「主の執り成しに贖われる」―聖霊降臨節第19主日礼拝―2026年9月26日(日)

聖書:イザヤ書42章1~7節・ルカによる福音書23章32~38節

説教:佐藤 誠司 牧師

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」 (ルカによる福音書23章34節)

 

永眠者記念礼拝を迎えました。永眠者記念礼拝は、昔は召天者記念礼拝とも呼びました。天に召された方々を記念する礼拝ということです。ところが、さらに昔には「天に帰る」と書いて「帰天者」とも呼ばれたようです。いかにも先達らしい、気骨のある言い方だと思いますが、考えてみますと、天に帰るという言い方は天が私たちの故郷だということを前提にした言い方です。これは、じつは聖書の中に根拠を持っております。ヘブライ人への手紙の11章に、こんな御言葉があります。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし、出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」(新共同訳)

多くの信仰者たちが、天を故郷とし、地上を仮住まいとして歩んだのです。私たちの先達も、そうです。しかし、肝心の天の故郷に帰る道は、いったい、どなたによって、何によって開かれたのでしょうか。今日は、その一点を心に留めて、十字架の物語によって永眠者記念礼拝を守りたいと思います。

今日はルカ福音書の十字架の御言葉を読みました。ここに注目すべき言葉が出て来ます。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

これは執り成しの祈りです。主イエスは父なる神の御心のままに、十字架についておられる。その父なる神の御心は、すでにゲツセマネの園で主イエスに示されていた。その御心を完全に成就させるために、今、主イエスは執り成しの祈りをささげておられる。父なる神の御心。それは罪のない御子イエスが人々の罪を一身に背負って十字架につくというものでした。

罪の無い主イエスが十字架を背負われる。これは冤罪で死刑になるというのではない。無実の罪を着せられて死刑になるのではない。ハッキリとした意思を持って、主イエスは十字架を背負っておられる。罪の無い方が、誰かの身代わりとなって罪を背負っておられる。それは、いったい、誰の罪なのか。その一点が、ルカ福音書の受難物語の眼目になって、今日の物語に入って行きます。

ここでルカは二人の犯罪人を登場させます。主イエスは彼らと一緒に「ゴルゴタ・されこうべ」と呼ばれる小高い丘まで歩んでいかれる。そして人々は主イエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。つまり、主イエスの十字架を真ん中にして、三つの十字架がここに立ったわけです。そのとき、主イエスは言われた。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

この執り成しの祈りの声にかぶせるようにして、ルカは十字架のもとに集まった様々な人々の様子をつぶさに伝えています。十字架の下で、くじを引いて主イエスの服を分け合っている人たちがいます。十字架を見つめている人たちがいる。議員たちがあざ笑って言います。

「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

ローマの兵士たちが十字架に近寄って来て、酸いぶどう酒を突きつけながら、侮辱して言う。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

これらの人々の姿にオーバーラップさせるようにして、主イエスの執り成しの祈りが響いてくる。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

さあ、彼らとは誰のことなのでしょう? 主イエスが身代わりになって背負った罪とは、いったい、誰の罪であったか? そこのところがお話の焦点になってくるのですが、その前に、主イエスを嘲る人々の言い分に、少し耳を傾けてみたいと思います。ここには議員たち、すなわちユダヤの最高法院の議員たちの声と、ローマの兵士たちの声が記されていますけれども、この人々の嘲りは、一つ共通した内容を持っています。それは「自分を救ってみろ」というものです。お前はメシアではないか、神の子ではないか、お前はユダヤ人の王ではないか。それなのに、自分を救うことが出来ない。他人を救ったのに、自分を救えない。そんな救い主があるか。彼らの言い分には、一定の説得力があります。そういう救い主なんて有り得ないではないかと彼らは言うのです。

これはまことにそのとおりであると言わざるを得ません。そういう救い主は、いないのです。しかし、主イエスはまさにその道を行かれる。誰も知らなかった神の僕としての道を行かれる。神の僕といえば、議員たちの嘲りの声の中に、こういう言葉がありました。

「選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

ちょっと気付きにくいかも知れませんが、じつはこの「選ばれた者」というのは、今日読みましたイザヤ書42章の冒頭の言葉からきたものです。選ばれた者とは、神がお選びになった者という意味です。何のためにお選びになったのか?

「見よ、私が支える僕、私の心が喜びとする、私の選んだ者を。」

これは、神様が私たち人間に向かって語りかけておられる言葉です。私が選んだ私の僕を見よ、と言っておられるのです。なぜかと言いますと、この僕がやがて神様の御心を成し遂げていくからです。神様が一人の僕を選んで、その僕の上に、ご自分の御心を現していかれる。それはいまだかつて誰も聞いたことのない計画であって、その計画がこの僕によって成し遂げられていく。

十字架の周りにいた人々が、主イエスを嘲りました。お前はメシアではないか、神の子ではないか、お前はユダヤ人の王ではないか。それなのに、自分を救うことすら出来ないで、殺されようとしている。他人を救ったのに、自分を救えない。そんな救い主があるか。

確かに、人々が言うとおりでした。自ら命を投げ打つような救い主など、いなかった。誰もそんなことは思いもよらなかった。しかし、まさに、そこに神の御心はあったし、その御心は主イエスという神の僕によって成し遂げられたのです。先ほど読みましたイザヤ書の神の僕の歌は、その後ずっと展開していって、次第にその姿を鮮明に現して、第53章の最後になって、こういう言葉でしめくくられる。

「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品として、おびただしい人を受ける。彼が自らを投げ打ち、死んで、罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

この人が執り成しをした。神に背いた者たちのために、執り成しをしたのだとイザヤ書は語るのです。十字架の上で、執り成しの祈りをささげてくださったのは、いったい、どなたであったか? 思い起こしてみてください。主イエスはこう祈ってくださったのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

さあ、執り成しって、どういうことでしょうか? どうかこの人を赦してやってくださいと口添えをすることでしょうか? 確かに、それも執り成しとは言えるでしょう。

しかし、イザヤがいう「執り成し」には、もっと深い意味合いがある。それはどういう意味かと言いますと「身代わりになる」ということです。神に背いた者たちの、負い切れない罪の重荷を、身代わりになって背負う。そういう僕が、やがてこの地上に現れるのだとイザヤ書は預言したのです。執り成しとは、身代わりになることです。そして、執り成しとは、和解をさせることです。

「父よ、彼らをお赦しください」と、主イエスは祈ってくださいました。この「赦す」というのは「解き放つ」ことを意味します。罪の鎖を解き放つのです。罪の重荷を全部取り払って、自由にするということです。どういう罪から解き放ってくださるのか? 主イエスを十字架につける罪からです。確かに人々が言うように、自ら命を投げ打つような救い主などいなかったのです。しかし、主イエスはまさにその道を行かれる。誰も知らなかった神の僕としての道を行かれる。人々は一斉に「そんな救い主は要らない」と言う。神の子なんか要らない。キリストなんか要らない。すでにクリスマスの物語が語っていたように「客間には彼らのいる余地は無かった」のです。人々の心にはキリストを迎え入れる余地が無かったということです。こうして、人々から排斥され、町の城門から追い出されて、とうとう十字架の上まで追いやられて、すべての人が主イエスを排斥した、そのときに、主イエスは祈られた。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

さあ、彼らとは、いったい誰のことなのでしょうか? 2千年前の最高法院の議員たちでしょうか? それともローマの兵士たちでしょうか? ユダヤの人々のことでしょうか? もし、そうであるなら、十字架の物語は、単なる昔語りになってしまいます。そうではないでしょう。ルカの先生であるパウロは、この主イエスの執り成しの祈りの中に自分を発見した人です。彼らを御赦しくださいと祈られたその「彼ら」の中に、ああ、この私もいたのだと青天の霹靂のように示されたとき、パウロはこう言いました。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

パウロはキリスト者を迫害していた熱心なファリサイ派の伝道者でした。神様のために、神様を信じて迫害していた。しかし、それは、つまるところ、自分の熱心さであって、神様と敵対していたに過ぎなかった。そんな神の敵であったときに、主イエスが十字架についてくださって、この私の罪を身代わりになって全部解き放ってくださった。そればかりか、神様との和解をもたらしてくださった。

執り成しとは、身代わりになること、そして、和解をさせることです。そこまで分かったときに、パウロは、それまで神様を知っている、信じていると言いながら、少しも神様を知らなかったこと、信じていなかったことが白日のもとにさらされた。そのときに、彼は初めて信仰が与えられたのです。不思議なことです。

なぜ、そんなことが起こり得たか? 信じていないことが明らかになったときに、どうして信仰が与えられるのか? それはほかの誰のことでもない、信仰の無い私のために主イエスが祈ってくださったから。主イエスが祈っておられるのは、この私のことなのだと悟ったからです。私のための十字架。それが心底分かったときに、キリストを信じる信仰は恵みとして与えられるのです。

今日は永眠者記念礼拝です。今日の礼拝の冒頭に、こう申し上げました。ここに写真が掲げられた人々は、天を故郷とし、地上を仮住まいとして歩みました。しかし、天の故郷に帰る道は、いったい、どなたによって、何によって開かれたのかと、そのように申し上げました。

この道は、イエス・キリストの執り成しの御業によって開かれたのです。執り成しとは、身代わりになること。そして和解を成し遂げることです。この神との和解によって、私たちは天への道が開かれて、天を故郷とする生き方が開かれた。永眠者記念礼拝の今日、私たちはそのことを心に刻みたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

9月27日(日)のみことば

「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。」(旧約聖書:イザヤ書43章1節)

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」(新約聖書:ルカ福音書19章5節)

今日の御言葉について、どうして主イエスはザアカイの名前を知っておられたのかと、いぶかる人もあるそうです。理屈をいえば確かにそうですね。イエス様が以前からザアカイを知っておられたとは考えにくいですから、ザアカイの名を呼ばれたのは不自然といえば確かにそうなのです。しかし、ルカが、そういう不自然さを犯してまで言いたかったのは、もっと大きなことではなかったでしょうか。それは今日の旧約のイザヤ書43章に記されている、名を呼ぶことの重みです。ここには「贖う」ということと「名を呼ぶ」ことがオーバーラップさせて語られています。つまり、名を呼ぶというのは「あなたはどこにいるのか」と問いかけるのとは全然違う意味を持っている、ということです。私はあなたを贖う。主イエスはザアカイに向かって、そう言っておられるのです。これは旧約の時代から存在した「贖い人」の救済制度を背景に持つ考えで、旧約のルツ記に詳細に語られています。