「命を分けるキリスト」―降誕前第9主日礼拝―2026年10月25日(日)
聖書:イザヤ書6章1~13節・マタイによる福音書14章13~21節
説教:佐藤 誠司 牧師
「まだ分からないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分け、なお幾つの籠に集めたか。また、七つのパンを四千人に分け、なお幾つの籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。」(マタイによる福音書16章9~11節)
今日はマタイによる福音書が伝えるパンの奇跡の物語を読みました。二匹の魚と五つのパンで、イエス様が5千人もの人々の空腹を満たした奇跡物語です。奇跡物語ではありますが、この奇跡は、これまでイエス様がなさってきた奇跡とは、少し趣が異なります。
これまで、主イエスが行ってこられた奇跡には、言ってみれば、切羽詰った事情がありました。弟子たちと共に乗り込まれた船が、嵐に見舞われて、沈みそうになったとか、12年もの間、出血が止まらない病気に苛まれてきた女性を癒されたとか、娘が死にそうになっている父親の願いに応えて、御業をなさったお話とか、これまでイエス様がなさった奇跡は、どれを取りましても、抜き差しならない状況がありました。嵐だとか病、愛する家族の死、そういう抗うことすら出来ない厳しい現実に直面した人たちの悲痛な叫び声に、いわば応えるようにしてなされたのが、これまでの奇跡でした。
ところが、今日の物語は、どうでしょうか。悲痛な叫びは、どこを探しても出ては来ません。せいぜい、お腹がすいたなあという人々のささやきが聞こえるだけかも知れません。確かに大勢の人たちが空腹を覚えている。しかも、すでに夕暮れが迫っており、食べ物を買いにいくわけにもいかない。弟子たちは困ったに違いない。しかし、確かに困りはしたでしょうが、切羽詰ったというわけではない。今日一日くらい、腹ペコで家に帰らせたとしても、文句は出なかったに違いありません。少なくとも、他の奇跡物語のような命や身の危険が差し迫っていたわけではないのです。
ではなぜ、主イエスはパンの奇跡をなさったのでしょうか。こういうことは考えられるのではないでしょうか。福音書には、他にも同じようなお話が出て来ます。わずかなパンと魚で多くの人の空腹を満たしたお話は、複数出て来るのです。これは、どういうことかと言いますと、実際に、イエス様がわずかなパンで多くの人の空腹を満たされたという御業は、一回や二回のことではなく、何度も繰り返し行われた可能性があります。なぜ、繰り返し行われたのでしょうか。この疑問へのヒントとなるのが、次の言葉です。
「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」
弟子たちがパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたと書かれています。この「理解する」という言葉は、じつは深い意味のある言葉でして、物事の上辺だけを理解するというのではなくて、物事の背後にある真実を理解するという意味のある言葉です。つまり、弟子たちの心が鈍くなって、パンの出来事の背後にある重大な真実に理解が及ばなかったのだと、そう言われているわけです。
さあ、そのように考えますと、イエス様が繰り返し、パンの奇跡をなさったことの意味が、少しずつ明らかになってまいります。イエス様は、弟子たちに、パンの奇跡の本当の意味を、真実を、悟らせたかったのです。どのように悟らせたかったのか?
皆さんは「経験」という言葉と「体験」という言葉の違いに心を向けられたことは、おありでしょうか。経験も体験も、そうたいした違いは無いじゃないかと思われるかも知れません。確かに、昨今では体験と経験を、全く同じ意味で使うことが多いようです。しかし、じつを言えば、この二つの言葉は、元々は別の意味を持っておりました。
「体験」というのは「体」という字が入っていることからも分かるように、体で行うあらゆる行為・営みのことです。泣いたり笑ったり、食べたり飲んだりと、あらゆる営みが体験です。それに対して「経験」というのは、もっと奥が深い意味がある。「経験」の「経」の字は、糸偏が付いてますね。あの字は「縦糸」という意味があったのです。体で行う様々な体験がある。その様々な体験を縦に一本貫いている縦糸を発見すること。それが「経験」ということなのです。
赤ちゃん時代の体験を、考えてみます。皆さんは、赤ちゃんだった頃、日々、体験したことを覚えておられるでしょうか。もう、そんなこと、とうの昔に忘れてしまったという方が多いと思います。忘れて当たり前なのです。赤ちゃん時代の日々の体験の特徴は何かというと、毎日繰り返されることです。抱いてもらったり、あやされたり、お風呂に入れてもらったり、おっぱいを飲ませてもらったり、毎日毎日、繰り返される、その中で、それらの体験を縦に一本貫いている縦糸を、赤ちゃんは発見していきます。抱いてもらったり、笑いかけてもらったり、それら体験の数々を縦に一本貫く縦糸とは、何でしょう。そう、愛されている、ということです。赤ちゃんは、この「愛されている」という経験を掴み取る名人なのです。だから、赤ちゃん時代の体験は、忘れたって、全然、構わない。経験さえ、しっかり心と体に刻み付ければ、一つ一つの体験は忘れても良いのです。そしてこの「自分は愛されている」という経験が、生きる力となって、その人の生き方を支えて行くのです。
さあ、そう考えますと、イエス様がパンの奇跡を繰り返し行って、弟子たちを、いわばその渦中に引っ張り込まれたことの背後には、ただの体験の積み重ねではなく、弟子たちに奇跡の背後にある真実を経験させる目的があったのではないかと思います。大事なのは、一つ一つの御業ではなく、それらの御業を縦に貫く一本の縦糸、真実を見出すことです。さて、以上のことを心に留めていただいて、物語をご一緒に読み味わってみたいと思います。
大勢の群集が、イエス様のあとを追って、やって来ました。イエス様と弟子たちは舟に乗っていたのですが、群集は先回りをして、待ち受けていたのです。14節に、こう書いてあります。
「イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された。」
そうこうするうちに夕暮れが迫って、弟子たちが心配そうに、イエス様に進言します。
「群集を解散し、村へ行ってめいめい自分で食べ物を買うようにさせてください。」
もっともな判断です。この群集の夜の食事の世話まで、我々には責任がない、と、弟子たちは考えたのです。もっともな判断です。ところが、主イエスというお方は「もっともな判断」で動くようなお方ではない。弟子たちの進言に、主イエスは、こうお答えになります。
「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」
この言葉を聞いた弟子たちは、うろたえます。彼らは、こう聞き返すのです。
「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
この言葉には、弟子たちの困惑と焦りが滲み出ています。彼らの手元にあったのは、五つのパンと二匹の魚だけ。目の前にいる群集と五つのパン、二匹の魚。この対比が、弟子たちの心を騒がせます。しかし、イエス様は弟子たちの心を見抜いて、こう言われたのです。
「それをここに持って来なさい。」
主イエスは彼らの手から五つのパンと二匹の魚を受け取られた。すると、イエス様は、弟子たちが思いもよらない行動に出られます。天を仰いで賛美の祈りを唱え始められたのです。弟子たちが生涯忘れることがなかった主イエスのお姿です。5千人の群集に対して、二匹の魚と五つのパン。問題にならないこの圧倒的な数の開きが、弟子たちの心を捕らえて離さなかった。地上のことに心が捕らわれて、天を仰いで感謝し、賛美の祈りをささげるなどということは、思いもよらなかったのです。
ところが、イエス様は弟子たちの心が地上の事柄に釘付けになっている時に、天を仰いで感謝をささげ、賛美の祈りをささげておられる。そして、パンを裂いて弟子たちに手渡し、魚も同じように分けられた。すると、「すべての人が食べて満腹した」と書いてあります。多くの人が、ここに注目します。どうして増えたのかと首をかしげるわけです。しかし、本当に大事なのは、そのあとに書いてあることではないかと思います。20節です。
「そして、余ったパン切れを集めると、十二の籠にいっぱいになった。」
どうしてこれが大事なのかと言いますと、このあと、第15章に入って、今度は4千人の人たちにパンを分ける奇跡をイエス様はなさるわけですが、そこではパン切れを集めると、七つの籠にいっぱいになるのです。そして、その後、16章の9節以下に、次のようなイエス様のお言葉があります。
「まだ分からないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分け、なお幾つの籠に集めたか。また、七つのパンを四千人に分け、なお幾つの籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。」
まだ分からないのか、と言っておられる。何を分からせようとしておられるでしょうか。パンの奇跡の背後にある真理や真実というものに、弟子たちが目を開かれること、体験ではなく、経験をすることを主イエスは弟子たちに望んでおられるのではないでしょうか。
では、パンの奇跡の背後にある真理・真実とは何なのか? たった五つのパンを、5千人の腹を満たすほど増やしただけなら、それは魔法・マジックに過ぎません。イエス様は、そういうことは、なさらない。荒野の誘惑の物語で、空腹を覚えられたイエス様に悪魔が現れて、「あなたが本当に神の子なら、この石をパンに変えてみたらどうか」と言って、誘惑しました。石をパンに変える。これは決して悪いことではない。誰に迷惑をかけるわけでもないし、食べて英気を養えば、世のため人のためになろうというものです。常識的に考えたら、良いことです。しかし、それが誘惑であったというのが、あの物語のポイントです。どうしてかと言いますと、悪魔はイエス様だけのことを言っているのではない。じつは、悪魔は、こう言ったのです。
「見なさい。あなたも知ってのとおり、世界には飢えに苦しむ人が大勢いる。あなたが神の子なら、石をパンに変えてみたら、どうですか。そうしたら、飢えに苦しむ多くの人を救うことが出来ますよ。」
これが悪魔の狙いでした。イエス様は、この狙いを見抜いて、悪魔の誘惑を見事に打ち砕いて、こう言われました。
「人はパンだけで生きるのではない。人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。」
ここから分かることは、イエス様にとって大事なのはパンではなくて、神様の御言葉なのだということです。そんなイエス様が、はたしてパンを増やすだけの奇跡を行われるだろうか。パンの奇跡の真理・真実とは、パンを増やしたことにあるのではなく、パンを裂いて分けられたことにあるのではないでしょうか。増やしたのではなく、分けたのです。何を分けられたのか。パンでしょうか。いや、命を分けられた。ご自分の命を分けられたのです。このことを弟子たちに悟らせ、経験させるために、主イエスはパンの奇跡を繰り返し行って、弟子たちをその渦中に引っ張り込まれたのです。そして、やがて弟子たちは主が本当に命を分け与え与えられるのを経験します。最後の晩餐の席で、イエス様は、パンを取り、天を仰いで感謝の祈りをささげ、そして言われました。
「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念として、このように行いなさい。」
弟子たちは、自分たちが体験の積み重ねの内に発見した縦糸である経験を、そっくりそのまま、教会の中に伝えました。それが今も私たちが礼拝の中で守っている聖餐です。
今日は体験と経験のお話をしました。赤ちゃんは経験を掴み取る名人なのだと言いました。イエス様から見れば、私たちも赤ちゃんです。毎週の礼拝で語られる説教は体験です。体験は忘れたって良いのです。でも、何かが残る。私は神様に愛されている。主イエスに生かされて生きている。これが説教を貫く経糸、すなわち経験です。この経験を現わしているのが聖餐です。私たちは命を分けてもらって、その命に与る。そして、主の命に生かされて新しい人生を生きる。生かされて生きるのです。これは忘れてはならない真実です。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
10月25日(日)のみことば
「幸いな者。悪しき者の謀(はかりごと)に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。」(旧約聖書:詩編1編1~3節)
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」(新約聖書:ヨハネ福音書5章39~40節)
日本のプロテスタント教会の多くは、旧約聖書の信仰は新約聖書によって乗り越えられて、もはや不要のものになったと考えているところがあると思います。パウロの手紙などを読みますと、福音の立場から旧約の律法を批判した部分が多くありますから、旧約を重んじることは、福音に反する律法主義になるのではないかという恐れが、心のどこかにあるのではないかと思います。我々は律法によってではなく、信仰によってのみ義とされ、信仰によってのみ救われると、パウロも言っている。そうであるならば、我々にとって、十戒を始めとする律法は、もはやあまり重要ではなくなっていると、心のどこかで決めてかかっているのではないでしょうか。
私は思うのですが、私たち日本のプロテスタント教会は、律法に対するいわれなき偏見を取り除いて、キリストに贖われた者として、もっと自由に、おおらかに十戒や律法を読むべきではないかと思います。例えば今日の旧約の詩編1編。ここに「主の教え」という言葉が出ています。これを私たちは「神の言葉」というふうに理解をしていますが、正確に言えば、これは「律法」のことです。つまり、この詩編は、律法を愛し、律法の言葉を日々の生活の中で繰り返し唱える、そういう生き方が本当に幸いな生き方なのだと語っているのです。信仰と生活を密接につなぐ言葉として、ユダヤの人々は律法を愛したのです。
