「主イエスの家族になる」―聖霊降臨節第16主日礼拝―2026年9月6日(日)
聖書:創世記7章1節・マタイによる福音書12章46~50節
説教:佐藤 誠司 牧師
「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、母なのだ。」(マタイによる福音書12章49~50節)
今日はマタイによる福音書第12章の46節から50節までの物語を読みました。福音書を読んでいて、皆さんもお気づきかと思いますが、福音書の前半はユダヤの北部にあるガリラヤを舞台にした出来事が多いのです。それに対して、福音書の後半の出来事は、ユダヤの南部にあるエルサレムを舞台にして繰り広げられます。前半の物語は、大切な主題を提示しながら、結論を出していないのが特徴です。
一つ例を挙げますと、福音書の前半にはイエスを誰と呼ぶかというのが大事な主題として出て来ますが、前半ではその結論は出ていない。主イエスを慕い求める人々も、弟子たちも、イエス様がどなたであるか、まだ解ってはいない。ただ、悪霊だけが「あなたは神の子だ」と言い当てている。もちろん、悪霊はイエス様を神の子だと信じて言っているのではない。「お前の正体は分かっているぞ」と言って、すごんでいるに過ぎないのです。この問題の結論が出るのはいつかと言いますと、主イエスがエルサレムにお入りになった福音書の後半部分、十字架の場面なのです。主イエスを十字架につけて、その死をつぶさに見ていたローマの百人隊長が言います。
「まことに、この人は神の子だった。」
生身の人間が初めて主イエスを「神の子」と告白した言葉です。これは福音書のゴールとも言うべき大きな言葉です。福音書はこの信仰の告白を目指して歩んでいる。そう言っても過言ではないと思います。
今日の物語も、これと同じ構造を持っています。主イエスの家族とはどういう人たちかという大きな主題が投げかけられています。しかし、投げかけられてはいるものの、結論は出てはいない。今日の箇所の中では結論は出ていないのです。そこで当然、主イエスの家族とは誰のことなのか。その結論が出るのは、いつのことなのかという疑問が生じます。さあ、主イエスの家族とは、どういう人たちのことなのか。今日はその一点を心に留めて頂いて、ご一緒に物語の中に入って行きたいと思います。
物語の舞台は、ある家の中です。おそらく、これはガリラヤ湖畔の町カファルナウムにある家です。主イエスが拠点にしておられた家、御言葉が語られ、聞かれている家です。そこへ、主イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立っていた。マタイ福音書は、それを次のように描写しています。
「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。」
これは明らかに「外に立っていた」ことが強調された言い方です。彼らは家の外に立って、そこから動こうとしなかった。つまり、話したいことがあるのに、自分は家に入ろうとしなかった。これは些細なことのようですが、案外、今日の箇所を理解する上で大事な点だと思います。
家の中には多くの人がいて、イエス様が語られる御言葉を聞いています。家族にとってみれば、ちょっと入りにくい状況ではありますが、話したいことがあるのだったら、入って行けば良いのです。しかし、彼らはそうはしなかった。当然、中継ぎが必要になります。そこで、彼らはどうしたか。これは想像の域を出ませんが、彼らは入口近くにいる人に声をかけたのかもしれない。「私たちは、あのイエスの家族です。ちょっとあの子を呼んでくれませんか」などと言っても不思議ではありません。こういうときの家族の思いというのは、私たちにも解ります。優越感というのではないのですが、自分たちはほかの人たちとは違う、身内なんだという意識が、心のどこかにある。その思いが、イエス様のお話を聞いている人に声をかけ、イエス様を呼んで来させるという厚かましい行為に及ばせた。入口近くにいた人も、先生のご家族でしたか、分かりましたと、快く立ってイエス様のもとに行き、声をかけたのでしょう。
「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます。」
これに対して、主イエスはまことに驚くべき言葉をもってお答えになりました。
「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」
じつに厳しい言葉だと思います。ハッキリと否定しておられる言葉です。何を否定しておられるのでしょうか。家族を否定しておられるのでしょうか。私はそうではないと思います。イエス様は決して家族を否定しておられるのではない。では、何を否定しておられるのか。血縁関係による家族を否定しておられるのではないでしょうか。でも、血縁関係による家族を否定してしまったら、いったい何が残るのでしょうか。そもそも家族とは血縁関係のことではないかと、そう思われた方もおられると思います。そんな疑問に対して、主イエスは弟子たちに手を差し伸べて、こう言われます。
「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、母なのだ。」
これは新しい家族の制定の言葉です。血縁によらない新しい家族を制定して、ここにその家族があるのだと宣言しておられるのです。では、この新しい家族は、いったい、何によって成り立つのでしょうか。
日本では家族のことを言うのに、しばしば「血は水よりも濃い」ということが言われます。ここで言うところの「血」というのは、もちろん「血液」のことではなくて、血筋ということです。日本では何よりも血筋が重んぜられる。先頃、国会で成立した皇室典範の改正も、何を重んじているかというと、やはり血筋なのです。政府や保守派の人たちが今どき「男系男子」などという概念に固守するのは、万世一系の血筋を守るためにほかならない。
ここからも分かるように、血筋というのは、本質的に排他的なのです。異物の介入を許さない。異分子を排除しようとする。それが血筋を重んじるということではないかと思います。そしてこれが多くの日本人のメンタリティに深い影を落としているように思います。
このメンタリティが形となって現れているのが、お墓です。私たちは昨年、日曜日の礼拝で十戒を連続して学びましたが、明治時代、1800年代後半に最初のプロテスタントの洗礼を受けた横浜や札幌の若者たちが、十戒を生活の柱として信仰を貫きました。ところが、彼らの多くが既存の墓に入ることが出来なかった。また、おもに九州地方に、家族を養うために身を売られ、東南アジアで体を売って働いた女性たちがいました。彼女たちの多くは、身を粉にして働いて、内地の家族に送金し続けたのですが、隠退して帰国した後、長年送金し続けた家族のもとに身を寄せたのですが、受け入れてもらえず、家の墓に入ることも許されなかった。これが血筋を重んじる家族が持つ一面であろうと思われます。
では、主イエスが制定される新しい家族とは、どういうものなのか。新しい家族はいったい、何を絆にして成り立つのか。それが肝心要になってきます。この問いに、福音書の前半は、まだ答えを出してはおりません。「時」はまだ来てはいないのです。主イエスが制定される家族が、おぼろげながらその姿を現わしてくるのは、今日のお話の最初に申し上げたとおり、福音書の後半部分、主イエスが弟子たちと共にエルサレムにお入りになってからのことです。さあ、それは、いったい、どの場面なのでしょうか。その場面の冒頭で、主イエスは次のように語っておられます。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまでは、私はもはや二度と過越の食事をすることはない。」
もうお分かりと思います。これは主イエスが十字架につけられる前の晩に行われた最後の晩餐の場面。主イエスが聖餐を制定しておられる場面です。このあと、主イエスはパンを裂いて弟子たちに渡して、こう言われました。
「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」
食事の後、杯も同じようにして、言われました。
「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。」
聖餐の制定の言葉です。しかし、ここで主イエスが制定しておられるのは、じつは聖餐だけではありません。聖餐と共に新しい家族を制定しておられる。というより、聖餐の制定そのものが、新しい家族の制定の意味を持っているのです。どうしてそれが言えるのかと言いますと、食卓そのものが一つの家族を表すものだからです。一つの食卓に着くのが家族なのです。だからこそ、これは後になってのことですが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が同じ食卓に着けないことが問題になって、パウロを悩ませることになるのです。聖餐の制定は、即、新しい家族の制定だったのです。
とはいえ、この新しい家族は、地上ではまだ完成したとは言えません。先ほど引用したイエス様のお言葉の中に「神の国で過越が成し遂げられるまでは」という一節があったように、この新しい家族が完成するのは、来るべき神の国においてなのです。天において完成する新しい家族の、地上における雛形として存在するのが教会です。未完成であるが故に、教会は完成を目指して歩みます。神の国を目指して歩むのです。そういうところから、教会は昔から船に譬えられました。教会の原型となったのが創世記に出て来るノアの箱舟です。創世記の7章1節に、次のように記されています。
「主はノアに言われた。『さあ、あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい。この時代にあって、私の前に正しいのは、あなただと認めたからである。』」
「家族」という語が出ております。じつは、「家族」という語が聖書の中に初めて出て来るのが、ここなのです。箱舟に入ったノアの家族は、最初は血筋による家族でした。その意味では彼らは箱舟の外にいた人々と、さほど変わらない。しかし、洪水と嵐が箱舟を翻弄する中で、ノアとその家族は救いを目指して旅する人たちに変貌を遂げていきます。この点が、ノアの箱舟が教会の原型と言われる所以です。確かに教会と箱舟には共通点が見られます。しかし、決定的な違いがあります。創世記の7章16節に、次の言葉があります。
「そこで主は、その後ろの戸を閉じられた。」
箱舟の扉は閉じられたのです。しかし、教会の扉は、どうでしょうか。閉じられてはいないのです。というより、閉ざされてはならないと言うべきでしょうか。箱舟の場合は、内と外は厳しく隔てられておりました。外の人々は箱舟に入ることが許されなかったのです。しかし、教会は違います。主イエスの母や兄弟たちは、今は、この家の外に立っています。家に入ることを固辞しているかに見えます。しかし、今のままではない。初代のキリスト教会の歩みを描いた使徒言行録の第1章14節に、こう記されています。
「彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。」
教会の交わりの中、しかも祈りの交わりの中に、彼らも招き入れられて、共に教会生活を営んでいるのです。これは凄いことだと思います。血筋を否定したのではないでしょう。イエスの母であること、イエス様の兄弟であることに優越感を持つことも、卑下することもなく、むしろ、そういう血筋を大らかに包み込む交わりがある。過去を問わない交わりがあるのです。その交わりに身を委ねて生きる。天を目指して共に歩む。それが私たちの歩みです。私たちは、それを大事にしたいのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月6日(日)のみことば
「私の魂はわが主を待ち望みます。夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。」(旧約聖書:詩編130編6節)
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(新約聖書:第一ヨハネ書第4章1~3節・新共同訳)
ここに「イエス・キリストが肉となって来られた」という言葉があります。「肉となる」という言い方は、聖書に親しんでおられる方なら解るでしょうが、聖書や教会生活に馴染みの薄い方は、「肉となる」という言い方は、なんとも分かりにくい。ここは、むしろはっきりと「イエス・キリストが肉体をとって来られた」と訳すべきでしょう。これを「受肉」と言います。今日の御言葉を読んで解ることは、当時の教会でイエス・キリストが肉体をとって人となってくださったことを否定する人々が少なからずいたということです。もちろん、これは異端ですが、異端に走る人たちというのは概して、真面目な人、ひたむきな人が多いのです。このイエス・キリストの受肉を否定した人々も、そうです。彼らはイエス・キリストは全くの神であって、霊的な存在である。自分たちと同じような下世話な存在ではないのだと、大真面目に主張したのです。真面目に、誠実にイエス様を神の御子として心から信じたのです。
しかし、いくら真面目で誠実であっても、これは間違いです。なぜキリストが人となった神であることを否定するのが間違いなのか。十字架の苦しみと死を無意味なものとしてしまうからです。イエス・キリストは確かに神の御子であり、神と等しいお方ですが、そのお方が肉体を持つ人となって、十字架についてくださった。体を裂かれて、血を流し、徹底的に苦しみ抜いて、身代わりの死、贖いの死を遂げてくださった。そして、肉体を伴って復活なさった。そこにこそ、神の御子の受肉の意味があるのです。
