聖書:イザヤ書30章20~21節・マタイによる福音書7章13~14節
説教:佐藤 誠司 牧師
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」(マタイによる福音書7章13~14節)
今日もマタイによる福音書から、御言葉を読みました。ここに「狭い門から入りなさい」という有名な言葉が出て来ます。ここから「狭き門」という文学作品が生まれ、そこからこの言葉は聖書からも文学作品からも離れて、一人歩きをし、大変有名になりました。
しかしながら昨今、日本で「狭き門」と聞いて、これを聖書のイエス・キリストのお言葉であると言い当てることの出来る人は、少ないのではないでしょうか。日本で「狭き門」といえば、受験の難関を思い浮かべる人が圧倒的に多いでしょう。受験の難関校を思い浮かべ、そこからイメージを膨らませて、「狭き門」といえば、激しい競争に勝ち抜いて、誰よりもまず自分が入るべきところというイメージが一般的でしょう。しかし、主イエスが、そのように競争を煽るような意味でこの言葉を語られたのではないことは、もとより明らかなことです。
そしてもう一つ、今日の御言葉を読む上で注意したいことがあります。私たちは「狭き門」という言葉があまりに有名なものですから、「門」という言葉に気を取られて、もう一つのキーワードに思いが及ばない。そういうことがあるのではないかと思うのです。では、もう一つのキーワードとは何か。それは今日の御言葉を素直に読めば、分かることです。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
いかがでしょうか。「門」と並ぶ重要なキーワードとは何なのか。もうお分かりの方もおられると思います。そう、「道」なのです。今日の御言葉は「門」という言葉と「道」という言葉が不可分に結び合わされて、そこに豊かな福音のメッセージがほとばしり出ている。そう言っても良いと思います。「道」と「門」は互いに深く関連し合っているのです。「道」といえば、私たちは、ヨハネによる福音書の14章が伝える次の言葉を思い浮かべます。
「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない。」
イエス様ご自身が「私が道なのだ」と言っておられる。さらに主イエスは、私を通って父のもとに行きなさいとまで言っておられる。しかしながら、この御言葉は、それが語られた状況をしっかりと踏まえておく必要があります。主イエスは十字架につけられる前の晩、すなわち最後の晩餐の席で、弟子たちにこう言われました。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」
こう言った後で、主イエスはこう付け加えられたのです。
「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
「道」という言葉は、ここで初めて出て来るのです。このイエス様の言葉に対して、弟子のトマスが、こう言い返します。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」
道が分からないとトマスは言うのです。これに対して、イエス様が言われたのが、あのお言葉です。
「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない。」
先ほども言いましたが、ここで主イエスは「私が道なのだ」と言っておられる。これには二つの意味が込められていると思われます。一つは、文字通り、イエス様ご自身が道となって、私たちを導いてくださるという意味。そして、もう一つはイエス様が歩まれた道を、私たちも歩むという意味です。そう聞きますと、私たちは、主イエスが道となって導いてくださるのであれば、私たちも歩むことが出来る、イエス様が歩まれた道を私たちも歩むことが出来ると思ってしまいます。ところが、そこで主イエスは言われるのです。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
命に通じる門や道を見いだす者は少ないと言われています。この「少ない」というのは、じつは「ほとんどいない」「皆無である」という強い意味を持つ言葉です。それに対して「滅びに至る道や門を行く者は多い」と言われる。この「多い」というのは「ほとんどすべての者」という意味を持っています。つまり、ほとんどの人が滅びに至る門を目指し、滅びに至る道を歩んでいる。しかし、私の道を歩む者は、ほとんどいない。そう言って、イエス様は嘆いておられるのです。
なぜ、命の門、命の道を見いだす人が少ないのでしょうか。それは、やはり人間の罪の故としか言い得ないものがあると思います。命の門も、命の道も見えなかったからこそ、人々は寄ってたかって主イエスを十字架につけたのです。弟子たちも同じです。毎日のようにイエス様から命の言葉を聞きながら、彼らはそこに命の道を見いだすことが出来なかった。命の道を歩むことが出来なかった。だから、弟子たちは皆、イエス様を捨てて逃げたのです。
門の狭さや広さ、道の細さ、広さとは、いったい何を意味するのでしょうか。日本人が慣れ親しんだ処世術に「長いものには巻かれよ」という生き方があります。私は、これが多くの日本人に、広い道、大きな門を選ばせる原動力になっていると思います。自分よりも強い力の前に屈服し、多くの人の中に紛れ込むことで、心の平安を得る。個人が目立ってはいけない。そういう生き方のことです。
あのときのペトロが、まさにそうでした。主イエスが捕らえられたとき、ペトロも他の弟子たちと同様に、主イエスを捨てて逃げました。しかし、ここがペトロらしいところだと思うのですが、逃げ切れないのです。そして彼は道を引き返して、主イエスのあとを追いました。とまあ、ここまでは良かったのです。屈折した形ではありますが、ペトロはかろうじて主イエスと同じ道を歩んだからです。こうしてペトロは、主イエスが尋問を受ける大祭司の館まで行くには行ったのです。
ところが、ここから先が違った。ペトロは主イエスが尋問を受けておられる大祭司の館ではなく、大勢の人々が焚火にあたって時間を潰している中庭に足を踏み入れた。そして、あたかも自分もこの人たちの仲間であるかのように、一緒に焚火にあたるのです。人ごみの中に紛れ込んで初めて心の平安を得た。じつは、これが広い道です。滅びに至る道だったのです。なぜでしょうか。人ごみの中に紛れ込んで、心の平安を得ると言いましたが、それはあくまで束の間の平安であって、本当の平安ではない。弟子である自分を押し隠して、初めて束の間の平安を得る。この匿名性こそが「広い道」の本質です。
このままだと、ペトロは滅びに至る門のど真ん中を行くしかなかったのです。ところが、彼は立ち直る。立ち直って、もう一度、主イエスと同じ道を歩みました。死ぬまで、その道を歩み続けた。どうしてペトロにそれが出来たのでしょうか。ルカ福音書は、それを次のように証ししています。
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
主の言葉を思い出したのです。この「思い出した」というのは、私たちが日常会話で使うような記憶についての言葉ではない。今の生き方、主イエスを裏切ってしまうような弱い生き方に対して、主イエスが今、語りかけておられる。今、自分に語りかけられる御言葉として聞いたということです。ペトロが聞いたのは、裏切りの予告の言葉だけではなかった。もう一つの言葉を、ペトロは心の底から聞いたに違いない。それは次の言葉です。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたは立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
この言葉がペトロを外に連れ出すのです。もう彼は大勢の人に紛れ込んで束の間の平安を得るなんてことはしない。滅びに至る広い道を立ち出て、あの細い道に立った。主の道に立ったのです。そして、最後まで主の道を歩みました。
そうお聞きになって、皆さんの中には、それはペトロのような立派な弟子だから出来たことだ。私たち凡人はそうはいかないだろうと、疑問を持たれた方もおられるかと思います。ところが、ペトロという人の歩みをずっと見て行きますと分かることですが、これはペトロが急に立派な弟子になったとか、模範的な信仰者になったということではないのです。この人は最後の最後まで、相も変わらず、そそっかしいし、失敗も多い。その度にイエス様に叱られ、また励まされて歩んだ凡人に過ぎない。みっともないことも、やっています。言っていることと、やっていることが違うじゃないかとパウロに批判されて、たじたじとなったりしています。要するに、普通のキリスト者の歩みであり、どちらかと言うと不器用で、相変わらず失敗だらけの歩みなのです。しかし、それが主の道であった、というのがペトロの歩みなのです。
ですから私たちは、これはペトロだから出来た歩みだろうと悲観する必要はない。とてもじゃないが私には出来ないと嘆く必要もない。ペトロが抱えている弱さ、愛すべき愚かしさは、じつはすべてのキリスト者が本質的に持っているものです。そして、この弱さと愚かしさの故に、主イエスは彼を選ばれたのです。
しかしながら、ペトロの歩みに特徴的な点は、確かにあると思います。ああ、これはいかにもペトロの歩みだと誰もが思う。それは意外にも、イエス様のお言葉を真に受けたことだったのです。「真に受ける」という言い方は、今の日本の社会では誉め言葉ではありません。むしろ、人を小馬鹿にする言い方、揶揄するときの言い方です。しかし、私は思うのですが、こと信仰の世界では「真に受ける」というのは大事なことだと思うのです。はやい話、御言葉を聞いて信じるというのは、御言葉を真に受けることにほかならない。はすに構えていては、真に受けることは出来ません。真正面から主の言葉を受け止めた。
例えば、「私の軛を負いなさい」というイエス様のお言葉があります。ペトロは、これを真に受けたのです。すると、どうなったか。この言葉の背後に隠されている主の約束を、ペトロは聞いたのです。軛というのは、二頭の牛を首の所でつないで、農作業をさせるための農機具です。ただし、牛が二頭いれば、どんな二頭でも良いというものではない。必ず農作業に慣れた先輩の牛と、不慣れな新人の牛をつなぎます。すると、どうなるか。先輩の牛が新人の牛を要所要所で助けてやる。新人の牛が動きやすいよう心砕く。そして結果として、新人の牛が、慣れない農作業を立派にやり遂げてしまう。新人の牛が頑張ったからではない。先輩が心砕いて、導いてくれたからです。
ペトロという人は、弟子としての人生を歩む中で、そのことに気付くのです。「私の軛を負いなさい」というのは命令です。ところが、この命令の背後に、約束が秘められていた。「私があなたを弟子として歩ませてあげよう」という約束が秘められていた。イエス様は約束しておられる。弟子としてのあなたの人生を、私が一緒に歩んであげようという約束を、ペトロは見いだすのです。
これはペトロだけのことではありません。不器用で、失敗ばかりしている私たちの人生をも、イエス様は共に歩んで、導いてくださる。イエス様が共に歩んでくださる歩みが、今日の御言葉に現わされています。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
私たちも、主の御言葉を真に受けて、イエス様と共に人生を歩みたい。命に通じる道、命の門に至る道を歩みたいと願うものです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
4月26日(日)のみことば
「私の唇であなたの口から出るすべての裁きを語り伝えます。」(旧約聖書:詩編119編13節)
「あなたがた律法の専門家にも災いあれ。あなたがたは、人には負い切れない重荷を負わせながら、自分ではその重荷に指一本触れようとしない。」(新約聖書:ルカ福音書11章46節)
ファリサイ派の人々、律法学者たちがすべて、人に負い切れない重荷を背負わせようとしたわけではありません。一般の人々は、どうしても律法に疎い。どの律法をどのように守れば良いのか、また実生活の中では律法が言及していないことが、たくさんある。人々はそんな疑問を律法学者に尋ねました。すると、律法学者たちは真面目で親切ですから、一生懸命に答えます。この律法とあの律法の狭間で起こった難問に自分なりの判断を加えて解決の道を開いてやるのです。すると、それを繰り返していくうちに、結果的におびただしい数の決まり事が出来てしまう。数え切れない決まり事を、彼ら律法学者たちが作り出してしまうわけです。主イエスはそんな彼らの中に、自分が神様に成り代わってしまう人間の罪を見いだしておられたのではないでしょうか。
律法学者たちの罪。それは言ってみれば「正しさに覆われた罪」です。覆われていますから、外からだと正しさしか見えないのです。しかし、それなら、人の正しさとは何なのか? 人間の義は果たして成り立つのか。そこが問題になってきます。ユダヤの人々は、人が正しく生きるというのは、神の言葉に従って生きることなのだと考えました。正しさは自分の中にその根拠は無くて、神の言葉に従う生き方の中にあるという考え方です。これは、さすがに神の民ユダヤ人らしい信仰的な考え方だと思います。ところが、ここに問題が生じます。人が本当に神の言葉に従って生きようとするなら、それはその人と神様との関係だけに留まるものではないということです。人が神の言葉に従って生きるというのは、その人が隣人に対して何をしているかということを無視できるものではないのです。