「まことの知恵と分別とは」―聖霊降臨節第20主日礼拝―2026年10月4日(日)

聖書:ヨブ記20章20~28節・マタイによる福音書13章44~52節

説教:佐藤 誠司 牧師

「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。」(マタイによる福音書13章52節)

 

福音書を読み始めた人が、最初に戸惑いを覚えるのは、おそらく「神の国」という言葉ではないかと思います。主イエスがしばしば口にされた大切な言葉ですが、どうもよく分からない。「神の国」とは言うけれど、そんな国があるわけではありませんし、国境があるわけでもない。主イエスが言われた「神の国」とは、そういう目に見える国家のことではなくて、人間の真っ只中に起こってくる「神の支配」のことなのだと、説教の中で繰り返し教わります。その意味では、「神の国」という言葉の意味は分かる。一応、知識として知ってはいるのです。

ところが、聖書の言葉というのは、知識として知っているだけでは、あまり意味がない。「神の国とは、神のご支配のことなのですよ」と、知識で知っていても、肝心のその人が神の支配のもとに生きていないとすれば、それこそ元の黙阿弥ということになりかねません。まさに聖書の言葉は、それを知っているかどうかが問題なのではなくて、そこに生きていることが大事なのでしょう。

では、神の国に生きる、神のご支配のもとに生きるとは、どういうことなのか? そこが肝心要になってまいります。今日はその一点をまず心に留めていただいて、マタイ福音書13章が伝える譬え話をご一緒に読んでいきたいと思います。

お話に入る前に、一つ、確認をしておくことがあります。今まで私は「神の国」という言葉を使ってお話をしてきましたが、マタイ福音書はそれらを、ほぼすべて「天の国」という言葉に置き換えているのです。そこで、私も、これから先はマタイの表現に従って「天の国」という呼び方で統一してお話をします。しかし、意味は全く同じ、「神の国」も「天の国」も、共に「神の支配」のことなんだと、その一点を抑えておいて頂きたいと思います。

今日はイエス様が語られた譬え話を五つ、まとめて読みます。いずれも短い譬え話ですが、不思議な魅力を持ったお話だと思います。この五つの譬えは、ただ意味もなく羅列されているのではありません。ちゃんとした理由がある。もちろん、天の国の秘密を語るのが、これらの譬え話の目的ではあるのですが、もう一つ、ここには大事な目的が隠されている。それを語っているのが、今日の箇所の最後、51節と52節の言葉です。五つの譬えを語り終えた主イエスが弟子たちに「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と尋ねると、弟子たちは即座に「分かりました」と答えた。それに対して、主イエスがこう言っておられるのです。

「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。」

ここに「学者」という言葉が出て来ます。「学者」と聞くと、なんだかいかめしい響きがしますが、この言葉はもともと、「何事かを学んで知恵と分別を得た者」という意味がありました。イエス様は弟子たちを「学者」と呼んでおられるのです。弟子たちは何を学んだのでしょうか。もちろん、天の国のことを学んだのです。天の国とは、神のご支配のことです。彼らは神のご支配をイエス様から学んだ。決して独学で学んだのではない。弟子たちは、イエス様に教えていただいて、神のご支配を理解し、体得した。その結果、まことの知恵と分別を得て、学者になったのです。ここが肝心です。

さて、知恵と分別といえば、今日読みました旧約のヨブ記に、「知恵と分別」が出て来ます。ヨブ記の28章20節から22節を今一度、読んでみたいと思います。

「では、知恵はどこから来るのか。分別はどこにあるのか。それは生ける者すべてに隠され、空の鳥にも隠されている。滅びの国も死も言う。『私たちは耳でそれを伝え聞いたことがある。』」

何が言われているのかと言うと、まことの知恵と分別は、すべての生ける者に隠されていた。まことの知恵と分別を知る者は、一人としていなかった。ただ、滅びの国と死の力だけが、耳で伝え聞く形で知っていたに過ぎない。この最後の部分は、福音書の物語を連想させます。弟子たちすら、イエス様が神の子であると知らない時に、悪霊だけがイエス様の正体を知っていたという物語です。しかし、悪霊はイエス様を信じて知っていたのではない。耳で伝え聞いて知っていたに過ぎなかったのです。この「耳で伝え聞いて」というのは、情報として聞いていたということです。しかし、まことの知恵、まことの分別というのは、情報ではない。まことの真実の言葉として聞かなければならないものです。だったら、この世の中で、いったい誰が、まことの知恵と分別を持つことが出来るのか。いったい誰がまことの真実の言葉を聞くことが出来るのか。誰が真実の言葉を語ってくれるのか。そこが問題になってきます。

ここで、再びマタイ福音書に戻ります。譬え話を語り終えた主イエスが弟子たちに「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」とお尋ねになった。すると、弟子たちは即座に「分かりました」と答えました。それに対して、主イエスはこう言われたのでした。

「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。」

この「学者」というのは、もともと「何事かを学んで知恵と分別を得た者」という意味の言葉でした。つまり、弟子たちはイエス様から天の国の秘密を語る真理の言葉、真実の言葉を教えてもらって、まことの知恵と分別を持つに至ったのです。イエス様が天の国の秘密を語る方法が、譬え話です。

31節から33節に記されている二つの譬えは、二つで一つの関係にあります。ここで主イエスは天の国を、別のものに譬えて語っておられます。譬えに用いられているのは、「からし種」と「パン種」です。いずれも、ごく小さいものです。

「天の国は、からし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

これが第一の譬えです。続いて第二の譬えが語られます。

「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

神の国を、はじめは「からし種」に、次に「パン種」に譬えておられます。からし種もパン種も、小さいものです。神の国、神の支配というのは、はじめは、ごく小さい。人の目にも留まらぬほど、小さいものなのだと主イエスは言っておられるのです。

しかし、その小さなものが、ものを大きく膨らませたり、姿を変えて大きな木となり、空の鳥を宿すほどになるのです。これは、楽観的な夢物語なのでしょうか? 確かにそのように言う人もいますが、私はそうは思わないのです。主イエスのお語りになることは、決して夢物語ではなく、むしろ、極めて現実的なことだと思うのです。

どこが現実的なのか? それは、からし種にしても、パン種にしても、自分が大きくなるのではないのです。パン種は、粉の中に入り込んで、自分は姿を消してしまいます。自分の姿かたちが無くなってしまうことによって、ただの小麦粉を大きく膨らませてパン生地にしていくのです。

からし種は、どうでしょうか? これも、からし種のまま巨大化するのではありません。一粒のからし種が、ひとたび自分の姿を消していくとき、それはあたかも自分の命を注ぎ出すようにして、芽を出し、根を張って、やがて一本の木となっていく。すると、その木は、自分が成長するだけではなく、空の鳥を宿すほどになるというのです。

からし種も、パン種も、人の目には見えないほど小さなものです。しかし、その小さなものが、姿を消して、命を注ぎだすとき、全体を大きく膨らませる。そこに天の国の秘密がある。主イエスは、そう語っておられるのではないでしょうか?

44節からは、別の譬えが始まります。ここも、先ほどのからし種とパン種と同じように、二つのよく似たものが登場します。畑に隠されている宝を見つける話と、商人が高価な真珠を見つける話です。

「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。」

畑というのは、人が汗水流して働く所です。これは私たちの人生を表わしていると見ることが出来るでしょう。この農夫は最後に畑を買っています。ここから分かるのは、この畑は彼自身のものではなかったということ。つまり、この農夫は畑の主人に小作料を支払って農作業をする小作人だったことが分かります。労多くして実りが少ないのが小作人の定めです。それが人生の真っただ中に宝を見つけたのです。さあ、どうするか。

なんと彼は、宝を隠しておいて、喜びのあまり、行って持ち物をすべて売り払って畑を買った。自分のものにしたのです。すると、どうなったか。畑は人生のことです。それまでの彼は、借物の人生を生きていた。自分自身の人生ではなかったのです。それが宝を見つけることによって、ガラリと変わった。人生の意味が変わったのです。

次の真珠の譬えは、もはやここで詳しく説明する必要もないと思います。二つの譬え話は双子のように似ているのです。同じ主題を、宝と真珠という別のものを使って語っておられるのです。つまり、同じ主題が繰り返し語られている、ということです。イエス様が二度繰り返して語られるのは、それが大事なことだからです。

いったい、どこが大事なのでしょうか。天の国とは神の支配のことです。神の支配は畑に隠された宝と同じように、上辺だけでは分からない。実際に畑に立って、土を掘り、耕して、初めて宝を見つけることが出来る。真珠だって同じです。真珠貝の山を見ても、どこに真珠が隠れているかは分からない。それと同じように、天の国は隠されているのです。宝も真珠も隠されている。からし種とパン種は、隠されているどころか、目にも見えない。しかし、そこに、神の支配は、既に始まっているのだと主イエスは言っておられる。

今日、私たちは、神の支配はイエス・キリストにおいて現わされたと信じております。しかし、主イエスが十字架につけられたとき、そこに神のご支配を見た人は、一人もいなかった。だから、人々は寄ってたかって主イエスをなぶり殺しにしたのです。イエス・キリストにおいて現わされた神のご支配は、少しも神のご支配らしくなかったのです。では、いったい、誰が天の国、神のご支配をこの地上で語ったのか。弟子たちだったのです。主イエスを見捨てて逃げて、十字架の現場にもいなかった弟子たちが語った。どうして、そんなことが可能になったのか。主イエスに教えてもらったからです。

ここでもう一度、51節と52節を振り返ってみたいと思います。譬え話を語り終えた主イエスが弟子たちに「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」とお尋ねになった。すると、弟子たちは即座に「分かりました」と答えました。それに対して、主イエスはこう言われたのでした。

「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。」

初めに申し上げたように、この「学者」という言葉は、もともと「何事かを学んで知恵と分別を得た者」という意味がありました。つまり、弟子たちはイエス様から天の国の秘密を語る真理の言葉、真実の言葉を教えてもらって、まことの知恵と分別を持つに至ったのです。

でも「知恵と分別」って、何なのでしょうか。皆さん、聖書をお読みになっていて、あるいは教会生活をしていて、こういうことをお感じになったことはないでしょうか。日本でも普通に使われる言葉がある。結構、皆が使っている言葉です。ところが、それと同じ言葉が、聖書の中では全く別の意味で使われていて、驚いた。そんな経験は、どなたも一度や二度はあると思います。典型的な例が「愛」という言葉です。愛という言葉は昔の日本では「愛欲」という意味しか持たなかった。それが聖書では最も尊いものという意味で使われている。日本社会と聖書の大いなるギャップに多くの日本人が驚いたのです。

知恵と分別も、それと似ています。詩編の111編に、こんな御葉があります。

「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人は皆、優れた思慮を得る。」

聖書が言う「知恵」とは、神を畏れる心のことです。そして最後に出て来る「優れた思慮」というのが「分別」のことです。そして、この知恵と分別の根底にあるのが、神のご支配を見る目です。世の中の、上辺だけを見れば、神のご支配があるなどとは、到底思えない。戦争があり、大きな災害があり、弱い者が虐げられている現実がある。しかし、そこに神のご支配は、すでに始まっている。それを見抜くのが分別です。エレミヤはバビロン捕囚という不幸の中に神のご支配を見ました。モーセは、前は絶壁、後ろは追手のエジプト軍という窮地の中に神のご支配を見た。私たちも、同じです。私たちはイエス様に教えて頂いて、今の世の中に神のご支配を見る。希望を持って見るのです。希望を持って生きるとは、そういうことだと思うのです。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月4日(日)のみことば

「この魂は災いを知り尽くし、この命は陰府に届きそうです。」(旧約聖書:詩編88編4節)

「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を崇めた。」(新約聖書:ルカ福音書23章16節)

百人隊長は主イエスの処刑を現場で指揮していた立場の人です。その人が、このイエスはまことに正しい人であったと言ったのです。どうして百人隊長は「正しい人」と言ったのか? マタイ福音書ですと、百人隊長は「まことにこの人は神の子だった」と言ったことになっています。こちらのほうが、神の独り子であるイエス様にふさわしいではないかと思われるかも知れません。しかし、私は、こういうところが、いかにも使徒パウロの弟子であるルカらしいところであると思うのです。どういうことかと言いますと、パウロが書いたローマの信徒への手紙に、アダムと主イエスを対比させて語っているところがあります。

「一人の人の罪によって多くの人が罪人とされたように、一人の正しい人によって多くの人が正しい者とされる。」

最初に出て来る「一人の人」というのがアダムです。そして、後に出て来る「一人の正しい人」というのがイエス・キリストのことなのです。これはまさに、主の十字架の意味を言い当てた言葉であると思います。主イエスの十字架の贖いによって、多くの人が正しい者とされた。しかも、功績の無いままに、正しい者とされた。これは、とても大きいことです。ルカ福音書の百人隊長が主イエスのことを「正しい人」と呼んだのは、このローマ書の御言葉に対応しているのです。