「最後まで耐え忍ぶ」―聖霊降臨節第8主日礼拝―2026年7月12日(日)
聖書:イザヤ書40章26~31節・マタイによる福音書9章10章16~23節
説教:佐藤 誠司 牧師
「あなたがたの目を高く上げ、誰がこれらを創造したかを見よ。万象を数えて導き出される方は、すべてを名前で呼ばれる。その大いなる強さと力から逃れうる者は誰一人ない。」(イザヤ書40章26節)
「また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」(マタイによる福音書10章22~23節)
よく指摘されることですが、新約聖書の御言葉には迫害の血の匂いが漂っていると言われます。これは、おそらく、新約聖書が成立していく時代背景が、ちょうどローマ帝国によるキリスト教の大迫害に重なることに起因しているのでしょう。イエス様ご自身も、今日の箇所の少し先になりますが、10章28節で、こう言っておられます。
「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい。」
主イエスが弟子たちに語られた言葉です。ここで主イエスは、体が殺されることを否定してはおられません。むしろ、あなたがたは、私の弟子であるが故に、殺されるだろうと言っておられる。しかし、彼らを恐れてはならない。体を殺すことが出来ても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も滅ぼすことの出来る方を恐れなさいと主は言われるのです。
ここで主イエスは、二つのことを言っておられます。一つは、あなたがたは行きたくない所に連れて行かれるということ。二つ目は、それはあなたがたにとって証しをする機会となる、ということです。一つ目の「行きたくない所」というのは、復活の主イエスがペトロに言われたことで有名になった言葉です。
主イエスが捕らえられた時、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げました。ペトロも逃げたのですが、逃げ切れずに、主イエスの連行先である大祭司の館までついて行って、中庭で人々が焚火を焚いて当たっている。ペトロはその中に紛れ込む。すると、焚火の明かりを受けて、ペトロの顔が闇の中に浮かび上がった。これを見て、大祭司の女中が「あなたもあの男の仲間だ」と言う。ペトロはこれを否定した。「あんな人、知らない」と否認したのです。この出来事は、ペトロにとって、大きな傷になりました。再起不能という言葉がありますが、このときのペトロが、まさにそうだった。すべての望みが消えて、ペトロは失意のうちにガリラヤに帰ります。もう自分には主イエスの弟子の資格は無いと思ったのでしょう。彼はガリラヤ湖の漁師に戻るのです。すると、そこに復活された主イエスがペトロを待ち受けていて、ペトロに向かって、こうお尋ねになった。
「あなたは私を愛しているか。」
ペトロは答えます。
「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
辛かったと思います。しかし、この問いに正面切って答えなければ、ペトロは立ち直ることが出来なかったでしょう。しかも、主イエスは三度、同じ問いかけをペトロに投げかけておられる。そして、主イエスはペトロに、「私の羊を養いなさい」と言われた。新たな使命を与えてくださったのです。そして、主イエスは、続けておっしゃった。
「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」
このように、イエス様はペトロがどのような死に方で神の栄光を証しするかを語っておられる。他の人に帯を締められるというのは、あなたは鎖で縛られるということです。そして、行きたくない所というのは、じつは裁きの場、裁判の被告人の席のことです。あなたがたは裁きの場で証しをすることになるのだと主イエスは言われるのです。
以上のことを踏まえて、今日の箇所に戻りますと、どうでしょう。ここで目を引くのは、やはり「証し」という言葉です。あなたがたは証しをするのだ、と、イエス様はハッキリ言っておられるのです。人々はあなたがたを地方法院に引き渡す。あなたがたは会堂で鞭打たれ、牢に引渡され、行きたくない所へ連れて行かれる。私の名のゆえに王や総督の前に引っ張り出される。しかし、それは、あなたがたにとって証しをする機会となる。
証しという言葉が出ております。今では教会の中で普通に使われる言葉です。でも、どうでしょう、証しといえば、私たちは、入信のいきさつとか、イエス様との出会いを語るのが証しだと思っております。ところが、まあそれも証しの中に入るのでしょうが、本来の証しというのは、もともとは法廷用語だった。つまり、裁判の席で使われた言葉だったのです。これには、初代教会の迫害の歴史が反映されていると考えることが出来る。つまり、初代教会のキリスト者たちは、信仰ゆえに法廷に引きずり出されることが多かったのです。そのときに、裁判所がキリスト者に語ることを許したのが「弁明」の言葉だったのです。19節に、こう書いてあります。
「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。」
この「何をどう言おうか」というのが「弁明」のことなのです。イエス様は「弁明の言葉をどう言おうかと心配するな」と言われるのです。どうしてでしょうか。主イエスが弟子たちに求めておられるのは、「弁明」ではなくて、「証し」なのです。弁明というのは、ただの言葉です。ところが、証しというのは違います。もちろん、言葉による証しもあるのですが、言葉以上のもの、つまり、その人の生き方とか立ち居振る舞い、人格のすべてを通して、ああ、神様は本当にこの人と共におられるのだなあと、敵対者にも分かってくる。そういう生き方や振る舞いのことを、初代教会の人々は「証し」と呼んだのです。ですから、キリスト者にとって証しというのは、言葉だけの弁明とは違う。その人が何を喜びとして生きているか、何に望みをつないで生きているか、何を信じて祈っているか。神様が共にいてくださることを、どんな境遇でも信じているか、それが伝わっていく。敵対者にも伝わっていく。それが証しだったのです。身をもって証しをしながら、最後まで耐え忍ぶ。そのことを主イエスは求めておられます。
しかしながら、主イエスは、何が何でも迫害に立ち向かいなさいとは言われない。むしろ、次のように言っておられるのです。
「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」
私たちは、迫害されたら耐え忍ぶのが勇気ある生き方だと考えています。逆に迫害を逃れて逃げるのは卑怯なこと、みっともないことだと考えています。卑怯者と言われるのは、いちばん嫌だと思っています。ところが、主イエスは「逃げなさい」と言われる。卑怯者と言われたって、いいじゃないか。私が最後に来て、すべての落とし前をつけるのだから、と、主イエスは言われるのです。逃げずに死ぬよりも、生き延びて、身をもって証しを語りなさいと言われる。行きたくない所で、証しを語りなさい。
今日は福音書と併せて旧約のイザヤ書40章の言葉を読みました。これも、行きたくない所に連行されていった人々に向けて語られた言葉です。ユダヤの国が滅ぼされて、多くの人々が捕虜として、あるいは奴隷として、外国に連行されて行ったのです。希望など、これっぽっちもありません。その中で人々は「私の道は主に隠されている」とぼやき、「私の訴えは神に見過ごされている」と嘆き悲しみました。
これはどういうことかと言いますと、「私の道」というのは「私の人生」ということです。神様の目は私の人生には届いていないと嘆いているのです。私の訴えは神に見過ごされているというのは、私の祈りは聞かれていないということです。いずれも深い嘆きと絶望の言葉です。普通だったら下を向いて、うなだれてしまうところです。ところが、この人々は、絶望しながら、夜空を見上げる。すると、満天の星が輝いている。それを見ておりましたときに、ここがユダヤの人々の凄いところだと思うのですが、彼らは自分たちに語りかける声を聞くのです。その声が、イザヤ書40章の26節に記されています。
「あなたがたの目を高く上げ、誰がこれらを創造したかを見よ。万象を数えて導き出される方は、すべてを名前で呼ばれる。その大いなる強さと力から逃れうる者は誰一人ない。」
夜空を見上げて、いったい誰がこの世界を造ったのかを見よ、この地上では国と国が争い、この国が勝ち、この国は栄華を誇っている。しかし、誰もこの夜空の星を支配することは出来ない。まさに人の手の届かない、あの星を造ったのは誰か。誰がこの世界を支配しているのか。誰がこれらを創造したか。その一点に目を開かれたときに、捕らわれの身の人々が初めて望みを持つのです。どこに望みを持つのか? 自分たちの中には、もう望みはないのです。さあ、いったい、どこに望みを持つのでしょうか。
「あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は永遠の神。地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は極めがたい。疲れた者に力を与え、勢いのない者に強さを加えられる。若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新たな力を得、鷲のように翼を広げて舞い上る。走っても弱ることがなく、歩いても疲れることはない。」
主に望みをおく、とハッキリ言われていますでしょう? この預言者も、かつては「私の道は主に隠されている」とか「私の訴えは神に見過ごされている」と言って、嘆いていたのです。自分たちはこの異国の地で、捕虜のまま死んでいくに違いないと思っていた。人間の頑張りというのは、ある一線までは持ちこたえられます。ところが、その一線を越えますと、堰を切って流れる怒涛のように、もう押し流されるのをどうすることも出来ません。堤防がある間は、川の水は支えておれるのですが、堤防が破れたら、もうダメでしょう?
人間の頑張りというのは、あの堤防に似ています。私たちも、自分の努力や頑張りで、人生の様々な悩みや労苦に持ちこたえていきます。ところが、それが破れたら、いったい、何でもって頑張るでしょうか? その破れの中で、いったい、誰に望みをつなぐでしょうか? もう自分はダメだと思って人生にケリをつけてしまうでしょうか? そういう人は確かに多いと思います。しかし、私たちはそうではないでしょう? ああ、今までは自分の中に救いの根拠を求めていたけれど、本当は違うのだと、今まではつい、自分の内面や身の周りばっかり見ていたけれど、ああ、神様を見上げることを忘れていたなあと、ハッと気付く。ハッと気付いて、そこへ帰って行く。ああ、いつでも帰る道は開けるのだと分かる、目が開かれる。
ヤコブという人がいます。彼はお父さんを騙し、お兄さんを欺いて、家におれなくなって、放浪の旅に出ました。絶望のドン底で野宿をして孤独に喘いでいたとき、彼は神様が共におられることを知らされて、こう言いました。
「ああ、まことに主がここにおられるのに、わたしはそれを知らなかった。」
神様というお方は、いつも共におられる。この宇宙に漠然と鎮座しておられるのではない。私たちが悩みの中、絶望の淵に立つときに、共におられる。そして「私はあなたを見捨てない」と声をかけておられる。そう気付いて、ハッと目を覚ます。生きた信仰というのは、そういう目を覚ますことの連続ではないでしょうか。あのままだったら、死んでいたのに、今はそうではない。神様と真向き合いになって、喜んで生きているではないか。ああ、これこそが本当の生き方なんだと分かる。これが主イエスが言われた希望です。この希望があるが故に、私たちは最後まで耐え忍ぶことが出来るのです。行きたくない所にも、主イエスは共におられるのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
7月12日(日)のみことば
「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのため刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。」(旧約聖書:イザヤ書53章4~5節)
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(新約聖書:ルカ福音書23章34節)
使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と語ります。私たちが告白するのは、日本語に翻訳された使徒信条です。「苦しみを受け」という日本語を見ますと「苦しみ」という言葉と「受ける」という言葉があるように見えます。二つの言葉が結び合わさって「苦しみを受け」という言葉になったのだと、そういう印象を受けてしまいます。これは、おそらく日本語の特徴なのでしょう。しかし、使徒信条のもとの言葉は「苦しみを受け」というのは一つの単語です。使徒信条がここに使いました言葉は「パッション」という英単語の元になった言葉です。「パッション」というと、日本では「あの人はパッションがある」というふうに「情熱」という意味で使われることが多いと思います。しかし、この言葉は元々は「受難」「苦しみを受ける事」を表わす言葉でした。
このように、「パッション」という言葉は「苦しみを受ける」という意味を持っていますが、さらにさかのぼりますと、この言葉は苦しみは苦しみでも、自業自得の苦しみではなくて、他者のために甘んじて受ける無償の苦しみのことだったのです。ある人が大きな苦しみを受けている。しかし、その苦しみの原因は、この人の中には無い。苦しみの原因は他の人々の中にある。「パッション」という英単語の元になったギリシア語は、そういう苦しみを意味していたのです。
