聖書:イザヤ書40章27~31節・マタイによる福音書7章7~12節

説教:佐藤 誠司 牧師

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」(マタイによる福音書7章7~8節)

 

東京の東久留米市にある自由学園の創始者で、今もなお多くの会員を擁する「友の会」の創始者でもある羽仁もと子という人がいます。熱心なキリスト者であり、社会活動家でもあったこの人が、生涯を通して訴え続け、実践し続けたのは、信仰をもって日常生活を生きるということでした。信仰をもって日常生活を生きるなんて、キリスト者なら当たり前ではないかと思われるかもしれません。しかし、彼女はそれを、あの厳しい時代に、誠実に、真剣にやったのです。この人が折に触れ、自由学園の生徒や学生に語った言葉が残されているのですが、その中で彼女は、しばしば「誘惑」ということを語っています。

こういうお話をしておられます。私たちが人生を歩む上で大切なことがある。私たちの人生には常に二つの力が働いている。一つは「やってみよう」という力。「よし、やってみよう」と自分で自分を励まし、挑戦する力です。それに対して「やったって、どうせダメに決まってる」と、やろうとする力を削ぐ力が必ず起こってくる。この二つの力が私たちの人生にはいつも働いていて、そこに葛藤が生じて、それが悩みや苦しみになって現れてくる。確かにこの二つの力のぶつかり合いは、苦しみを生じさせるだろう。しかし、それは意味のない苦しみではない。「産みの苦しみ」なのだ。新しいものを生み出すための苦しみだ。しかるに、今の日本の社会はどうであろう。「やってみよう」と思う心よりも「どうせダメさ」と思う気持ちのほうが、人間らしい自然な感情だとする風潮があるのではないか。この日本的な心象風景を打破するには、どうしたら良いだろうかと、羽仁もと子先生は、学生たちに問いかけておられます。

さあ、皆さんは、この問いかけを、どう受け止められるでしょうか。確かに私たちも、日常生活の中で、この二つの力の葛藤は経験することです。「やってみよう」という思いがある一方で、「やったって、どうせダメに決まってる」とふさぎ込む思いがある。二つの真逆の力がぶつかり合って、火花を散らす。こういう葛藤は、私たちがよく知るところです。

この点について、聖書の中に、示唆に富む物語があります。ヨハネによる福音書の第5章に記されたベトザタの池のほとりの物語です。こんなお話です。エルサレムの羊の門のそばに「ベトザタ」と呼ばれる池があった。そこには五つの回廊があって、その回廊には、足の不自由な人や目の見えない人、体の麻痺した人が大勢横たわっていました。どうしてここに体の不自由な人たちが集まっていたかと言いますと、この池には不思議な言い伝えがあったのです。この池に、ときおり天使が舞い降りて、水を動かしたのです。水が動くとき、真っ先に池に入った者は、どんな重い病であっても、たちどころに癒される。そんな言い伝えがあって、そこに一縷の望みをつないだ人たちが集まって、水が動くのを今か今かと待っていたのです。

この回廊に、38年もの間、重い病で苦しんでいる人がいた。彼も水が動くのを待っていた。自分が真っ先に池に入ろうと待っていたのです。そこに主イエスが来てくださった。そして彼に目を留めて、こうおっしゃった。

「良くなりたいか。」

皆さんは、このイエス様の言葉を、どう受け止められるでしょうか。体の不自由な人に向かって「良くなりたいか」と聞くのは、いかがなものかと疑問に思われたかもしれません。しかし、この聞き方は、イエス様がよくなさる言い方で、明確な意図のある言い方です。あなたの願いをハッキリと言葉に出してみなさいと言っておられるのです。

マルコ福音書の第10章に盲人バルティマイの物語がありますが、あそこでもイエス様は盲人バルティマイに「何をしてほしいのか」と尋ねておられます。この問いかけに、バルティマイは「先生、見えるようになることです」と明確に答えています。彼は自分の願いをハッキリと言葉にすることが出来たのです。イエス様は、そこにバルティマイの信仰を見て、彼を癒してくださいました。

ところが、ベトザタの池のほとりに横たわっていた男は、どうでしょうか。「良くなりたいか」と問われて、彼はこう答えているのです。

「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」

いかがでしょうか。「良くなりたいか」と問われたのですから、「はい、良くなりたいです」とか「そんなの、当たり前です」とか言いそうなものを、彼はそうは答えなかった。彼が口にしたのは、返事ではなく、自分の置かれた状況に対するボヤキだったのです。ボヤキの言葉というのは、私たちも経験がある。いったい、どんな時に、ボヤキの言葉は出て来るでしょうか。やってみようという前向きな思いは、あったのです。ところが、厳しい現実を前にして、やってみようという思いが、もろくも崩れ去ってしまった。辛いことです。しかも、それは一度や二度ではない。何べんやっても、ダメだった。そういう時に、ボヤキの言葉は口を突いて出て来るのではないでしょうか。「どうせダメに決まってる」という思いが、言葉になって出て来るのです。

あの男の場合も、同じです。彼はこの池の言い伝えに望みを託してやって来たのです。その意味では、望みはあったのです。しかし、彼の場合、その望みは「一縷の望み」でしかなかった。歩くことが出来ずに、池のほとりに身を横たえていた彼にとって、この望みの、なんとはかないことでしょうか。理屈の上では、確かに彼にも望みはあるのです。しかし、現実を見ると、どうでしょうか。歩くことすら出来ずに、身を横たえて38年を過ごしたこの男に、誰よりも早く池に入れと言うのは、あまりに酷な条件ではないでしょうか。しかし、彼は、そこにしか道を見いださなかった。絶望の中にしか、望みを持ち得ない人生を、この人は38年の長きに渡って送ってきたのです。

彼は何度も試みたに違いありません。しかし、その度に、期待は裏切られてきた。砂を嚙むような虚しさと落胆だけが残ったでしょう。だから、彼はイエス様に「良くなりたいか」と訊かれても、まともに返事をすることが出来なかった。彼の生き方は、もう水が動くときに一番に池に入ること、それだけが生きがいになっていたのです。

これは、考えてみますと、何もこの人だけの話ではないことに気付かされます。現代の日本の社会にも、同じような人生を送っている人は、案外、多いのではないかと思います。絶望的なことに望みを繋がざるを得ない人生を送っている人が、今の日本社会にも、たくさんいると思うのです。しかし、本当に望みはそこにしかないのだろうか。

主イエスは、そんな心に向かって語りかけておられる。まことの望みが見えない心に語りかけておられる。それが今日の御言葉です。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」

主イエスはここで、「求めよ、探せ、門を叩け」というふうに、三つの命令を畳みかけるように語っておられます。命令を三つも語る。しかも、畳みかけるように立て続けに語るというのは、イエス様にしては珍しいことです。いったい何のために命令しておられるのでしょうか。

ベトザタの池のほとりの男のように、ここにしか望みは無いと思っている心。ここにしか自分の道は無いと思い込んでいる心。落胆のあまり、ボヤキの言葉を発している心に向かって語りかけておられるのです。ここにあなたの望みがあるではないか。ここにあなたの道、あなたの人生があるではないか。そう言って招いておられる。新しい生き方へと招いておられる。

神の真理というのは、隠されているのです。隠されているので、求めないと与えられない。探さないと見つからない。叩かないと、門は開かれない。そういうものです。今日のお話の最初に紹介した羽仁もと子さんは、学生たちにこう語りました。どんな時にも「よし、やってみよう」と言って立ち上がるのが、神様に造られた人間の本来の姿だ。「やったって、どうせダメだ」と思うのは人間の本当の姿ではない。神様は、どんな嵐の中でも「よし、やってみよう」という思いに生きられるように、人間を造ってくださった。それなのに、どうして「どうせダメに決まってる」という思いが強くなってくるのか。神に造られた自分の本当の姿が見えなくなってしまうからです。神に造られた自分の姿が見えないというのは、神様の愛と慈しみが見えないということでもあります。羽仁もと子さんは、この人間の本来の姿に立ち帰ることを繰り返し語っておられます。

人間の本来の姿とは、いったい、どういうものでしょうか。それは今日の御言葉を借りて言うなら「求める姿」です。神の真理は隠されているのだと申し上げました。隠されているから求めるのです。そして、求めることは、祈ることです。神の真理が見えない時に、一番必要なのは祈りでしょう。そして、祈りから押し出されて探すのです。見つけても、すぐに自分のものにはなりません。門を開けてもらわないといけません。それが「求めよ、探せ、門を叩け」と言われていることの意味です。そして、イエス様は、この一点を、さらに不思議な譬えを用いて語っておられます。それがマタイ福音書の13章44節に記された「天の国の譬え」です。こんなお話です。

「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。」

いかがでしょうか。不思議な魅力を放つ譬え話だと思います。畑を耕す人がいる。その畑に宝が隠されていたのです。さあ、「畑」って、何なのでしょう。畑というのは、人が汗水流して働く所です。ですから、ここに言う畑は、私たちの人生そのものと考えても良いと思います。「畑を買う」と言われています。ということは、どうでしょう。この畑は彼の所有物ではなかった。つまり、彼は畑の所有者に小作料を支払って働く小作人だったことが分かります。畑は人生を表していますから、この人はそれまで借物の人生を歩んでいた、ということです。自分の人生ではない、自分らしい生き方ではなかったのです。

それが、ある日、宝が見つかった。イエス様が言われる「宝」というのは、金銀財宝のことではありません。物凄い価値のあるものという意味の、物凄い言葉なのです。それまでの人生をひっくり返すほどの絶大な価値のあるものを、彼は見つけたのです。胸が高鳴ります。さあ、彼はどうしたでしょうか。なんと彼は、持ち物をすっかり売り払って、畑を買い取った。自分のものにしたのです。

それまでの人生は、借物の人生だった。自分のものでない価値観に左右され、自分のものでない喜びを押し付けられ、自分のものでない判断を強いられてきた。納得できない人生です。それが今、変わった。「これが私の人生です」と胸を張って言える。宝が人生を変えたのです。

さあ、宝とは、何なのでしょうか。これは読む人・聞く人の立場によって様々な答えが可能でしょう。しかし、私はこれはキリストとの出会いだと思います。それまでの人生とそれからの人生を真っ二つに分ける出会いといえば、それはキリストとの出会い以外にはあり得ない。

羽仁もと子さんは学生たちに語りました。どんな時にも「よし、やってみよう」と言って立ち上がるのが人間の本来の姿だ。「やったって、どうせダメだ」と思うのは人間の本当の姿ではない。神様は、どんな嵐の中でも「よし、やってみよう」という思いに生きられるように、人間を造ってくださった。なぜ立ち上がることが出来るのか。キリストが共に歩んでくださるからです。キリストと共なる人生こそ、まことの幸いであると思います。信じて求める人生が、ここから始まります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月19日(日)のみことば

「ヨセフは言った。『心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。』」(旧約聖書:創世記50章19節)

「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(新約聖書:マタイ福音書18章21節)

今日の新約の御言葉は、弟子のペトロが気色ばんでイエス様に問いかけた言葉です。ペテロがこう言ったのは、おそらく、彼も「兄弟を赦しなさい」というお言葉を主イエスからたびたび聞いていて、ペトロ自身も是非それを実行したいと常々思っていたからでしょう。ところが、実際に兄弟が自分に罪を犯してきたら、これはもう頭にきて、赦さねばならないという戒めと赦せないという本音の板挟みになって、そこから出て来たのが「何度まで赦したら良いのか」という問いかけであったと思われる。日本語にも「仏の顔も三度まで」という諺があるように、赦しと回数というのは、いとも容易に結び付く。一度や二度なら赦せるけれど、そう度々は赦せない。それが普通の人情のように思います。そこで、何回までは赦す、それ以上は赦せないと、そういうふうに受け止めてしまうのです。

ペトロもそうでありまして、七回までは赦す、しかし、それ以上はダメだ、と、そういうことがいつもつきまとってくるわけです。これは、ペトロが「兄弟を赦しなさい」という主のお言葉を律法的な戒めとして受け取ったということの、一つの現れです。しかし、これは何もペトロに限らない。私たちも、聖書の言葉を読むときに、つい、そういうふうに律法的に、理屈で読みたがるわけです。これは主イエスのお言葉を律法として聞いているということです。しかし、主イエスのお言葉というのは、律法ではない。あくまで福音として聞くべき言葉です。だから、主イエスは、こう言っておられる。

「一日に七回、あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

これは七回までは赦せというふうに回数を言っておられるのではありません。むしろ、数を超えて赦し続けよと言っておられるのではないでしょうか。これは、言葉を替えて言うなら「赦しを数えるな」ということです。