「福音を信じる」―聖霊降臨節第21主日礼拝―2026年10月11日(日)

聖書:イザヤ書40章27~31節・マタイによる福音書13章53~58節

説教:佐藤 誠司 牧師

「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」(マタイによる福音書13章57節)

 

今日はマタイ福音書の第13章の最後の物語を読みました。ここには主イエスが故郷のナザレに帰られたときのことが記されております。「預言者は故郷では敬われない」という有名な言葉がここから生まれました。その意味では、今日の物語はナザレの人々にとっては、不名誉な物語かも知れません。

主イエスはガリラヤ地方のナザレで育たれたのですが、どちらかというと、同じガリラヤ地方でも、ガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムの町で活動なさることが多かったようです。福音書の中に、ガリラヤ湖を舞台にした物語が多いのは、そのためです。

主イエスが久しぶりに故郷のナザレにお帰りになった。ナザレの人々は、大歓迎をします。この人々は、カファルナウムでなされた主イエスの御業を風の噂で聞いていたのです。ですから、ナザレの人々が主イエスを大歓迎したことの背後には、物見高い思いがあった。

ある安息日のこと、主イエスは会堂に入って、教え始められた。すると、人々はその教えに驚いて、互いにこう言い合います。

「この人は、このような知恵と力をどこから得たのだろうか。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちも皆、私たちのところにいるではないか。この人はこれらすべてのことを、一体どこから得たのだろうか。」

こうして人々は主イエスにつまずいたと書いてあります。そして主イエスはこうおっしゃる。

「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」

そしてイエス様は人々の不信仰のゆえに、そこでは奇跡を行われなかったと書いてある。物語はそこまでです。華々しい奇跡はここには見られませんし、人の心を動かすような言葉もありません。起伏のある展開も見られません。言ってみれば、これだけのお話なのです。でも、ならばどうして、これだけのお話を、福音書は大切に伝えているのでしょうか。このナザレの物語は、マタイ福音書のみならず、マルコ福音書も、ルカ福音書も大切に伝えております。どうしてなのでしょうか。それは、ひとえに、イエスとは何者であるか、イエスを誰と言うかという、その一点に読者を導くためです。イエス様を一番よく知っているナザレの人々は、よく知っているが故につまずいたのです。ならば、あなたがたはどうなのか。あなたがたは主イエスを誰と呼ぶか、主イエスを何者と言うか。これは福音書が私たちに突き付けて止まない大事な問いかけです。

使徒パウロが書いた手紙の中に「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す」という言葉が出て来ます。何を言っているかと言うと、パウロはキリストにつまずいた人たちを二つのタイプに分けているのです。一つはユダヤ人タイプ。この人々はしるしを求めて、そのあげく、キリストにつまずきました。そしてもう一つはギリシア人タイプ。この人々は知恵を大事にするあまり、キリストにつまずいたのです。

では、しるしを求めるのが、どうして間違っているのでしょうか。しるしというのは、本来は素晴らしいものです。しるしとは、神様が私たち人間を愛して、私たちを守り導いてくださる。救いを与えてくださる。そういうことを如実に現す神様の御業のことでした。例を挙げますと、神様がイスラエルの人々をエジプトから救い出してくださった。この人々に荒野でマナを与えて養ってくださった。これが本来の「しるし」です。神様のほうから一方的に与えられる恵みです。

ところが、ユダヤの人々は、いつの間にか、この「しるし」の意味を取り違えてしまったのです。ユダヤの人々は、もともとは神様の救いの御業を求めていたのですが、いつの間にか、自分の中に基準を作って、その基準に合致することをやってくれたら、それがしるしなんだと、そういうふうに考えるようになっていったのです。この考え方の土台になっているのは、自分が中心ということです。自分の考えを基準にして、それに合格すれば、「よっしゃ、これは神様から来た人だ、この人はそうではない」というふうに決めてかかる。

ところが、神様は、そんな人間の基準や物差しを乗り超えて、本当に私たちを救う御業をなさる。そういう神様の救いの御業、本当のしるしに出会った時に、ユダヤの人々は自分の基準や物差しでその御業を拒絶してしまう。それが福音書に出て来るユダヤ人たちの不満です。自分の注文どおりの奇跡を見せてくれたら信じるんだけれども、そうでないと、もう気に入らん。こんなものは要らんと拒絶する。

ところが、神様は、そんなケチな了見の人間の基準なんか打ち破って、ご自分の独り子を十字架につけて人間の罪を全部贖うという、思いもよらない御業をなさった。これが本当のしるしなのだとお示しになった。ところが、人々は十字架を見て、何と言ったでしょうか。「お前が神の子なら、今すぐ十字架から降りて来い。そうすれば信じてやる」と言った。あくまで自分の基準や物差しによってしるしを求めたのです。ですから、主イエスの十字架というのは、神様からの本当のしるしと、人間が求めるしるしの激突なのです。ここから、あなたはどちらを信じるか、というのが福音書の主題になってきます。ですから、十字架が福音書の中心になるわけです。神様は人間の罪を一切、ご自分の身に引き受けて、死ぬ。そういう思いもよらない仕方で御心を示してくださった。それが福音の骨格なんです。ですから、ここがぼやけていたらダメ。しかし、ユダヤの人々は、この福音を受け取ることが出来なかった。そういうユダヤ人から見ると、キリストの十字架はつまずきの石なのだとパウロは言うのです。

これに対して、ギリシア人はどうであったか。今、世界中の人が知恵を求めています。その意味ではすべての人がギリシア人化している。いろんな問題に対して理論武装して論陣を張る頼もしい人がいますが、そういう人であっても、こと知恵というものに対しては、ほぼ無条件降伏です。人間はこの知恵によって物凄い文明を築き上げたわけですが、知恵の産物に対して、ほとんどの人間は無条件で信頼しています。しかし、聖書は人間の知恵の本質を見抜いています。創世記11章のバベルの塔の物語がそうです。なぜ見抜くことが出来たかというと、神様の御業を知っているからです。確かに人間は知恵によって凄いものを発明してきました。

しかし、それが本当に人間を幸福にしてきたかというと、全くの逆ですね。文化が高度になればなるほど、滅びの危険が大きくなっている。こういう知恵が人間の知恵です。そういう人間の知恵から見るなら、「神の独り子が人間になった」とか「神の独り子が人間の罪を背負って十字架についた」とか「死んだキリストが甦った」とか、そういう話は理屈に合わない。そんな馬鹿なことがあってたまるか。理性が判断出来ないことは信じない。信じるということが理屈や知恵に直結している。だから、信じるに足る証拠が欲しい。証拠によって立証できるものだけを信じる。

これがギリシア人です。ヨハネ福音書に弟子トマスの話が出て来ますね。彼は他の弟子たちから主イエスの復活を知らされて、「私はあの方の手に釘跡を見なければ、信じない」と言いました。あれは証拠を求めている。ギリシア化が急速に進んでいたことが、ここから解る。今やギリシア人というのは世界を代表している感がある。イエス様はトマスに何と言われたでしょう。そう、「信じない者になるのではなく、信じる者になりなさい」と言われました。証拠があるから信じるのではない、愛しているから信じる。これが聖書の中心メッセージです。だから、復活のイエス様はペトロに向かって「あなたは私を愛するか」とお尋ねになったのです。ギリシア人になってはいけません。そのギリシア人にとって十字架のキリストなんて話にならない。愚かなものなのです。

しるしを求めるユダヤ人と知恵を求めるギリシア人。この両面を、じつは、私たちは持っております。パウロが指摘しているのは他人のことではない。私たちの中に、そういうものがある。それは認めなくてはいけないと思います。しかし、だからこそ、ここで皆さんに、よく考えていただきたいのです。自分の理屈や気持ちというものを言い立てたら、そっちが勝つに決まってるんです。しかし、「イエスというお方が本当に神の子であり、私たちの罪を贖うために十字架についてくださり、私たちの救いのために甦ってくださった」ということが事実であるなら、どうでしょう。これは理屈でもなければ、気持ちでもない。事実です。事実の前には、私たちの理屈や気持ちなんてものは、まるで歯が立たない。神様は独り子を人としてこの地上に生まれさせてくださった。これも事実です。そのお方が私たちの罪を全部背負って十字架について死んでくださった。これも事実です。十字架で死なれたお方が復活なさった。これも事実です。この事実を前にしたら、私たちがどう思うかなんてことは二の次、三の次です。こういう事実を通して、神様は私たちの前に「これが救いだ。これがあなたたちの希望なのだ」と言って突きつけておられる。「信じない者になるのではなく、信じる者になりなさい」と言っておられる。

この事実を、私たちのところまで運んで来てくれるのが「福音」なんです。私たちは福音と聞くと、教えのように思ってしまいますが、福音は「教え」ではありません。教えというのは、私たちがそれを聞いて、気に入ったら受け入れる。参考にする。気に入った部分を応用して生活に役立てる。参考程度で、やっていける。そういうのが「教え」です。

けれども、福音は「教え」ではない。気に入ったら受け入れるとか、そういうものではない。神様の救いの事実を伝えるのが福音です。この福音が、どうやって私たちにもたらされたのか。私たちに福音を宣べ伝えてくれた人の働きによるのです。ローマ書の10章に、こんな言葉があります。

「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。」

教会では、牧師の交替ということが起こります。この課題に直面しますと、どこの教会でも、自分たちにふさわしい牧師が与えられるよう、祈り求めます。ふさわしい教師が与えられるようにというのは、誰もが願っていることです。しかし、いったい、何にふさわしいのでしょうか。その要は、やはり福音です。福音を喜んで聞く人々がいて、福音に生きる群れがあるならば、それにふさわしい福音を明確に語る牧師が与えられる。そういうことではないでしょうか。要するに福音が要なのです。大切なのは私たちが福音を心から喜び、その福音に喜んで生きることです。そこに、福音に献身する教師が遣わされて来る。必ず遣わされて来る。

今、この礼拝堂に集まっておられる皆さんは、体の強い人も有れば、弱い人もおられるでしょう。若い人もあれば、年配の方もおられる。けれども、福音が皆さんのところまで届けられている、という一点だけは共通していると思います。「あなたは例外です」なんてことは、有り得ない。みんなに届けられている。

問題は、その福音を聞いて、私たちが受け入れるか、拒むかです。福音を受け入れることが信仰です。「ありがとうございます」と言って受け取る。これがキリスト教信仰の本質です。そして、今の自分の生き方、悩みや試練が、キリストの福音と、どのような関係にあるのか、そこのところを、じっくりと考えてみることが大事です。

私たちは、自分の人生を諦める必要は、無いのです。「私なんか、体も効かなくなったし、記憶もぼやけてきた。もう夢も希望も無い」なんてことは言う必要は無いのです。「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」と、イザヤは言いました。また、パウロは「私は福音を恥としない」と言い切りました。福音とは、私たちに、そのような生ける力を与える神様の御業です。福音を心から喜び、喜んで生きる人生を、ご一緒に歩みましょう。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月11日(日)のみことば

「彼らは波が静まったので喜び、主は彼らを目指す港に導いた。主に感謝せよ。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のゆえに。」(旧約聖書:詩編107編30節)

「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。」(新約聖書:マルコ福音書6章45節)

時に主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗せて、弟子たちだけで船出をさせました。そしてご自分は群集を解散させて、一人、祈るために山に退かれた。私は、ここにもイエス様の弟子たちに対する配慮があると思います。主イエスは、しばしば弟子たちと共に舟に乗られたようですが、時に、弟子たちだけで舟に乗るようになさいました。弟子たちだけで舟を漕がせたのです。その場合、ご自分は何をしておられたかと言うと、必ず祈っておられるのです。何を祈っておられたか、ということは福音書には書かれていないのですが、弟子たちのための祈りが捧げられていたことは、想像に難くない。夕方になって、舟はちょうど湖の真ん中あたりに出ていて、逆風のために弟子たちは漕ぎ悩んでいた。興味深いのは、このあとの表現です。

「弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」と書いてありますでしょう。この時、イエス様は山におられる。「陸地」と書いてありますが、これは、じつは山なのです。祈るために登られた山です。どうして、山から見ることが出来たのだろうと、理屈を言えば言えなくもない。しかし、聖書という書物は、理屈を通すために書かれているのではない。ですから、聖書は時に理屈に合わないことを言います。そして、聖書が理屈に合わないことを言う時が、案外、大事なのです。