の御声に聞くことをしないからです。ところが、異教世界に行きますと、占いというのは大変人気がある。日本でもそうですね。運勢や恋占いの類が雑誌に載らない日は無いと言っても過言ではないでしょう。日本の国政を左右するような大物政治家たちが、じつはこの種の力に密かに頼っている、というようなことも起こってくるのです。占いが流行る土壌とは、どういうものか? それは、末来が信じられない精神土壌と言いますか、未来に対して不安がある心です。そしてそれは、言い換えますと、末来を神様に委ねられない心と言ってもよいと思います。そういう心が占いの類に飛びつくのです。

さて、フィリピの女奴隷に戻りますと、この女は自分で占いをするだけではなくて、占いによって主人に莫大な利益を得させていたと書いてあります。主人にすれば彼女はまたとない金づるだったわけです。ところが、この女奴隷がパウロたちのあとを追って来て「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と幾日にも渡って繰り返すものですから、パウロはたまりかねて、女に向かって「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と命じると、即座に占いの霊が彼女から出て行ったのです。たまらないのは彼女の主人です。占いの霊が出て行った彼女は、もうただの人ですから、主人は金づるを失ったことになります。彼はパウロとシラスを捕らえて、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行きます。広場というのは、ただの広場ではなくて、町の裁判所のことです。ユダヤでは裁判は町の門の前で行われることが多かったのですが、ギリシア世界では広場で行われることが多かったのです。つまり、パウロたちは裁判所に連行されたことになります。そして主人はパウロたちを高官たちに引き渡して、こう言います。

「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

これは興味深い言い分です。使徒言行録にはキリストの福音に反対する人々の言い分と言いますか、キリスト信仰に対する批判や誹謗中傷が丁寧に書かれているのですが、これがなかなか興味深いのです。もちろん、悪口ですから悪意があります。ですからそのまま鵜呑みにするわけにはいかないのですが、その反面で、悪口には当事の人々がキリスト教をどう見ていたかが、じつに生き生きと現れています。そして中には、歪められた形ではありますが、当時のキリスト教会のメッセージの本質が見え隠れするものが、ままあるのです。例えば、次の頁247ページの17章7節に「イエスという別の王がいる」と書かれていますね。ここから分かりますのは、当事の伝道者はキリストを「まことの王」として、ローマ皇帝のお膝元で宣べ伝えていたということです。じつに大胆だったのです。

さて、主人の言い分に戻りますと、彼はパウロたちの語るメッセージを「町を混乱させるもの」と呼んでいますね。この「混乱」というのは「根底から揺るがす」ということです。彼はキリストの福音は町の秩序を根底から揺るがすものだと直感したということです。だからこのあと、大地震が起きて文字通り町を根底から揺るがす場面が登場するわけです。

さて、もう一つ、主人の言い分で注目すべきは、彼がパウロたちのやったことを「ローマ帝国の市民である私たちが受け入れることも、実行することも許されない風習」と呼んでいる点です。先ほども言いましたように、植民都市であるフィリピではユダヤ教やキリスト教の伝道は禁じられていた。違法行為だったのです。そしてローマ帝国の市民がユダヤ教・キリスト教に改宗することも禁じられておりました。これが25節から始まる看守の物語の伏線にもなっていくわけですが、ここで注目すべきは、この主人は占いを金づるにしてきたくらいですから、占いや魔術の類にどっぷり漬かって、慣れ親しんできた人間だったわけでしょう?

それなら、女奴隷から占いの霊を追い出したパウロの行為を見て、これは新手の魔術だと思い込むのが当然の成り行きかと思うのですが、彼はそうは思わなかったのです。パウロのやったことを「魔術」と思い込むのではなくて、そこに宗教的な権威を認めているのです。得体は知れないけれど、自分たちがまだ知らない宗教的権威があって、それが今、この町を根底から揺るがせているではないか、と、それが彼が見たキリスト教の姿だったのです。いかがでしょうか? 当たらずとも遠からずではないでしょうか。

そして、この見方は彼だけではないのです。だいたい、この一連の逮捕と裁判の様子を見て、皆さん、おかしいと思われませんか? たかがと言っては失礼ですが、たかが一人の女奴隷から占いの霊を追い出したくらいで、この大げさな訴えようは、どうしたことかと、これはオーバーではないかと主張する学者もいるのです。しかし、じつはそれこそがルカが言いたかったことでありまして、役人や高官といったローマの上層部の人々がキリストの福音に対して並々ならぬ脅威を感じ初めていることを、ルカはこういう表現で言い表しているのです。

そして彼らは力を合わせてパウロたちの力を封じ込めようと、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打って、鎖で縛り上げ、牢に投げ込みます。当事の牢というのは、だいたいが地下牢です。囚人たちの声が外に漏れないようにするためです。確かにパウロたちの声は外に漏れることはありませんでした。しかし、その夜、パウロとシラスの声は、この地下牢に閉じ込められている囚人たちの耳と心に届くのです。なぜなら、真夜中に到るまで、パウロとシラスが上げ続けた声は、ただの声でもなければ、うめき声でもない。讃美と祈りだったからです。どういう讃美であったかは、分かりません。しかし、こういう想像をめぐらせることも許されるのではないかと思います。パウロとシラスが牢獄の中で上げた賛美の言葉。それは詩編の23編ではなかったでしょうか。これには根拠が無いわけではありません。初代キリスト教会は何度も迫害の危機に見舞われるのですが、その中で、死に直面したキリスト者がしばしば歌ったのが、この詩編だったからです。刑場に引き立てられながら、あるいは競技場に引きずり出されながら、彼らが歌ったのが、これだったのです。

「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」

そしてこの声を聞いていたのは、囚人だけではなかった。パウロたちを実際に牢屋に投獄した看守が、これを聞いていたのです。すると、そのとき、突然、大地震が起きて、「牢の土台が揺れ動いた」と書いてあります。すると、たちまち牢の戸が皆開いて、囚人たちの鎖も外れてしまいます。看守は牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い込み。剣を抜いて自害しようとした。そのとき、パウロの声が響きます。

「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」

看守は灯りを持って、牢の中に入ったかと思うと、パウロとシラスの前にひれ伏して、二人を牢の外に連れ出して、こう言います。

「先生方、救われるためには、どうすべきでしょうか。」

使徒言行録の研究者の中には、ここが唐突だと言う人もいるのですが、私はこういうところがいかにもルカの真骨頂だと思います。確かに、看守が「救い」という宗教的なことを口にするのは唐突なのです。しかし、人間、本当に求めていることは、唐突に出て来るものではないでしょうか? 彼はパウロとシラスの讃美と祈りを聞いていたのです。そして、そこに彼はローマの神々には無い、深い慰めと慈しみを聞き取ったのではないでしょうか?

彼はこれまで、この地下牢の看守として、この町の安全を、それこそ、一番下から支えてきたのです。その中で、満たされない思い、空しい思いがあったと思う。その渇き切った心に、あの讃美の御言葉が届いたのではないでしょうか? ああ、こういう世界があったのかと。そこで、まことに唐突に、あの言葉が、心の叫びのように飛び出したのです。しかし、彼は自分のことしか言わなかったですね。「私が救われるためには、私はどうすべきでしょうか」と、私の救いを彼は求めたのです。そんな彼に返って来たのは、意外とも言える言葉でした。パウロたちは口を揃えて、こう答えたのです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

看守はビックリ仰天したと思います。だいたい救いというのは個人的なものという考え方が一般的だったのです。それがどうでしょう。私が信じることで、家族までが救われるなんて、そんなことが果たしてあり得るのか? 私が信じるのだから、私だけが救われるのなら、まだ分かる。どうして家族まで救われるのか? 半信半疑だったかも知れません。しかし、このあと、彼はある行動に出ます。それは、今までの彼なら考えられもしない、ある行動です。それは何だと思われますか? 家族を呼んで来たのです。じつは32節から34節にかけてルカが採った描写は、使徒言行録の研究者の間で評判がよろしくないのです。どういうことかと言いますと、32節を見ると、パウロは看守とその家族に御言葉を語ったことになっていますから、当然、パウロたちはいつの間にか看守の家に移動していたことになる。なのに、34節になると「二人を自分の家に案内して」と、ここで初めてパウロたちが看守の家に移動したことになっている。これはおかしいと言うわけです。

しかし、この読み方は理屈が通っているようで、じつは理屈倒れしています。32節でパウロが家族の者皆に御言葉を語ったというのは、看守の家に行ったのではなくて、看守が家族を連れて来たのです。使徒言行録は前にも13章の42節に、家族を連れてきて前の週と同じ話を家族に聞かせたいと願う人々のことを記していましたから、これはただの想像とは言えません。看守は家族を連れて来て、今しがた自分が聞いた御言葉を、今度は家族と共に聞いたのでしょう。そして、看守とその家族は、どこに住んでいたかと言うと、この地下牢に連続していた看守用の住まいに住んでいた。つまり、彼は今で言う「官舎住まい」をしていたのです。あてがわれた家です。彼はそこにいた家族をパウロたちの所に連れて来て、一緒に御言葉を聞いたのでしょう。そして、真夜中であったが、看守は二人を連れて行って、鞭打たれたパウロたちの傷を水で洗ってやり、その同じ水によって家族揃って洗礼を受けるのです。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何の妨げがあるでしょう」という第8章のエチオピアの宦官の言葉を思い出します。さあ、そうして34節です。

「この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」

わざわざ「自分の家」と書いていますね。これは、ローマ当局によって当てがわれた官舎ではない。牢屋に繋がった官舎ではない。自分自身の家です。彼は官舎を出たのです。この植民都市フィリピでは徹底したローマ主義が貫かれて、ユダヤ人が伝道することも、ローマ人がユダヤ教やキリスト教に改宗することも違法行為なのだと申しました。それは看守も承知していたに違いありません。彼は国禁を犯して家族揃ってキリストを信じる信仰に入った。職を奪われたことでしょう。町におれなくなったかも知れません。しかし、彼に悔いは無かったと私は思う。彼の心に生涯鳴り響く言葉があったからです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる。」

この言葉を、私たちも自分のものとしたい。そう切に願うものです。

 

 

 

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