「誰を待つべきか」―聖霊降臨節第11主日礼拝―2026年8月2日(日)

聖書:イザヤ書62章1~2節・マタイによる福音書11章1~6節

説教:佐藤 誠司 牧師

「私につまずかない者は幸いである。」(マタイによる福音書11章6節)

 

「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

これはバプテスマのヨハネの言葉です。主イエスよりも半年先んじてこの世に生を受けたこの人は、主イエスよりもずっと先に世に出た。世に出たと言いましても、彼の場合は大都会に出て行って活躍をしたのではありません。荒れ野に出て行って、そこで人々に悔い改めを厳しく迫って、人々に悔い改めのバプテスマを授けたのです。

ルカ福音書が伝えるところによりますと、母の胎内にいるときから、ヨハネという人は主イエスを指し示していました。ヨハネという人は、誰よりも早く、また誰よりも正確に、主イエスの正体を見抜いた人物だったのです。主イエスこそ神の御子であり、救い主であることを見抜いた人物は、同時代の人の中には彼以外、一人もいなかったと言っても過言ではありません。

そのヨハネが今、獄中に捕らわれている。どうしてでしょうか? 当時のユダヤの領主はヘロデでありましたが、このヘロデが自分の兄弟フィリポの妻ヘロデアを横取りして、無理やり自分の妻にした。ところが、誰もがヘロデを恐れて、ヘロデの行為を咎める者は一人もいなかった。その中でヨハネだけがヘロデを真正面から糾弾した。そのことでヨハネはヘロデの怒りを買い、投獄されるのです。ところが、不思議なことに、ヘロデは獄に捕らわれたヨハネの語る言葉を喜んで聞く。ヘロデの心はヨハネに傾いていくのです。そうなりますと、人の心とは不思議なものでして、女性のヘロデアが男性のヨハネに嫉妬する。ヘロデの心がヨハネに向かっていくので、やきもちを焼くのです。そこでヘロデアはどうしたかと言いますと、娘サロメをそそのかして、父ヘロデの前で優美な舞を舞わせて、その褒美にヨハネの首を所望させるのです。こうしてヨハネの命はヘロデ一家の犠牲となって奪い取られる。

そういう運命を前にして、彼は獄中から弟子たちを主イエスのもとに遣わしました。そして、尋ねさせたのが、冒頭でご紹介した言葉です。

「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

真剣な問いかけです。獄につながれて、その命も風前の灯となっている人が弟子を遣わして問うているのです。これ以上の真剣な問いかけは、おそらくはない。主イエスもきっと、ヨハネの真剣な思いを受け止められたと思います。ところが、主イエスの答えは、じつに意外なものでした。主イエスはこうお答えになったのです。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

こうお語りになったあとで、主イエスはヨハネに最もお伝えになりたいことを、述べられる。

「私につまずかない人は、幸いである。」

これは警告の言葉です。主イエスはヨハネに警告しておられるのです。なぜなのでしょうか? それを知るために、もう一度、ヨハネが二人の弟子たちに言わせた問いかけを振り返ってみたいと思います。ヨハネはこう問いかけたのです。

「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

この「来るべき方」というのは「神が遣わしてくださるメシア」ということです。メシア・救い主のことなのです。つまり、ヨハネは、主イエスに向かって、こう問いかけたことになります。

「神が遣わしてくださるメシアは、本当にあなたなのですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

繰り返しますが、ヨハネという人は同時代人の中で、誰よりも早く、また誰よりも正確に、主イエスの正体を見抜いた人です。主イエスこそ神が遣わしてくださったメシア、救い主であることを彼ほどに深く知っていた人物はほかにいないと言っても過言ではない。それがどうして、「本当にあなたが来るべきメシアなのですか」などと聞くのだろうか?

一つ考えられるのは、ヨハネが抱いてきたメシア像と実際の主イエスの姿とのズレです。これは福音書を振り返ってみれば分かることですが、ヨハネが抱いていたメシア像というのは、人間の罪を厳しく裁く裁き主としてのメシアであり、罪を糾弾するメシアでした。メシアは麦をふるいにかけるようにして、人々をお裁きになる。だからその方の来られる前に、罪を悔い改めなさいと彼は人々に迫ったのです。ヨハネが人々に授けた悔い改めのバプテスマそのものが、やがて来られる裁き主としてのメシアを前提としたものだったとも言えるのです。

ところが、実際の主イエスはどうであったか? もちろん、主イエスも罪をなあなあで済ませたり、水に流したりするお方ではありませんが、声高に裁きを告げることはなさらなかった。これがヨハネの目から見れば、どうも、なまぬるい。厳しさが足りないのです。人々の罪を裁くどころか、「あなたの罪は赦された」と言って罪の赦しの宣言までしておられるではないか。あの方は、人々の罪を、いったいどこへ持っていかれるつもりなのか? このように、ヨハネの胸に主イエスへの疑問が沸き起こったとしても、不思議ではありません。

しかし、これも所詮は推測にしか過ぎません。じつは、今日の箇所は福音書研究の上で、今もって謎の部分なのです。ヨハネがどうして主イエスに向かって「来るべき方はあなたなのか」と問うたのはなぜなのか。これは今もって分からない。謎の言葉なのです。

しかし、一つだけ、ヒントがあります。それは次週に読むことになる箇所ですが、24節のところです。ヨハネの弟子たちが帰ったあと、主イエスは人々に向かって、こう言っておられるのです。

「あなたがたは何を見に荒れ野へ出て行ったのか。風にそよぐ葦か。」

今のヨハネを「風にそよぐ葦」に譬えておられるのです。じつはここも解釈の分かれるところでありまして、主イエスはヨハネのことを、ただ風に揺らぐような、ふらふらした男ではないと言われたのだと解釈をする人たちもいるのです。しかし、今回読み直してみて、やはりその読み方には、無理があると思います。

そうではなくて、主イエスは見抜いておられるのです。ヨハネの揺れる心を鋭く見抜いておられる。だから、ヨハネの心を「風にそよぐ葦」に譬えておられるのです。ヨハネという人は、確信をもって生きてきた人です。信念をもって生きてきた人でもありました。そういう人は一見強いのです。しかし、確信とか信念というのは、一度揺らぎ始めると、自分ではそれを抑えることが出来ません。

私たちの周りにも、そういう人はいくらでもいるでしょう。強い確信がある。強い信念があるのです。だから、一見、頼りになる。しかし、その確信や信念が揺らぎ始めると、もうどうしようもない。どうしてそうなるのか? 確信や信念というのは、所詮、自分が頼りだからです。自分の中にしか根拠を持たない。そこが信仰と違うところです。ヨハネは今、そういう危機的なところにいる。主イエスはそれを見抜いておられるのです。

しかし、もしそうなら、ヨハネには信仰が無かったのでしょうか。いや、そうではない。ヨハネは誰にも増して信仰の人だった。誰よりも真剣に、誰よりも真実に、誰よりも忍耐強く、主イエスを信じたのです。もし、ヨハネの信仰が、チャランポランなものであったなら、このような問いかけも出なかったに違いない。適当に信じているのであれば、「来るべき方はあなたなのですか」と問うこともないのです。だから、ヨハネは真剣に問うたのです。主よ、来るべき方は、あなたなのですね? あなたの御業と御言葉の中に、神の勝利は始まっているのですね? 神の勝利がこの地上にすでには始まっていると信じて良いのですね? 微妙なのは、ここから先です。主よ、信じて良いのですね? 私は間違ってはいなかったのですね? 私は生涯を賭けて、あなたを信じてきました。それは間違ってはいなかったのですね?

ヨハネは誰よりも真剣に問うているのです。その真剣さは、ひょっとして主イエスの周りにいた弟子たちよりも大きかったかも知れない。しかし、真剣に信じることが持つ落とし穴というものがあるのではないかと私は思う。真剣に信じる人が、ときに心の片隅に抱く思い。それは、私は間違ってはいなかったでしょうか、という思いではないでしょうか?

私はあなたを真剣に信じてきました。生涯を賭けて信じてきました。私は間違ってはいなかったでしょうか? そう問いたくなってくるのです。しかし、これは何を問うているのでしょうか? 結局は自分のことを問うているのではないでしょうか? 繰り返しますが、ヨハネは真剣なのです。その真剣さには、いささかの偽りもない。しかも、今、彼は獄につながれている。死を間近にしている。そういう極限状況なのです。ヨハネが自分は間違ってはいなかったでしょうかと問うても、それを咎めたり笑ったり出来る人は一人もいないでしょう。

しかし、主イエスというお方は違う見方をなさるのです。ヨハネの問いかけは真剣です。しかし、主イエスの眼差しは、その真剣さの奥に潜むものを見抜いておられる。ヨハネは真剣に問いかけました。主よ、あなたは本当に来るべき方なのですね? あなたを信じていて良いのですね? あなたを生涯賭けて信じた私は間違ってはいなかったのですね?

この問いかけに対して、主イエスが、仮に、「そうだとも、私は来るべきメシア。あなたはよくそれを見抜いた。私を信じていて良いのだ。あなたは間違ってはいない」と答えたとしたら、どうでしょうか? その答えを弟子たちから伝え聞いたヨハネは、確かに安堵するでしょう。

しかし、その種の安堵感や心の平安は、信仰とは違う。「私は間違ってはいなかったでしょうか」という問いに「あなたは決して間違ってはいなかった」という答えを貰えたなら、それは嬉しいでしょう。なぜ嬉しいか? 達成感があるからです。ああ、私の人生は間違ってはいなかったというお墨付きをイエス様から貰ったのです。もうこれ以上の達成感はないでしょう。しかし、信仰とは達成するものなのか? もし、そうなら、信仰は、結局は自己実現のための一つの手段に過ぎなくなります。今、ヨハネは信念と信仰の狭間を揺れているのです。主イエスはそれを見抜いておられる。だから、ヨハネの問いかけに直接答えることをなさらない。「見聞きしたことを、そのままヨハネに伝えよ」と言われた。そしてこう付け加えられるのです。

「私につまずかない者は幸いである。」

冷たい言葉のように思われるかも知れません。しかし、主イエスはこれによって、揺れるヨハネの心をもう一度、信仰の世界へと引っ張り込んでおられるのです。信念の世界から信仰の世界へ。達成感がなくても良いのです。自己実現などしなくとも良い。自己実現とは、どこまで行っても自己を問うものです。しかし、イエス・キリストを信じる信仰は違うのです。キリストを信じる信仰は、自分の中に根拠を持たないのです。なぜか? この信仰は主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた神との和解の中に生きるものだからです。徹頭徹尾、キリストなのです。自分が出る幕は、ここには無い。

ヨハネだけではありません。私たちも、ときに問いたくなります。「私の生き方は間違ってはいなかったでしょうか」と主イエスに問いたくなるでしょう。「あなたは間違ってはいなかったよ」と言ってほしいのです。しかし、主イエスというお方は、決してそれにはお答えにはならない。主イエスにとって、私たちの人生は他人事ではないからです。「あなたの人生、間違っていませんよ」というのは、親切な答えのように見えながら、じつは他人事の答え方です。それは譬えて言うなら、人生相談の答え方です。イエス様は、そんな答え方はなさらない。それほどに、主イエスというお方は、私たちの人生を、ご自分のものとして一緒に生きてくださる。使徒パウロがガラテアの教会の人々に宛てて書いた手紙の中に、次のような御言葉があります。

「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」

生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私の中に生きておられるのだとパウロは言うのです。若い頃、私はここを読んで、ああ、凄いなあ、自分もいつかパウロのような境地になりたいなと思っておりました。しかし、それは間違った読み方だったと気付かされた。キリストが私の内に生きておられるというのは、私たちキリスト者が目指すべき信仰の境地ではなくて、むしろ、出発点なのです。ゴールではなくてスタート地点です。キリストが私の人生を恵みによって支配してくださって、共に歩んでくださる。キリスト者の歩みとは、キリストと共なる歩みです。その歩みは今日のこの礼拝から始まります。キリストと共なる一歩を、ご一緒に踏み出したいと思います。