「経験の土俵を一歩出る」―降誕前第8主日礼拝―2026年11月1日(日)
聖書:イザヤ書6章1~8節・マタイによる福音書14章22~33節
説教:佐藤 誠司 牧師
「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」(マタイによる福音書14章27節)
今日はマタイ福音書第14章の「湖の上を歩くイエス」の物語を読みました。福音書には、弟子たちが舟に乗る物語が多いです。そして嵐に見舞われる物語が、これまた多い。しかも、これらの物語は、ほぼすべて、主が共にいて守り導いてくださることを主題にして語られている。主の守りと導きがあるのなら、嵐などは起こらないはずではないかと考えるのが、日本的な宗教感覚かも知れません。日本には古くから、家内安全、無病息災、という考え方があります。神仏が守ってくださって、家の中は平穏無事、病気もなく健やかに過ごせますよという考え方です。
ところが、聖書の信仰は、そういうふうには考えない。嵐も吹けば、病気にだってなる。それが聖書の考えです。聖書が問いかけているのは、嵐の中で何が起こるか。病の只中で何が起こるか、ということです。
今日の物語も、そうです。主イエスのなさった奇跡を、私たちは大きく二つに分けることが出来るかと思います。一つは病に苦しむ人、愛する家族を失った人の心の叫びに応えるようにして行われる癒しの御業としての奇跡。この奇跡の背後にあるのは、主の憐れみの御心です。そして、もう一つのカテゴリーは、無理解な弟子たちに、ご自分の本当の姿を悟らせるためになされた奇跡です。この種の奇跡の背後にあるのは、言ってみれば、教育的な配慮であると思います。
先週読んだ五つのパンと二匹の魚で5千人の人々を満腹させた奇跡や、今日の湖の上を歩く奇跡は、後者のカテゴリーに入るでしょう。奇跡の背後に弟子たちに対する主イエスの教育的な配慮が秘められているのです。そう思って今日の物語を読みますと、私たちは、そこかしこに、弟子たちに対するイエス様の配慮を見つけることが出来ます。一つ、例を挙げますと、22節の「弟子たちを強いて舟に乗せ」というところ。この「強いて」というのが、その一つです。この言葉は元々は、「自分の思いによらず」という意味のあった言葉で、じつは新約聖書の隠れたキーワードの一つなのです。使徒言行録の20章に、パウロがエルサレムに向かう旅の途中で、エフェソ教会の長老たちをミレトスの港に呼び出して、別れの言葉を交わす場面がありますが、あそこでパウロは「私は聖霊に強いられてエルサレムに向かうのだ」と述べました。そして福音書の十字架の物語で、キレネ人シモンに十字架を強いて担がせたという所。そして、非常に大きな意味合いでこの言葉が出て来るのが、ヨハネ福音書の21章、復活された主イエスと弟子のペトロの間に交わされた言葉です。ご存知のように、ペトロはイエス様が逮捕された時、人々から「お前もあのイエスの弟子だろう」と問い詰められて、「いや、私はあの人を知らない」と、三度に渡って主イエスを否認しました。そんなペトロに、復活の主は、三度、「あなたは私を愛するか」とお尋ねになります。すると、ペトロは大変に悲しんで、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。すると、イエス様はペトロに「私の羊を養いなさい」と、新たな使命を与えた上で、こうおっしゃいます。
「よくよく言っておく。あなたは若いときは、自分の帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」
この「行きたくない所へ連れて行かれる」という生き方こそ「強いられて」生きる生き方です。そして、この「強いる」という言葉は、形を変えてパウロの手紙にも出てきます。それは第一コリントの9章16節。パウロはここで、自分が福音を宣べ伝えるのは、自分の思いでやっているのではなくて、「そうせずにはいられないことだからです」と述べている。この「そうせずにはいられない」という生き方が、強いられて生きる生き方です。イエス様は、この生き方を学ばせるために、強いて弟子たちを舟にお乗せになったのではないかと思うのです。
さて、主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗せて、弟子たちだけで船出をさせた。そしてご自分は群集を解散させて、一人、祈るために山に退かれた。私は、ここにもイエス様の弟子たちに対する配慮があると思います。主イエスは、しばしば弟子たちと共に舟に乗られたようですが、時に、弟子たちだけで舟に乗るようになさいました。弟子たちだけで舟を漕がせたのです。その場合、ご自分は何をしておられたかと言うと、必ず祈っておられるのです。何を祈っておられたか、ということは福音書には書かれていないのですが、弟子たちのための祈りが捧げられていたことは、想像に難くない。夕方になって、舟はちょうど湖の真ん中あたりに出ていて、逆風のために波に悩まされていたとあります。
舟が波に悩まされるというのは、なかなか含蓄のある表現です。私たちの人生を船路に譬えることは、古今東西を問わず、あったようです。この波に悩まされるというのも、そうでありまして、私たちが人生の中で遭遇する嵐や試練、病や悩み事で、にっちもさっちも行かなくなった時、イエスというお方は、それを祈りの中で見ておられる。見ておられるだけではなくて、その試練の源である大波の上を歩いて来てくださるのです。主は「大波の上にいまし」という言葉が詩編にありますが、大水や大波を足の下に置かれるということです。主は弟子たちを襲って悩ませている大波や大水を足の下にして、弟子たちのところに来てくださる。水の上を歩かれる奇跡の意味は、じつはここにあるのです。
ところが、弟子たちは、どうしたでしょうか。イエス様のお姿を見て、喜んだでしょうか。違うのです。25節から読んでみたいと思います。
「夜が明ける頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。」
いかがでしょうか。なんと弟子たちは、イエス様を見て幽霊だと思って悲鳴を上げたのです。この「幽霊」というのは、「実体の無いもの」という意味があります。実体の無いものというのは、本来、目に見えないものです。なのに、どうして弟子たちは、実体の無いものを見たのか、なぜ、実体の無いものが見えたのか。皆さんは、なぜだと思われるでしょうか。
私たち人間が、見えないものを見るのは、じつは、二つの場合に限られます。一つはイザヤやヤコブがハッキリと見たように、神様が見せてくださるビジョンを見るという場合。そして、もう一つは、人の心を捕らえて離さない力が、見えないものを見せてしまうということがあるのです。恐怖に捕らわれた弟子たちが、イエス様を見て幽霊だと思ったというのは、そういうことです。恐怖に捕らわれた心が、あるはずもない幽霊を作り出すのです。
さて、イエス様はそんな弟子たちの心に向けて、言葉をかけてくださる。
「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」
この言葉を聞いた弟子たちは、どれほどの安堵感を持ったことかと思います。
この「私だ」というのは、本当になめらかな日本語に翻訳されていますが、元の言葉はもっと素朴です。英語で言えば「アイ・アム」なのです。「アイ・アム」を「私だ」と翻訳をしたわけです。間違いではありません。しかし、この言葉には、もう一つ、隠された意味がある。どういう意味かと言いますと「私は、有る」という意味なのです。そうお聞きになって、皆さんの中には、旧約聖書のある箇所を連想なさった方もおられると思います。そう、この言い方は出エジプト記第3章の、神様がモーセと出会われる場面に出て来る言葉と同じなのです。神様がモーセに使命をお与えになる。エジプトで奴隷となったイスラエルの人々を救い出すために、モーセを指導者にお立てになるのですが、その時、モーセは、人々があなたのことを尋ねたら、何と答えれば良いでしょうかと、尋ねます。すると、神様は、こうお答えになるのです。
「私はある、私はある、というものだ。」
神様がご自身をハッキリ現された場面です。この「私はある」というのと同じ言い方を、イエス様はなさっておられる。ですから、「私だ」という翻訳は、なめらかな日本語ではありますが、それと同時に「私はある」という、もう一つの意味を欠落させた翻訳とも言えるわけでして、イエス様はここで神と等しい者としてのご自分を弟子たちに示しておられるのです。
「恐れることはない」と主は言われました。なぜでしょうか。イエス様が共におられる。共に歩んでくださるからです。最初に申し上げたように、キリスト教は、これを信じたら嵐は起こりませんとか、病気になりませんよとか、そういうことは言わない。信じても嵐に見舞われるし、病気にだってなるのです。キリストを信じる信仰というのは、嵐の中で何が起こるか、病のさなかに何が起こるか。そこに向かっている。そして嵐の中に、病のさなかに主は共におられる。「恐れることはない」という御声を、私たちは聞く、嵐の中で聞くのです。
さて、ここから物語は、ペトロをめぐって、もう一波乱の展開を見せるのですが、詳しくお話をする暇がありません。要点だけをお話ししたいと思います。ペトロがイエス様に「私も湖の上を歩かせてください」と、お願いしたのです。この、とんでもないお願いに、主イエスは、たった一言、「来なさい」と言われた。すると、ペトロはどうしたかと言いますと、こう書いてあります。
「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」
船から降りたと書いてある。つまり、ペトロは舟から湖へと足を下ろしたのです。私は以前にオリーブの会でこの箇所を呼んだ時に、皆さんなら湖に足を下ろすことが出来ますかと尋ねてみたことがあります。さあ、返事はどうだったでしょう。もちろん、全員「そんなこと、出来ません」と正直に答えてくださった。オリーブの皆さんは全員、イエス様を信じておられる信仰者です。なのに、足を下ろすことが出来ない。なぜでしょうか。これはオリーブの皆さんを責めているのではないのです。
私が言いたいのは、私たちにとって経験の力というのは、じつに大きいということです。私たちは、水の上に足を降ろしたら沈むということを経験上、知っています。お風呂に浸かる時も、プールに入る時も、必ず沈むことを経験上知っている。この「経験の土俵」からはみ出すことは、どなたも、おそらく、一度もなかったでしょう。
ところが、ペトロという人は、それを超えたのです。しかも、一大決心をして超えたのではなく、ひょいと超えてしまった。「来なさい」というイエス様の言葉を真に受けて、その言葉に乗ったのです。
ペトロが最初にイエス様と出会った時も、そうでした。あの日、ペトロはガリラヤ湖で漁をしていた。ガリラヤ湖の漁は夜通し行います。日中に漁をしても、魚は捕れない。そのことをプロの漁師なら誰もが知っています。
ところが、その日、ペトロは夜通し網を打ったのに、魚は捕れなかった。落胆して網を繕っているところへ、イエス様が来て「もう一度、沖へ漕ぎ出して、網を降ろしてみなさい」と言われた。こんな昼の日中に網を打っても、魚一匹捕れないことは、プロの漁師なら誰もが知っている。経験上、知っているのです。だから、彼はこう答えました。
「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。」
プロの漁師として、当然の言葉です。ところが、ペトロは、それに、こう付け加えたのです。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」
日中に網を打っても、何も捕れないのは、ペトロだって知っている。経験上知っているのです。この経験の土俵からは、誰もはみ出さない。ところが、ペトロはこの経験の土俵を一歩出た。あのとき、ガリラヤ湖の水面に足を下ろしたように、ひょいと出た。なぜ、一歩出ることが出来たのか。「しかし、お言葉ですから」と彼は言いました。これは、滑らかな日本語に訳されていますが、原文を直訳すると、次のようになります。
「あなたの言葉の故に」
あなたの言葉の故に、もう一度やってみましょうと彼は言ったのです。私たち人間にとって、経験上知っているというのは、絶対の強みを持っている。誰も経験に打ち勝つことは出来ない。無意識のうちに、私たちは経験に対して無条件降伏をしている。ところが、ペトロは違った。彼は主の言葉を、自分の経験よりも上に置いた。御言葉の中に飛び込んだと言っても良いと思います。主の御言葉を真に受ける。主の御言葉に強いられて生きる。これはペトロだけではない。私たちにも開かれている新しい生き方です。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
11月1日(日)のみことば
「すでに存在するものは名前で呼ばれる。人間とは何者なのかも知られている。人は自分より強い者を訴えることはできない。」(旧約聖書:コヘレトの言葉6章10節)
「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、高ぶっている者たちの、言葉ではなく、力を見せてもらいましょう。神の国は言葉ではなく、力にあるのです。」(新約聖書:第一コリント書4章19~20節)
今日の御言葉でパウロは「神の国」は言葉ではなく力なのだと明言しています。しかも、かなり厳しい口調でコリント教会の人々を諭している。コリント教会の人々が驕り高ぶっていたからです。そういう事情のもとで書かれた言葉ですから、この言葉は誤解をされることが多かった。「言葉ではなく、力だ」などと聞きますと、大事なのは理屈ではなく、実行なのだというふうに、誤解されてきたのです。しかし、それは、ハッキリ言って間違いです。
もともとパウロは「力」という言葉を非常に慎重に使う傾向があります。パウロがここで用いた「力」という言葉は、聖書の原文では「デュナミス」という語です。ダイナミックという英単語の元になった語です。この語が出て来る代表的な箇所は、使徒言行録の第1章8節。復活の主イエスが天に昇られる前に、弟子たちに聖霊が与えられることを予告される次の言葉です。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」
この御言葉からも明らかなように、「デュナミス」というのは、力は力でも、腕力や武力のような力ではない。人知を超える神からの力のことです。パウロが「神の国は言葉ではなく、力だ」と言った「力」も、これと同じ意味だったのです。
