「平和を告げる者」―聖霊降臨節第7主日礼拝―2026年7月5日(日)
聖書:イザヤ書52章7~8節・マタイによる福音書10章5~15節
説教:佐藤 誠司 牧師
「なんと美しいことか。山々の上で良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ、シオンに『あなたの神は王となった』と言う者の足は。」 (イザヤ書52章7節)
「家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。その家がふさわしければ、あなたがたの願う平和がそこを訪れるようにしなさい。ふさわしくなければ、その平和があなたがたに返って来るようにしなさい。」 (マタイによる福音書10章12~13節)
今日の物語はまず、主イエスが12人の弟子たちを伝道のために遣わすところから始まっています。これまで弟子たちは、主イエスに従って、主イエスと一緒に出掛けました。主イエスのあとにくっついて行ったと言っても良いと思います。ところが、この度は違う。主イエスは彼らだけをお遣わしになるのです。この日のために、主イエスはかねてより、この12人を選んでおられた。この日のために備えておられたのです。10章の1節と2節をご覧になってください。
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や煩いを癒すためであった。十二使徒の名前は次のとおりである。」
これまで「弟子」と呼ばれていた人々を、新たに「使徒」と名付けておられるのです。「弟子」も「使徒」もたいして変わらない、同じことではないかと思われるかも知れませんが、じつはそうではない。確かに、彼ら12人は、使徒になったからといって、弟子であることを辞めたわけではありません。その意味では彼らは弟子であることに変わりはないのです。しかし、弟子というのは、師匠に勝る者ではない。あくまで師匠の助手であるのが弟子です。
ところが、使徒というのは違う。使徒という言葉は、もともと「遣わされた者」という意味のあった言葉です。遣わされなければ、使徒とは言えないのです。
そしてもう一つ、使徒という言葉には大変に大きな意味があります。使徒は遣わしてくださったお方と全く同等の権威を持つのです。そこが弟子と違うところです。弟子は師匠以上のものではないし、師匠と同等の権威を持つものでもない。しかし、使徒というのは、自分を遣わしてくださったお方と同等の権威を持つのです。まことに光栄なことです。
しかし、これは光栄であると共に、大変に厳しい一面をもはらんでいる。主イエスと全く同等の権威を持つが故に、使徒は自分の意思や考えに基づいて行動してはならない。あくまで、自分を遣わしてくださった主イエスの御心に忠実に働かなければ使徒とは呼べないのです。
だから、主イエスは12人を遣わすにあたって、ご自分の権威と権能をすべて授けておられます。悪霊に打ち勝つ力と、病気を癒す力を彼らに授けて、こう言っておられる。
「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、規定を病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
この「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」というのは、私が神学校を卒業して、仲間と共に全国の教会に遣わされる前に、当時、東京神学大学の学長であった松永希久夫先生が繰り返し言われた言葉です。続けて、主イエスはこう言っておられる。
「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」
厳しいことが言われています。しかし、言われているのは明快なことです。「明日のことを思い煩うな」ということです。物見遊山の旅に出かけるのではありません。神の国の到来を告げる旅、福音を告げる旅に遣わされるのです。だったら、そこにすでに始まっている神のご支配に身を委ねて生きるのが、あなたがたの本来の生き方ではないかと主は言われるのです。明日のための思い煩いを心の中に隠し持っていて、福音を語れるか、明日の生活を心配しながら、神の国の到来を人々に告げることが出来るか?
しかしながら、主イエスは食べ物や衣服は必要ないと言っておられるのではありません。遣わされる弟子たちのことを誰よりも心配しておられるのは、主イエスであったに違いない。イエス様は続けてこう言っておられるのです。
「働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで誰がふさわしい人かを調べて、旅立つときまで、その人のもとに留まりなさい。」
福音を告げ知らせる人は福音によって生活をすべきだと言っておられる。これは主イエスご自身が実践しておられたことです。あなたがたが神のご支配を身をもって告げ、福音を身をもって告げるなら、その福音を受け入れた人たちが必ずあなたがたの生活を支えてくれる。だから、その家に留まって、そこを拠点にしてそこから出掛けて行きなさい。主イエスはそう言われるのです。そしてこれが後の教会の原型となったのです。
「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行くな」と主は言っておられます。これは明日のための蓄えをするなということでしょう。明日のことで今日を思い煩うなということです。今日の恵みは今日与えられ、明日の恵みは明日備えられる。だから明日のための袋も要らない。下着も履物も今身に着けいるものだけで十分だと主は言われるのです。
「家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。その家がふさわしければ、あなたがたの願う平和がそこを訪れるようにしなさい。ふさわしくなければ、その平和があなたがたに返って来るようにしなさい。」
遣わされた弟子たちにまず託された務めは、平和を告げることだったのです。キリスト教の歴史の中で、この言葉は大変に大きな意味を持つようになりました。キリストの福音がローマに伝えられたとき、ローマはキリスト者を激しく迫害しました。キリスト者の夫婦は捕らえられ、引き裂かれます。夫は競技場に送り込まれて殺され、残された妻は女奴隷としてローマ貴族の家に送り込まれます。この女奴隷たちが女主人であるローマの貴婦人に言った言葉が、これだったのです。
「この家に平和があるように。」
女主人はこの言葉にビックリ仰天した。どうしてあなたは私たちに平和を祈るのか。私の夫はあなたの夫を殺したのに、どうして私たちを祝福するのか。こうしてローマの貴婦人たちは、女奴隷が告げる平和に心開かれていきます。「ローマの平和」という言葉があるように、ローマ人にとって「平和」とは、あくまで軍事力の均衡によって保たれる、戦争の無い状態のことだったのです。ちょっと今の世の中に似ています。
ところが、女奴隷たちが告げた平和は、そうではなかった。和解に基づく平和を、彼女たちは告げた。そしてこの平和が、やがてローマを陥落させていくのです。武力によって陥落させたのではありません。まずローマの貴婦人たちが福音を信じるようになった。すると彼女たちはキリスト者の女奴隷と、心を一つにして祈り始めるのです。夫の救いのために祈る。彼女たちのこの祈りによって、戦いに明け暮れるローマはついに陥落する。キリストの平和がローマの平和を陥落させたのです。
平和とは何でしょうか? 戦争の無い状態のことでしょうか? 確かにそれも平和の一部でしょうが、聖書が語る平和はそういうことではないのです。聖書が語る平和とは、神と和解させていただくことによって、神との間にもたらされる平和のことです。復活の主が弟子たちに現れてくださったとき、最初に告げられたのが、この平和です。「あなたがたに平和があるように」と告げてくださったのです。
しかし、それなら、平和を告げるとは、いったい、どういうことなのでしょうか? 果たして平和は、言葉だけで告げることの出来るものなのでしょうか? 今日はイザヤ書52章の言葉を読みましたが、あそこにも「平和を告げる」という言葉が出てきておりました。
「なんと美しいことか。山々の上で良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ、シオンに『あなたの神は王となった』と言う者の足は。」
この「平和を告げる」というのは、じつは言葉だけで告げるというより、身をもって証しすると言ったほうがふさわしい所です。その人の生き方や、毎日の生活をとおして、平和がほとばしり出る。回りの人々にまで平和の恵みが溢れ出る。そのように、あなたがたは生きなさいということです。だから、主イエスは生き方や生活についても、お語りになる。ルカ福音書の10章が伝えていることですが、イエス様はこんな事まで言っておられます。
「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どの町に入っても、迎え入れられたら、差し出される物を食べなさい。そして、その町の病人を癒し、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」
出される物を食べなさいというのは、今の私たちが聞けば、なんでもないことのように聞こえますが、当時のユダヤ人が聞けば、ギョッとすることだったに違いありません。ユダヤの人々には厳しい食物規定があったからです。特に偶像への供え物をユダヤの人々は絶対に口にしなかったですし、食べてよいものと食べてはいけないものを厳しく区別したのです。
しかし、主イエスは、その家の人があなたがたを受け入れてくれた上で、あなたがたのために用意してくれた物なら、何でも安心して食べなさいと言われるのです。「私だけ別の物を食べます」と言っておいて、神の平和があるようにと口で何遍言っても、それは人の心には伝わりません。同じものを、同じ食卓について食べたらよいと主は言われるのです。さらに言えば、これは食べ物だけに留まらない、その家の人たちと同じ生活をせよということです。同じ生活をしながら、その家の人々の生活のすべてを平和の光が照らし出すようにしなさいと主は言われる。あなたがたの生活の中から、平和の光がほとばしり出るようにしなさいと言われるのです。
私たちキリスト者は、そういう仕方で遣わされ、生かされ、用いられる。あなたがたをこの世に遣わすのは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだと主は言われました。しかし、子羊によって狼の群れを救うような御業を神様はなさるのです。主は私たちを子羊に譬えられました。自分では何の力もないのが子羊です。しかし、子羊には平和を告げる力だけはあるのです。子羊が生かされて生きている、心安んじて生きている。そこに神の平和はあるのです。なぜか? 子羊は羊飼いに守られていることを知っているからです。だから安んじて生きることが出来る。ここに私たちの姿があります。私たちも平和を告げるために、ここから遣わされて行きます。「私はあなたと共にいる」という約束をいただいて行くのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
7月5日(日)のみことば
「私たちを憐れんでください。主よ、私たちを憐れんでください。」(旧約聖書:詩編123編3節)
「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって、今の私があるのです。」(新約聖書:第一コリント書15章9~10節)
パウロは自分のことを「月足らずで生まれた未熟児」に譬えています。これは謙遜が言わせた言葉ではない。パウロは本気でそう思っていたのです。医学が未発達な時代です。月足らずで生まれた子供は、そのほとんどが死んでいたでしょう。少なくとも、生まれた瞬間、周りの人たちは皆「ああ、この子は死ぬ」と思ったに違いない。しかし、人間とは、まさに死ぬ存在ではないでしょうか? その死ぬべき存在が生かされていく。それが本当の人間ではないか? ならば、人はすべて月足らずの赤子ではないか? 死ぬしかない命が選ばれて、救われ、愛されて、生かされる。だから、生かしてくださったお方に感謝して、二度目の人生を生きる。息を吹き返した未熟児のように、命をもう一度受け取りなおして、生きる。それがキリスト者の生き方の真相ではないかとパウロは言うのです。
だから、パウロはここから急に生きなおして生きてきた自分の歩みについて語り始めます。敵であった頃の自分を語り始めるのです。
「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちの無い者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」
値打ちの無い者が、価のある者とされて、もう一度、生かされて生きる。恵みによって生きる。それがキリスト者の生き方です。だから、主の恵みがその人を生かす。生かして生かして、生かし抜くのです。
