「刈り入れまで待て」―聖霊降臨節第18主日礼拝―2026年9月20日(日)

聖書:イザヤ書42章1~4節・マタイによる福音書13章24~43節

説教:佐藤 誠司 牧師

「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい。』」(マタイによる福音書13章29~30節)

 

今日読みました聖書の個所は、マタイによる福音書が伝える「毒麦の譬え」です。毒麦だなんて、なんだか嫌なネーミングですね。その名前を聞くだけで、これは一筋縄ではいかない、厳しい譬え話だと直感します。その直感は、じつは正しいのでありまして、これはまことに厳しい内容を持つ譬え話であると思います。ただ、私たちが経験上、知っているのは、イエス様がお語りになる厳しい言葉というのは、意外に招きの言葉であることが多いという事実です。では、主イエスはこの厳しい譬えによって、私たちをいったいどこへと招いておられるのでしょうか。今日は最初にその一点を心に留めていただいて、ご一緒にこの不思議な譬え話の世界に入って行きたいと思います。

聖書を実際に開いてご覧になるとお分かりになると思いますが、この毒麦の譬えは、一つ前の「種蒔きの譬え」とお隣同士になっています。ということは、この二つの譬え話は対比しながら読むことが期待されている、ということでしょう。そういえば、この二つのお話は、共通部分を持ちながら、内容はじつに対照的です。まず共通点を挙げますと、二つとも種蒔きという営みをバックに持っていることが、まず挙げられる。これは現代の私たちよりも、当時の人々のほうが馴染みが深い。種を蒔くという営みを、当時の人たちは皆、経験して知っているのです。ということは、種蒔きがもたらす収穫のことも、当時の人たちは、よく知っていたに違いない。

さあ、その収穫は、どうであったか。ここで二つの譬え話は方向が正反対に分かれます。最初の種蒔きの譬えは、種は御言葉のことだと明言した上で、様々な土地に落ちた種がたどった命運を語りました。鳥に食べられた種がありました。芽を出すことも、根を張ることも出来ない種もありました。しかし、良い地に落ちた種は芽を出し、根を張って、なんと30倍、60倍、100倍もの実を結んだのです。

このお話は、鳥に食べられたり、ダメになったりした種はあるのですが、お話の眼目は30倍、60倍、100倍の実を結んだ種にあることは明らかです。ですから、お話の調子も、どこか楽天的と言いますか、明るい調子が感じられます。実を結ぶことが叶わなかった種を、残念に思いつつ、それでも与えられた豊かな収穫を喜ぶ。そのような感謝と喜びが、種蒔きの譬え話には一貫して漂っていました。

それに対して、毒麦の譬えは、どうでしょうか。譬え話は「天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている」という言葉で始まります。主人が種を蒔き、僕たちがそれを手伝ったのでしょう。僕たちは希望に胸を膨らませながら、一生懸命に働いた。豊かな収穫を確信して、その日を楽しみにして蒔いたのです。

ところが、僕たちが眠っている間に敵が来て、麦の中に独麦を蒔いて行った。この「敵」というのは悪魔のことなのだと主イエスは言われます。しかし、僕たちは、この悪魔の仕業に気付いてはいません。毎日、畑に出て、麦の成長を楽しみにして収穫を待ったに違いありません。主人が持たせてくれたのは、皆、良い種だったので、僕たちは主人を信頼していたのです。

ところが、やがてこの畑に毒麦が現れる。しかも、その現れ方が変わっています。毒麦だけが集まって生えてきたのではなくて、毒麦は麦の中に入り混じって生えてきたのです。これでは麦と毒麦の見分けがつかない。毒麦を見つけた僕たちは、主人に言います。

「ご主人様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どうして毒麦が生えたのでしょう。」

これは驚きに満ちた言葉です。僕たちが驚くのも、当然です。主人が用意してくれたのは良い種だったのに、それらを覆い隠すようにして、毒麦が生えてきたのです。良い麦も生えてはいるのですが、おそらく、麦よりも毒麦の方が成長が早くて、麦を覆い隠すように伸びて来たのでしょう。畑は一面、毒麦が伸びており、麦畑ならぬ毒麦畑となった感がある。あの良い麦は、どこへ行ったのか。僕たちの落胆が手に取るように伝わって来ます。

しかも、主人は「これは敵の仕業だ」と言う。あなたがたが知らない間に敵が来て、毒麦の種を蒔いたのだと主人は言うのです。この言葉に急き立てられるようにして、僕たちは言います。

「では、行って抜き集めておきましょうか。」

ご主人様は見ていてください。我々が行って、毒麦を皆刈り取っておきましょうと僕たちは言うのです。と、ここまでは理屈が通るのです。確かにこれは不思議な話ではありますが、理屈は通っている。主人が良い種を蒔いたのも、敵が来て麦の中に毒麦を蒔いたのも分かる。僕たちの落胆ぶりもよく分かる。僕たちが落胆のあまり、毒麦を抜き集めておきましょうと言ったのも、分かるのです。ところが、ここで主人は、こう言うのです。

「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい。』」

気がはやる僕たちに向かって「刈り入れまで待て」と主人は言うのです。さあ、この主人とは、いったい誰のことなのか。もう薄々お気づきの方もおられると思います。そう、父なる神様なのです。神様が良い種を蒔いたのだというのが、この譬え話の出発点です。麦の種の中に、たまたま毒麦の種が入り混じっていたというのではない。主人は良い種を蒔いた。そこに敵が来て、毒麦を蒔いたのです。これは動かし難い出発点です。

さあ、そうしますと、私たちの中に、一つの疑問が浮かんできます。主人は敵の存在を知っていたということ。これは動かし難い事実でしょう。この主人は神様ですから、神様が悪の存在を知っていて、その上で悪の存在を容認しておられたことになります。どうして神様は悪の存在を容認しておられるのか。これは、じつはファシズムと二度の世界大戦を経験した20世紀の神学が真正面から問われた大問題です。21世紀の現在、この問題に十分な回答が出たとは言い難いのですが、それでも聖書はこの問題への答えの片鱗を私たちに与えていると私は思っております。

例を挙げますと、創世記の第3章に、ヘビの誘惑と人間の堕罪の問題が出て来ます。あそこで神様はヘビが人を誘惑するのを容認しているかに見えます。まあこれは、厳密に言えば「容認」と言うより「放置」に近いかもしれません。聖書に悪の容認がハッキリと出て来るのは、ヨブ記です。あそこで神様は「ヨブの命だけは取るな」という条件のもと、悪魔の働きを容認しておられる。あの悪魔は、言うなれば神様のお墨付きをもらって、ヨブを誘惑するのです。この悪の容認は、さらに意味が深められて、創世記のヨセフ物語で頂点に達します。あそこで神様はヨセフの兄たちの悪の中に働いて、和解を成し遂げておられる。悪を容認するに留まるのではなく、さらに一歩進んで、悪を用いて善をなそうと行動される。これは旧約聖書において極めて珍しい罪の赦しの出来事です。

しかし、それでも旧約聖書には限界がある。いったい、どこが限界なのでしょうか。神様は代価を払っておられないのです。ところが、まさにその一点において、新約聖書は新しいフェイズを迎えます。神ご自身が代価を支払うという仕方で、悪の容認は新しいフェイズの扉を開きます。それを使徒パウロは次のように語っています。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのは、なおさらです。」

パウロは自分のことをハッキリと「神の敵だった」と明言しています。敵であったパウロを、神様は代価を払って贖い取ってくださった。悪の存在を放置するのでも、容認するのでもない。代価を払ってご自分のものとしてくださる。これが悪を生かす御心の究極の姿であると思います。こうして、悪の存在はキリストにおいて最終的に解決されるのです。

以上のことを踏まえて、毒麦の譬えを読み直しますと、どうでしょう。今まで見えてこなかった御心が見えてこないでしょうか。今まで私たちは、この譬え話を読む度に、どうして神様は敵が毒麦の種を蒔くのを容認しておられたのか、どうして毒麦を抜き集めて焼くことを禁じられたのか。そこがなかなか分かりませんでした。しかし、私たちが分からないと思う、その一点に、イエス様の深い御心が隠されていることが、しばしばある。この毒麦の譬えも、そうなのです。まず、イエス様ご自身がこの譬え話の説明をしておられる38節に「畑は世界だ」という言葉があります。この「世界」というのは、文字通りワールド・全世界を意味すると理解しても良いのですが、じつはそれだけではない。もう一つの意味が隠されています。それは、じつを言うと、どこだって良いのです。あなたの家かもしれないし、あなたの職場かもしれない。私たちで言うなら「あなたの教会」と理解することも可能な、懐の深い言葉なのです。日本語でも、世界という言葉は二重の意味を持っていますね。文字通りのワールド・全世界という意味も、もちろんありますが、それと同時に、「そんなこと、我々の世界では通用しない」なんていう言い方もなされます。大小、様々な世界があるわけです。ですから、この「世界」を何と理解するかによって、そこから導き出されるメッセージも、おのずとニュアンスを変えていくことになります。さあ、皆さんは、この「世界」を何だと理解されるでしょうか。

というわけで、ここから先は、皆さん、想像力を発揮していただいて、この「世界」を、いろいろなものに置き換えて、そこからメッセージを汲み取っていただきたいと思います。これは皆さんのご家庭で起こること、職場で起こり得ること、教会で起こっている事です。

「こんなはずではなかった」という思いを、皆さんも幾度となく、経験してこられたと思います。もちろん、あからさまに口に出しては言いません。しかし、心の中に、ふつふつと湧き上がってくる「ああ、人生こんなはずじゃなかったのになあ」という思い。私たちが「こんなはずではなかった」と思うのは、いったい、どんな時でしょうか。おそらく、それは期待が裏切られた時でしょう。しかし、その「期待」って、何なのでしょうか。それは胸に手を当ててみれば、分かります。私の場合、結構身勝手な期待であることが多いです。いったい、どこが身勝手なのか。私たちが「こんなはずではなかった」と思う時、それは大抵、私たちが理想主義に陥った時です。理想主義に陥りますと、不完全なもの、悪しきものの存在が、なかなか認められなくなる。認められないだけではありません。不完全なもの、悪しきものを、異分子として排斥しようとする。

毒麦の譬えに登場する僕たちが、まさに、そうでした。彼らは畑に毒麦が生い茂っているのを見て、こう言いました。

「では、行って抜き集めておきましょうか。」

毒麦を全部始末しましょうかと彼らは言ったのです。しかも、この僕たちの言葉を丁寧に読みますと、「毒麦を一本残らず始末するのが、あなたの御心なのでしょう?」というニュアンスが感じられる。理想主義というのは、時にこういうことをやってしまう。主人の心まで決めつけてしまうのです。

しかし、主人の御心は違いました。主人は僕たちの心を見抜いていたのでしょう。気がはやる僕たちに「刈り入れまで待て」と言ったのです。「刈り入れ」というのは終末、すなわち世の終わりを意味していると思われます。そして主人は父なる神のことです。ならば、どうでしょうか。毒麦は世の終わりに神ご自身が始末を付けられる。毒麦は焼き捨てられる。これは動かし難いメッセージであると思います。このメッセージを私たちが不当に和らげることは、許されないことだと思います。

しかし、それなら神様は世の終わりまで毒麦を放置するだけなのでしょうか。放置したあげくに焼き捨てる。そんなことを神様はなさるのでしょうか。昔から、この毒麦の譬えと併せて読まれてきた、もう一つの譬え話があります。それはルカ福音書の13章6節以下に記された「実を結ばないイチジクの譬え」です。こんなお話です。

ある人が自分の葡萄園にイチジクの木を植えて、実を結ぶのを待った。ところが、三年の間、毎年実を探しに来たのに、見つけたためしがなかった。そこで葡萄園の主人は「こんなイチジクは切り倒してしまえ」と園丁に命じた。すると、園丁はこう答えたのです。

「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。」

これだけのお話です。何の説明もありません。しかし、お聞きになって、実を結ばないイチジクのために命乞いをするこの園丁は、ひょっとしてイエス様のことではないかという思いが胸をよぎった方もおられると思います。実を結ばないイチジクも、麦畑に生え出た毒麦も、共に人間のことです。どんな人間でしょうか。厳しい理想主義の目から見ると、いなくても良いような落ちこぼれの人間です。あんな人、いないほうが良いのにと、みんなが思っている。しかし、イエス様だけは違う。あと1年、私が御言葉で養いますから、どうぞこのままにしておいてくださいと父なる神に執り成してくださる。私たちの主イエスは、このようなお方です。心からの信頼をもって、イエス様につながっていきましょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

9月20日(日)のみことば

「私は主、あなたの神。海をかき立て、波を騒がせる者。その名は万軍の主。」(旧約聖書:イザヤ書51章15節)

「また、すべてのものをキリストの足元に従わせ、すべてのものの上に立つ頭としてキリストを教会に与えられました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。」(新約聖書:エフェソ書1章22~23節)

今日の新約の御言葉をお読みになって、ちょっと分かりにくいと思われたのではないでしょうか。じつは私も、大阪の母教会でこの御言葉を聞いたとき、何のことだか、さっぱり分からなくて、弱ったのを覚えています。ところが、あるとき、この「すべてにおいてすべてを満たしている方」というのは造り主である神様のことなんだよと教えてもらって、すっと落ちたのです。ですから、この御言葉の意味するところは、教会というのはキリストの体であって、造り主である神様がその中に満ちておられるところなのだと、そういうことが言われているわけです。教会というのは目に見える形では、牧師がおり、役員さんがいたり、婦人会があったりと、そういう人間関係が目につきますが、本当は天地の造り主である神様が満ちておられるところなのだと、そういうことになります。

ただこれは直接目に見えることではありませんので、「信じるか、信じないか」の問題になります。「そんなバカなことがあるか、ありゃ、たたの人間の集まりだ」と言ってしまえば、もうそれまでです。しかし、私たちは「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会を信ず」と告白をしています。教会は聖なるもの、公同の教会であると信じているわけです。このエフェソ書には教会はキリストの体なのだということが繰り返し語られています。繰り返して言うということは、それだけ大事なことなのです。大事なことと言う以上に、私たちの信仰生活というのは、教会生活のことなのだと、それがこの手紙で言われていることなのです。