聖書:使徒言行録16章1~15節

説教:佐藤  誠司 牧師

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は、新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章30~31節)

「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」 (使徒言行録16章6~10節)

 

この朝、私たちに開かれている聖書の御言葉は、使徒言行録の第16章、福音がヨーロッパ世界に進出していく物語です。今でこそヨーロッパといえばキリスト教世界と思われていますが、当時のヨーロッパ世界は全くの異教世界です。そこへキリストの福音が入って行くのです。まるで明治時代の日本のようなカルチャーショックが起こってきます。反対する力が大きかった。しかし、その中で、たった一人の人が御言葉に心開かれて、そこから信じる人々が起こされていきます。伝道とは人の業にあらず、主が生きて働かれる。そのことを最も鮮やかに示されたのは、当の伝道者たちではなかったでしょうか? 使徒パウロも、その一人でした。パウロは第二回伝道旅行でヨーロッパ世界に渡るのですが、使徒言行録によりますと、これは彼の当初の計画ではなかったのです。先週読みました15章の36節を見ますと、パウロは仲間のバルナバに、こう言って伝道旅行に誘っているのです。

「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って、兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」

前に行った町々を、もう一度訪ねて、信仰に入ったばかりの兄弟たちの安否を尋ねようとした。それがもともとの動機だったことが、これで分かります。さあ、パウロとバルナバが前に行った町々とは、いったい、どこだったでしょうか? それはここで私が言うより、聖書の一番後ろに掲載された聖書地図を見るほうが解り易いでしょう。パウロたちが第一回伝道旅行で訪ねた町々とは小アジアの中でもアンティオキアに近い、ほんの数箇所の町々だったのです。ということは、第二回伝道旅行も、当初はこれらの町々を再度訪問するのが主な目的であって、ヨーロッパに足を踏み入れようなどという計画は、パウロの中にはさらさら無かったのです。しかも、第二回伝道旅行は、その出発の時点で出鼻をくじかれる出来事が起こりました。同志として、車の両輪のように働いてきたパウロとバルナバが袂を分かち、別行動をとるようになったのです。パウロは、心沈む思いで出かけたに違いありません。

ところが、神様は不思議な出会いを備えておられました。パウロが前に訪れたリストラという町に、テモテという若いキリスト者がいたのです。テモテの母はユダヤ人キリスト者です。そして父親がギリシア人であったと書かれています。これだけで、このお母さんの歩んできた人生が浮かび上がってきます。ユダヤ人は混血を嫌いました。ユダヤの人々がサマリア人を忌み嫌ったのも、サマリア人が混血によって生まれた人々だったからです。ですから、テモテのお母さんはユダヤ人社会から締め出されていたに違いありません。ひょっとして、あのマグダラのマリアのように、町の人たちから罪の女と後ろ指を指されていたのかも知れません。そんな彼女を、あるがままに受け入れたのが、キリストの福音だったのです。おそらく彼女はパウロとバルナバの第一回伝道旅行で福音に触れ、信仰に入ったのでしょう。そして息子のテモテも母親と一緒に信仰に入ったものと思われます。パウロがテモテに宛てて書いた第二の手紙によりますと、テモテは幼い頃からお母さんのもとで聖書に親しんでいたことが分かります。さらに彼はギリシア的な教養をも身につけていたことが想像されます。これからヨーロッパ世界に進んで行くパウロにとって、またとない弟子であったわけです。実際、テモテはパウロの忠実な弟子として、片腕として生涯をささげていくわけですが、その出会いを、主が備えてくださったのです。ただし、ルカが続けて書いていることには、いささかの疑問が残ります。ルカは、パウロがユダヤ人の手前テモテに割礼を施したと書いているのですが、パウロがそのようなことをしたとは到底考えられません。パウロなら、むしろ、混血によって日蔭の身として生まれ育ったテモテが信仰故に誇らしく立っている姿、割礼無き混血青年が自らの境遇を喜んで受け入れて生きている姿の中に、キリスト者の本来の姿を見出していたのではないかと思うのです。ヨハネ福音書の第1章に、こんな言葉がありますね。

「この人々は、血筋によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、ただ神によって生まれたのである。」

これがキリスト者の姿です。パウロ自身も、そう信じていたに違いありません。さて、パウロの伝道旅行はそんなテモテを連れて行くことによって、さらにその性格をより鮮明にしていったと思われます。人が救われるのは律法によるのではない。ただキリストを信じる信仰だけで人は救われるのだ。この旗印を掲げて、パウロたちは出かけて行ったのです。

ところが、ここに不思議なことが起こります。パウロたちはアジア州で御言葉を語ろうと考えたのですが、聖霊がこれを禁じたというのです。アジア州というのは今のアジアのことではなく、ローマ帝国が小アジアをいくつにも分割統治したその一つのことで、小アジアの南部に当たります。そこで御言葉を語ることを聖霊が禁じた。つまり聖霊が行く手を阻んだのです。私たちがここから学ぶのは「聖霊の導き」とは「聖霊によって阻まれる」ことをも含んでいるということではないでしょうか。

そこでパウロはどうしかたと言いますと、今度は北に方向を転じて、ビティニア州に入ろうとしますが、これまたイエスの霊がそれを許さなかったと書いてあります。だいたい小アジアは南と北の沿岸地域に町が集中していますから、南に行くことも北に行くことも禁じられたということは、小アジアでの伝道は行く手を阻まれたも同然です。パウロは意気消沈したに違いありません。仕方なく、パウロは南でも北でもない、内陸部を西に向かって歩んで行きます。もちろん、パウロのことですから、行く先々で福音を告げ知らせたことでしょうが、当て所の無い旅です。パウロたちは主の御心を尋ねながら西へ西へと歩んだに違いありません。そうしますと、パウロたちは小アジアの西の果てにある、トロアスという港町に到着します。パウロたちにとってみれば、ここは地の果てです。我々の伝道の旅も、ここで終わるのかと思ったかも知れません。しかし、その夜、こういうことが起こったのです。パウロに幻が示されたのです。日本語で「幻」などと聞きますと、「夢幻」という言葉もあるように、「幻」は、はかないもの、不確かなものの象徴にように思われていますが、聖書が語る「幻」は違います。ビジョンのことなのです。このビジョン・幻には「神が見せてくださるご計画」という意味があります。これまでにも、人の思いもよらないビジョンを、神様はペトロやコルネリウスに示して、彼らを導いてくださいました。今、同じ導きがパウロの前に備えられているのです。幻の中で、一人のマケドニア人が立って、こう願ったのです。

「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください。」

この幻がヨーロッパへの道を開きます。それまで地の果てだ、地の果てだと思っていたこのトロアスの港が、新しい世界へ通じる扉だと分かったのです。10節に、こう書いてあります。

「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」

皆さん、気付かれましたでしょうか? 言葉の響きが変わりましたでしょう? 今まで、パウロは、とか、パウロたちは、というふうに語っていたのが、ここで主語が「私たち」に変化しています。著者であるルカが、ここで一行に加わったのではないかと言われていますが、ここにはもう一つ、大切な意味が込められていると私は思います。

バルナバと衝突して別行動をとるに至ったパウロは、ともすれば孤軍奮闘と言いますか、自分一人が伝道の最前線に立っているという意識があったと思います。肩を怒らせ、眉を吊り上げて一生懸命になって歩んでいるパウロの姿が目に浮かびます。しかし、聖霊によって語ることを禁じられて、さらに主イエスによって道を阻まれる経験をとおして、パウロは大事なことを学んだのでないでしょうか。それまでのパウロは、一生懸命のあまり、一人よがりだったのです。だから温厚なバルナバとも衝突せざるを得なかったのでしょう。福音の前進はひとえに自分の肩にかかっている。だから、自分がやらねば誰がやるのだと、そういう意識というのは確かに尊いものですけれど、周りの人たちにしてみれば、どうでしょうか。何か近寄りがたいと言いますか、同労者意識を持ちにくいのではないかと思います。どこまで行ってもパウロ先生なのです。しかし、道を阻まれて祈りつつ歩む中で、パウロは変えられていったのではないでしょうか? 幻が示されて、今の今まで地の果てだと思っていた所が、じつは新しい出発地点であることが分かった。自分一人が伝道しているのではない。弟子たちではなく、仲間が与えられている。その事実に目を開かれた時、パウロは初めて、砕かれた心で、テモテやシラスに声をかけたに違いありません。ひょっとしてルカも加わっていたのかも知れません。いずれにせよ、パウロは同志とも言える同労者を得たのです。それが「私たち」という言葉で表されているのではないでしょうか。

さて、一行はトロアスから船出して、ネアポリスの港に着きます。もうここはヨーロッパ世界です。そこからパウロたちが向かったのがフィリピの町です。フィリピはローマの殖民都市であったと書かれています。これはローマ帝国がローマ軍の退役軍人に入植を奨励した町のことで、そのために優遇税制が敷かれて、多くの退役軍人がこの町に入って来ていました。つまり、フィリピは男性中心の町だったのです。この町で初めてキリスト者となったのは、退役軍人でもなければ、町の有力者でもありませんでした。フィリピの町には、まだユダヤ人が少なかったのでしょう。会堂が建てられていませんでした。そこでパウロは祈りの場所を探しに川岸に行ったと書いてあります。会堂がまだ建てられていない場合、よく祈りの場が川のほとりに設けられて、人が集まったのです。福音書に出て来るバプテスマのヨハネがヨルダン川で悔い改めのバプテスマを宣べ伝えましたが、あれが祈りの場です。ヨハネは会堂を建てて定着することを敢えてせずに、祈りの場で活動したということです。

さて、パウロたちが祈りの場に座って、婦人たちに御言葉を語りますと、その中のリディアという婦人がパウロの話を注意深く聞きました。主が彼女の心を開かれたからだと書かれています。高価な紫布を商う女性です。そして彼女は自分だけでなく、家族揃って洗礼を受けます。つまり、彼女はパウロが語る福音のメッセージを家族を救う言葉として聞いたということです。そして彼女は「私が主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください」とパウロたちを招待して、無理に承知させたと書いてあります。これが後のフィリピ教会の基礎になりました。

ご存知のように、フィリピの教会は終始パウロと深い親密な関係を保って、しばしばパウロに贈り物を届けています。パウロの生活を支えたのです。その中心にリディアとその家族はいたことになります。これがヨーロッパの初穂になりました。パウロのヨーロッパ伝道。それはパウロの計画から生まれたものではありませんでした。パウロの思いをはるかに超えた所で、主が道を備え、開いて、パウロたちをそこへと導いてくださったのです。パウロは道を阻まれたとき、やはり意気消沈したと思います。南にも北にも行くことを禁じられる中で、自分の道は主に覚えられているのだろうかとさえ思ったと私は思います。イザヤ書40章に、こんな御言葉があります。

「イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。」

私の歩む道を、主は顧みてくださらないのではないかと、そういう意味です。しかし、主はパウロの思いを超えて、パウロの歩む道を開いてくださいました。

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れよう。」

自分のエネルギーとかやる気、そういうものを頼りにする、これは見るからに頼もしいのですが、しかし、彼らはやがて疲れて倒れ伏してしまいます。人間の努力や精進、そういうものは、ある程度までは素晴らしく行くのです。しかし、限度を超えたところで、困難にぶつかりますと、人間の熱心は必ず失敗します。破綻します。

「しかし、主に望みをおく人は、新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

こうして読みますと、聖書というのは、まことに真理を告げる書物だと思います。主に望みをおく人は倒れない。主が力を与えてくださるからです。パウロの伝道の力は、ここから来ていたのです。伝道は人の業にあらず、主が先立って導いてくださる。私たちだって同じです。コロナ禍の闇の中、主が私たちにどのようなビジョンを示し、どのような道を開いてくださるか。その道をご一緒に歩みたいと思います。

 

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