「実を結ぶ言葉」―聖霊降臨節第17主日礼拝―2026年9月13日(日)

聖書:詩編119編130節・マタイによる福音書13章1~9節

説教:佐藤 誠司 牧師

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書13章3~9節)

 

今日読みました聖書の個所は、マタイ福音書が伝える「種蒔きの譬え」です。主イエスは、しばしば譬え話をお語りになりました。今回の「種蒔きの譬え」は、その中でも、最も有名なものの一つであろうと思います。こんなお話です。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」

譬え話は、これだけです。意外に簡単な譬えだなと思われたかも知れません。実際、この譬え話は、幼稚園や教会学校の子供たちにもよく分かる。明快な譬え話であろうと思います。ところが、主イエスは譬えの最後に、こう言われるのです。

「耳のある者は聞きなさい。」

譬え話そのものは、確かに単純明快なのです。しかし、あなたがたは本当に聞いているのかと主イエスは言っておられるのです。主イエスが言われる「聞く」という営み。それは、ただ単に耳で聞くということではありません。いや、確かに耳で聞くのですが、そこでは終わらない。耳で聞いて、さらに心の深みで聞く。耳で聞いたことを、さらに心開いて聞きなおすと言ったほうが、ふさわしいかも知れません。自分に向けられた御言葉として聞きなおすのです。あなたがたは、それが出来ているか、と問うておられる。だから、主イエスは「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃったのです。さあ、私たちは本当に心開いて主の御言葉を聞いているでしょうか?

心開いて御言葉を聞くとは、どういうことでしょうか? そのことを、さらに明らかに示すために、主イエスは11節から、自らお語りになった種蒔きの譬えの説き明かしをしておられます。主ご自身が譬え話を説き明かしておられる。これは大変に珍しいことです。ですから私たちは、あれこれ解釈を試みる必要はなく、主イエスが語ってくださる解き明かしに、それこそ心開いて耳を傾け、心を傾ければよいのです。主イエスは懇ろに説明をしておられます。それを今、一つ一つ見ていきたいと思います。

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人たちである。石だらけの所に蒔かれものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人たちである。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人である。」

ここに言う種蒔きというのは、今の日本の農家の人たちが行っているような、丁寧に一つずつ種を蒔くというようなものではなさそうです。そうではなくて、むしろ大胆に、一見無造作に、ばっさばっさと蒔いていく。すると当然、種は風に吹かれて様々な土地に落ちていくわけです。その様子は、今の私たちよりも、主イエスから直接この譬え話を聞いていたガリラヤの人々のほうが通じていたと思います。実際の種蒔きの様子を身近に知っていたのです。

しかし、これはただの種蒔きではありません。種は神の言葉なのだと主イエスは明言しておられるのです。その御言葉の種が道端に落ちました。道端とは畑と畑の間の畦道のことです。人が通ります。踏み固められています。だから、根を下ろすことも、芽を出すことも出来ない。そうこうするうちに、鳥が来て食べてしまった。これはせっかく御言葉を聞いても、踏み固められた土地のように心が頑ななために、心と御言葉が触れ合わないのです。そういう心には悪魔が忍び込んできて、御言葉を奪い去ってしまう。耳で聞いてはいるのです。しかし、心で聞くことをしていない。ですから、聞いた御言葉を忘れてしまうのです。

次の石だらけの所に落ちた種は、どうなったか? 石だらけの所とは、畑の隅のほうの小石の多い場所のことでしょう。ここに落ちた種は芽を出すのだけれど、根を下ろすことが出来ない。つまり、安定しないのです。御言葉を聞くと、喜んで受け入れるけれど、外からの試練に遭遇すると、信仰そのものから身を引いてしまうのです。

しかし、外からの試練よりも、さらに手ごわいのは、むしろ内側に起こる試練でしょう。主イエスはそれを茨に譬えておられます。心の中に茨が密集しているのです。茨というのは、じつに成長の早い植物だそうです。茨が種よりも早く生長して、種の成長を押しつぶしてしまうのです。茨とは「世の思い煩いや富の誘惑」のことなのだと主イエスは言われます。しかし、よく考えてみると「人生の思い煩いや誘惑」なら、誰の心の中にだってあります。信仰の無い人にだけあって、信仰のある人には無い、なんてことはないのです。経済的な思い煩いがあります。家族の間にだって思い煩いはあるでしょう。しかし、問題はどっちの成長が早いかです。聞いた御言葉の成長が早いのか。それとも思い煩いの成長が早いのか? また誘惑も誰の心の中にもあります。しかし、大切なのはそれらと御言葉を同列にしないことです。御言葉をワン・オブ・ゼムにしないことです。

しかし、どうでしょうか? ここまで、道端に落ちたもの、石だらけの所に落ちたもの、茨の只中に落ちたものを続けて読んでみて、はたしてこれがこの譬え話の眼目なのだろうかと、ふと疑問に思う。そのようにお感じになったのではないでしょうか? 主イエスがおっしゃりたかったのは、はたして、そういうマイナーなことだったのか? 道端に落ちたもの、石だらけの所に落ちたもの、茨の中に落ちたもの、これらを丁寧に読んでいけばいくほど、なんだか暗くなってくる。なぜでしょうか。反省しながら読んでしまうからです。あるいは、さらに良くないのは、信仰から遠ざかった人たちのことをあれこれ連想しながら読んでしまう読み方です。あの人はきっと茨だらけの心だったんだわとか、やっぱりあの人は道端だったのねとか、他人を論評しながら、裁きながら読んでしまう。これでは心が暗くなるのは当然でしょう。

そうではなくて、主イエスが一番おっしゃりたかったのは、これら過酷な運命をたどった種のことではなくて、最後の種のことだったはずです。

「ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」

ここが一番大切なのです。ここを自分のこととして聞けるか否か。その一点に今日の譬え話の聞き方はかかっています。

これについて、私は教えられたことがあります。私は、幼稚園でこの種蒔きのお話をするのが好きでした。なぜかというと、子供たちの聞き方に心引かれるものがあるからです。子供たちは、この「種蒔きの譬え」が大好きです。どうして大好きなのか?

反省しながら聞いたりしないからです。子供たちは、自分を反省しながら聞くるのではなく、まして他人を裁きながら聞くのではなくて、種がたどった運命に心を寄り添わせて聞くのです。これには驚きました。「道端に落ちた種は、どうなった?」と私が聞くと、鳥に食べられてしまった。ああ、かわいそうに、という具合に種に同情しながら聞いている。種の歩んだ道に自分も立ちながら、たったひと粒の種に心を寄り添わせて、それこそ固唾を呑んで聞いている子供たちの表情を見ながら、私はあっと思い当たりました。ああ、これこそ、この譬え話の大切な急所なのだと思ったのです。

石だらけの所に落ちた種は、朝のうちはよかったけれど、お日様が出て照り付けると、どうなったと思う?と聞くと、子供たちは「火傷した」と答えました。熱かったやろうな、じゃあ、「次の茨にふさがれた種は、どうなった」、と聞くと、息が出来んようになった、と答えました。息が出来んようになったら、どうなる? と聞くと、「死んでしまう」と、子供たちは答えました。

子供たちは、そういう感じ方をしたあとに、次の御言葉を聞くのです。良い土地に落ちた種は、どうなったかを聞く。柔らかい良い土地に落ちた種は、なんと百倍の実を結んだんだって。良かったなあと言うと、本当に良かった、嬉しい嬉しいと言って手をたたいて喜びます。この喜びを経験したあとで、私は子供たちに、こうお話するのです。このお話はみんなの心のお話なのだ。神様のお話を聞くみんなの心は、どんな心なのだろうか? 道端の心か、石だらけの心か、茨がいっぱいの心か。子供たちは口々に「違う」と言います。それなら、イエス様のお話を聴くみんなの心は、柔らかい温かい心か、と聞くと、「そうや」と大きな声、元気な声がいっせいに返ってきます。

どうしてこの子供たちの読み方・聞き方が正しいのか? それは、お話を聞いているうちに、種と土地との見境がつかなくなっているからです。子供たちは最初、種に自分を重ね合わせて聞いています。しかし、聞いているうちに、柔らかい土地、暖かい良い土地に自分を重ねていって、結局、両者の区別がつかないまま、ああこれは、自分たちのことなのだと喜んで聞いてしまう。

実際、主イエスのお語りになったのも、これとよく似ているのです。主イエスは最初に明言しておられたはずです。「種は神の言葉なのだ」とハッキリ言っておられたのです。確かに最初の道端の種、石だらけの所の種、茨の中の種では、種と土地とはまだ一体ではない。ところが、最後の良い土地に落ちた種は、どうでしょうか? ここではもはや、種と土地との区別はつかなくなっております。区別がつかないということは、一体になっている、ということです。これが神の国の秘密です。神の国とは目に見える国家のことではありません。目には見えないかも知れない。しかし、目に見えるものよりも、さらに力ある神のご支配が始まっている。御言葉が人の心に宿り、成長し、豊な実を結ぶことこそ、神の国の秘密だったのです。

私たちの心にも、イエス様は御言葉の種を蒔いてくださいます。私たちも幼稚園の子どもたちと同じ柔らかな心で御言葉の種を受け止めて、豊かに実を結ばせるものでありたいと切に願います。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

9月13日(日)のみことば

「さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、彼らに語れ。この私が命じることすべてを。」(旧約聖書:エレミヤ書1章17節)

「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」(新約聖書:マタイ福音書16章24節)

「私に従いなさい」と言われています。イエス様が言われた「従う」という言葉は、情緒的な曖昧な言葉ではなく、非常に具体的な意味を持っています。イエス様が歩む、すぐその後ろを、遅れることなく、離れることなく、ピタリと付いて行く。譬えて言いますと、子供たちが大好きな電車ごっこという遊び。「運転手はキミだ、車掌はボクだ」という歌詞のとおりなのです。輪っかの中に二人の子供が入ります。前にいる子が運転手で、後ろの子が車掌です。車掌役をしますと、すぐ前にいる運転手のお友達の体温や胸の鼓動までが伝わって来る。それほどに、すぐ後ろを付いて行く。イエス様が言われた「従う」というのは、あれなのです。

また、主イエスは弟子のペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言われたことがありました。あの「引き下がる」というのは、私のすぐ後ろに下がりなさいということです。あの時、ペトロはイエス様と横並びになって、イエス様をいさめ始めた。だから、主イエスはペトロに「私の後ろに下がりなさい」と言われたのです。主の御跡をたどるとは、そういうこと。イエス様のすぐ後ろを付いて行く。愚直に付いて行くのです。