「朝ごとに主は私を呼び覚まし」―聖霊降臨節第10主日礼拝―2026年7月26日(日)

聖書:イザヤ書50章4~7節・マタイによる福音書10章26~31節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた。疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。主は朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まし、弟子として聞くようにしてくださる。」(イザヤ書50章4節)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。体を殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイによる福音書10章26~28節)

 

しばしば指摘されることですが、新約聖書の御言葉は迫害の血のにおいがすると言われます。これは、おそらく、新約聖書が成立していく時代背景が、ちょうどローマ帝国によるキリスト教の大迫害に重なることに起因しているのでしょう。一つ、例を挙げますと、テモテへの第二の手紙の中に、こんな御言葉があるのをご存じの方もあるでしょう。

「私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」

ここに「闘い」という言葉が出ておりますが、この言葉は元々「多くの人々の前」という意味がありました。そこからこの言葉は、さらに転じて「競技場」という意味をも持つようになりました。どうしてそのような言葉が「闘い」という意味を持つようになったか? もう薄々気が付いておられる方もあるかも知れません。新約聖書に収められた福音書や手紙の多くは、迫害の時代に書かれたものがほとんどなのです。そういうこともあって、新約聖書には迫害の痕跡があちこちに影を落としている。この「戦い」という言葉も、そうです。多くの人々の前、競技場に、キリスト者が引きずり出されて、見世物にされた猛獣の餌食にされたり、キリスト者同士が武器を持たされて、殺し合いをさせられました。

また、私たちが教会生活の中でよく使う「証」と言う言葉も、もとはと言えば法廷用語です。裁判の場面で使われた言葉だった。当時のキリスト者は、キリストを信じる信仰を持つが故に、法廷に立たされることが多かったのです。そのようなことに思いを馳せて今日の箇所を読むと、どうでしょうか? 主イエスが弟子たちのために、大変細やかな心遣いをしておられることが分かります。

主イエスがしばしば弟子たちに言われた言葉の一つに「ファリサイ派のパン種に注意しなさい」という言葉があります。これは「ファリサイ派の人々に注意しなさい」というのとは根本的に違います。「ファリサイ派の人々に注意しなさい」というのは、「あの連中に気をつけろ」という意味ですから、これは言ってみれば、他人事の言い方です。主イエスが言っておられるのは、そういうことではない。あなたがたの中に入り込む「ファリサイ派のパン種に注意しなさい」と言っておられるのです。パン種が、ひとたびパン生地の中に入れられると、パン種はほんの少しであっても、パン生地を大きく膨らませる。良いパン種であれば問題はないのです。しかし、ファリサイ派のパン種は「偽善」であると主イエスは言われる。

偽善とは何でしょうか? 主イエスが言っておられる偽善というのは、今の私たちが口にする「偽善」という言葉とは、少し意味が異なります。主イエスが言われる偽善。それは、神のものを掠め取るということです。本来は神様のものであるものを、横取りをして、さも自分のものであるかのように振舞う。それが主イエスが言われる偽善です。

もちろん、ファリサイ派の人々が、最初から意図的に神のものを掠め取っていたわけではないでしょう。むしろ、ファリサイ派の人々は真面目で誠実。神の言葉である律法に忠実に生きていた人たちです。ところが、一般の人々が律法の解釈をめぐってファリサイ派の人々に教えを乞いにやって来る。こういう場合は、どうすれば律法に反しないのですか、先生、一つ教えてくださいというわけです。ファリサイ派の人々は真面目で親切ですから、人々の疑問に親切に答えてやります。

すると、教えてもらった人は、ファリサイ派の人たちの知識と親切さを誉めそやします。あの先生に聞いたら何でも親切に教えてくれる。あの先生の律法の知識はたいしたものだと褒めてくれるのです。人に褒められて嬉しくない人はいません。しかし、そのとき、本来は神が受けるべき賞賛と栄光を、横取りして我がものにしてはいないか? 主イエスが言われる偽善とは、そういうことです。神様が受けるべき栄光と賛美を、人が、さも自分の手柄であるかのように思ってしまうのです。どうして、そういうことになるのか? 栄光を神に帰さないからです。神を神としてあがめていないからです。その心の隙間に、誘惑が働くのです。心の中で、本当に神をあがめているか? 自分の手柄だと思っていないか?

ここで主イエスは、不思議なことを言われます。

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。」

さあ、この言葉をどう聞くか。それが今日の箇所の最大の課題になるでしょうか。「隠れているもの」「覆われているもの」と聞くと、私たちはつい、自分が心の奥底に隠し持っている悪い思い、それこそファリサイ派のパン種のような神様の栄光を掠め取ってしまうような偽善的な思いを連想してしまいます。しかし、本当にそれだけで良いのだろうか。もし、イエス様が、私たちの心に潜む悪い思いのことだけを言っておられるなら、これは厳しいだけの裁きの言葉になってしまいます。確かにイエス様は、ここで私たちが心の思いを吟味するよう求めておられます。私たちの心に潜む偽善に警告を発しておられます。しかし、それ以上に、イエス様は、私たちの心の奥底にすでに芽生えている信仰を大切にしなさいと言っておられるのではないでしょうか。つまり、イエス様がここで言われる「隠れているもの」とは、悪い思いのことだけではない。信仰のことを言っておられる。私たちはそう理解をしたいと思います。だから、主イエスの言葉は、次のように続きます。

「私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。」

イエス様が語ってくださった救いの言葉、福音を、あなたがたは人々を恐れることなく言い広めなさいと言っておられる。この言葉はさらに次のように続きます。

「体を殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

主イエスは何を言っておられるのでしょうか? 神を恐れなさいと言っておられる。脅しをかけておられるのでしょうか? 違います。まことの意味で、神を恐れなさいと言っておられるのです。神を恐れると聞くと、私たちは違和感を覚えるかも知れません。「神を愛しなさい」とか「神を賛美しなさい」と言うのなら、分かる。しかし、神を恐れよというのは、なんだかヘンだ。ちょっと違うのではないかと思う。そう思われる方は案外、多いのではないかと思います。

しかし、敢えて言いますが、神を恐れるということに違和感を感じてしまう私たちの信仰は、ひょっとして、生ぬるい、中途半端なものになってはいないだろうか? 初代教会の人々、日本で言うなら明治時代のキリスト者たちは、真剣に神を恐れるところから、信仰を養いました。

また、近年よく言われることですが、神を恐れよなどと言うのは、いまどき受けない。神を恐れよなんて言ったら、誰も教会になんか来ませんよと言われる。しかし、神を恐れないというのは、怖いものなしの無神論者ということです。ただの人が神を恐れないのなら、分かるのです。しかし、キリスト者が神を恐れなくなったら、どうなりますか? 神を恐れなくなったキリスト者は、必ず、人を恐れるようになります。今日の箇所の冒頭で、主イエスが「人々を恐れてはならない」と言っておられるのは、そういうことなのです。しかも、この「人々」というのは、キリスト者を見世物にする多くの人々、迫害する人々のことです。競技場かも知れません。法廷かも知れません。しかし、あなたがたは、人を恐れてはならない。私があなたがたと共にいるのだから、と主は言われるのです。これに続いて語られたと見られる言葉が、ルカ福音書の12章8節に記されています。

「言っておくが、誰でも人々の前で私を認める者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒む者は、神の天使たちの前で拒まれる。」

ここも、やはり多くの人々の前のことが語られています。それも迫害する人々の前、法廷に立たされた場面を連想させる言葉です。キリストを信じる信仰ゆえに法廷に立たされることが、当時、しばしばあったのです。

法廷ですから、言葉が大事になってきます。自分の無実を証明するための言葉ではありません。神の栄光を証しする言葉です。初代教会の人々は、主の恵みと神の栄光を証しする言葉が与えられるよう、ひたすら乞い求めて、祈りました。必要な言葉は必ず与えられるからです。今日読んだイザヤ書50章の言葉も、そのような初代教会の人々が大変に愛した御言葉です。

「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた。疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。主は朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まし、弟子として聞くようにしてくださる。」

先ほど、ご一緒に歌った讃美歌472番は、このイザヤ書第50章の御言葉から生まれた曲です。この御言葉は、牢獄に捕らわれたキリスト者たちが、ことのほか愛した御言葉です。牢獄で朝を迎え、法廷や刑場に引きずり出されていくキリスト者が、この御言葉を口ずさんだと言われます。神の栄光と主の恵みを証しする言葉が与えられますように、と祈りつつ、口ずさんだのです。主イエスは言われます。

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

証の言葉は聖霊が教えてくださる。与えてくださる。主の恵みと、神の栄光を証しする言葉は、必ず与えられる。これが初代教会の人々の合言葉になりました。そして、それと同じ伝統が、今も私たちキリスト教会の中に脈々と息づいています。私はあなたがたと共にいると約束してくださいました。

今日の箇所は、じつに厳しい警告が語られています。その厳しさを不当に和らげることは誰にも赦されないことでしょう。しかし、主イエスの語られる厳しい言葉は、その厳しさゆえに、まことの慰めでもあります。朝ごとに、私たちにも言葉が与えられ、弟子として聞き従うようにしてくださる。私たちも、ここから人々の前に出て行きます。主の恵み、神の栄光を証しする務めを携えて、主が共にいてくださることを唯一の心の頼みにして、遣わされていくのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月26日(日)のみことば

「人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。」(旧約聖書:申命記8章5節)

「しかし、次のことを指示するにあたって、私はあなたがたを褒めるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果ではなく、悪い結果を招いているからです。」(新約聖書:第一コリント書11章17節)

使徒信条に「聖なる公同の教会(を信じる)」という一節があります。大事な言葉ですが、これは「全能の父なる神を信ず」のように、信仰の対象として信じているのではなくて、神様が教会の中に生きて働いておられる、交わりの中に生きて働いておられる。そういう教会とその交わりが神のものであると信じる。そういう意味なのだということを、まず抑えておきたいと思います。これと同じ意味で、使徒信条は「聖徒の交わり」を信じると言うのですが、その「聖徒」とは何なのか。足羽山に「聖徒之墓」という名の共同墓地があることからも分かるように、この「聖徒」というのはキリスト者のことです。

誤解してはならないのが、「聖徒」というのは、その人の性格に起因する呼び名ではない、ということです。「聖徒」と聞きますと、私たちは「聖」という文字に捕らわれて、神々しい性格の人とか、立派な信仰の持ち主を連想しますが、「聖徒」というのは、そういう意味は全くない。「聖徒」の「聖」という字は、もともと「神のものとされた」という意味がありました。ですから「聖徒の交わり」というのは立派な聖人君子の交わりのことではなく、神のものとされた人々の交わりということです。