「主の憐れみに生かされる」―聖霊降臨節第6主日礼拝―2026年6月28日(日)

聖書:エゼキエル書34章11~15節・マタイによる福音書9章35~38節

説教:佐藤 誠司 牧師

「また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイによる福音書9章36節)

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイによる福音書9章37節)

 

今日はマタイによる福音書の第9章の物語を読みました。これはマタイだけが伝えている物語です。その意味で、大変に貴重な物語なのですが、お読みになって、いかがでしょう。じつに短い。物語と呼ぶのもはばかられるほど短いのです。普通、私たちは物語というと、起承転結の展開があるものと思っています。展開があるから、ハッピーエンドということも起こり得るわけです。

ところが、今日の物語には、そういう意味の展開が無い。動きが全く無いのです。ここにあるのは、動きのある展開ではなく、一枚の静止画です。映画の表現の一つに「インサートショット」という技法があります。動きのある展開の中に、ほんの一瞬、一枚の静止画をインサートする。挿入するのです。それは一秒にも満たない瞬間の映像です。しかし、その小さな映像が全体のイメージを決定づけている。そういう技法に似ていると私は思います。

では、この場面でマタイが選んだインサートショットとは、いったい、何を描いた静止画なのか。皆さんは、どんな絵を想像されるでしょうか。もう瞼に一つの映像が浮かんだという方もあるかもしれません。そう、イエス・キリストの眼差しなのです。マタイは、その有様を次のように語っています。

「また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

ただの眼差しではありません。深い憐れみの眼差しだったのです。「深く憐れまれた」と言われています。この「憐れむ」という言葉は日本語に翻訳する際に、「憐れむ」と訳すよりほかはないのですが、原文のニュアンスは、もっと具体的で強い意味を持っています。「はらわたが痛む」という意味を持つ言葉なのです。そう聞けば、私たちも、なんとなく分かる。とても辛い目に遭っている人を見て、その人に同情すると、自分も辛くなって、「胸が痛む」などと言ったりします。感情移入のあまり、自分のはらわたが疼き、痛む。そういう表現なのです。この言葉は新約聖書の中では大変に重要な言葉で、決定的な場面で登場します。

一つ、例を挙げますと、ルカ福音書の15章に「放蕩息子」の譬え話があります。放蕩に身を持ち崩した息子が、ボロボロの身なりで父のもとに帰って来ます。この息子がまだ遠く離れているのに、父親はいち早く我が子の姿を発見します。あの場面で、父親は「憐れに思って、走り寄った」と書いてあります。あの「憐れに思った」という所に、この「はらわたが痛む」という言葉が使われている。あの父親は父なる神様のことですから、この言葉は神様の深い愛と憐れみを言い表すために用いられていると理解して良いでしょう。そういう深い意味を持つ言葉が、ここに使われていることに、私たちは心を留めたいと思います。「はらわたが痛む」ほど深い憐れみの眼差しを、イエス様は群衆に向けておられるのです。

今日の物語で、私たちの心を捉えるのは、むしろ、主の憐れみの眼差しが群衆に向けられていたということだと思います。群衆というのは、普段、あまり顧みられない存在だと思います。舞台劇などでも、群衆は主役たちの背後に、スポットライトを浴びることもなく、物体のようにたたずんでいる。決して大きな役柄ではないというのが、群衆の群衆たる所以のように思います。ところが、その群衆に、イエス様は眼差しを注いでおられる。しかも、はらわたが疼くほどの深い憐れみの眼差しを向けておられるのです。なぜなのでしょうか。

この群衆は、見どころがある、ほかの連中と違って、なかなか筋が良いと思われたから、目を留められたのでしょうか。そうではないでしょう。このとき、主イエスを取り巻いていた群衆が、取り立てて熱心だったとか、見どころがあったというのでは決してない。知恵があったわけでもない。むしろ、愚かな人々です。「右往左往」という言葉がありますが、世間の声に動かされて、あっちへうろうろ、こっちへうろうろ。イエス様の人気が高いと聞けば、そのあとをついて行く。人気が落ち目になって、時の権力者に捕らえられたと聞けば、さっさと離れて行く。それだけではありません。最後には、律法学者たちの扇動に乗せられて、「十字架につけろ、十字架につけろ」と狂ったように叫んだのです。その意味では、この人々が主イエスを十字架につけたと言っても過言ではない。主イエスはこの人々の愚かさ、醜さをよく知っておられたと思います。それにも拘わらず、この人々に、主イエスは憐れみの眼差しを注いでおられる。しかも、はらわたが疼くほどの深い憐れみの眼差しです。どうしてなのでしょうか。

あまり美しい表現ではありませんが、群衆を表す表現に「その他大勢」という言い方があります。なんとなくユーモラスな表現なので、世間ではよく使われる言葉だと思います。あの「その他」というのは、どういう意味かというと、「眼中にない」という意味です。「その他大勢」というのは眼中にない人々、見るに値しない人々という意味だったのです。こういうところから「目もくれない」という言い方も生まれました。

ところが、イエスというお方は、そういう眼差しを一度たりとも人々に向けたことがない。身勝手な期待をもって追いかけて来る人々にも、手のひらを返したように狂い叫ぶ人々にも、深い憐れみの眼差しを注がれる。主イエスというお方は、群衆の中の「一人」に目を注がれるからです。

こんなお話がありました。12年もの間、出血が止まらない女性が、イエス様が来られると聞きつけて、意を決して家を出た。この病の女性は人前に出ることを律法によって禁じられていたのです。ですから、彼女は人目を忍んで家を出た。見ると、イエス様の周りは、すでに黒山の人だかり。これが彼女には好都合だった。群衆の中に紛れ込むことが出来るからです。彼女は後ろからイエス様に近づいて、あたかも誰かに押されたように見せかけて、主イエスの衣に触れた。すると、出血が止まった。しかし、彼女は主イエスの後ろで身を潜ませています。群衆の中に紛れたままなのです。

ところが、主イエスは、そんな彼女を見いだそうとされる。探しだそうとされるのです。「その他大勢」ではない。眼中にない人々でもない。救いを求める一人の人格として、ご自分の前に置こうとなさる。彼女は、どうしたでしょうか。聖書には「隠しきれないのを知って」と書いてあります。しかし、私は、さらに一歩、踏み込んで、彼女は「もう隠さなくても良いのだ」と悟ったのではないかと思います。だからこそ、この人は立ち上がった。立ち上がって主イエスの前に進み出たのです。どうして、そんなことが出来たのでしょうか。あの眼差しに捉えられたからです。はらわたが疼く憐れみの眼差しに捉えられて、この人は「その他大勢」ではなく、一人の人間として主の前に立ったのです。

ペトロも、そうでした。主イエスが捕らえられたとき、弟子たちは皆、主イエスを捨てて逃げました。ペトロも逃げたのですが、逃げ切れずに、主イエスが連行された大祭司の館まで追って来るのです。しかし、彼は、中庭で大勢の人々が焚火を焚いて、火に当たっている、その中に紛れ込む。なぜでしょうか。群衆の中に紛れ込むことで、彼は初めて心の平安を得たのです。しかし、それはまことの平安ではない。大祭司の女中がペトロを見て「あなたもあの男の弟子だろう」と言います。ペトロは恐怖のあまり、否認する。「私はあの人を知らない」とイエス様のことを否認するのです。そのとき、主イエスは振り向いて、ペトロを見つめられたと書いてあります。この眼差しに捉えられて、ペトロは立ち上がります。立ち上がって、大祭司の中庭を出た。そして、主の言葉を思い出して激しく泣いたと書いてあります。惨めな姿に見えたでしょう。しかし、これがペトロの本来の道だったのです。

このように、主イエスというお方は群衆を「その他大勢」とは見ておられない。眼中にない人々として、見捨てたりはなさらない。一人一人に目を向けて、憐れみの眼差しを注いでおられる。罪の女と呼ばれて、蔑まれている女が、そうでした。主イエスがファリサイ派のシモンの家に招かれたとき、この人は主イエスを愛するあまり、後ろからイエス様に近づいて、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、繰り返し接吻しました。シモンを始めとする人々が皆、軽蔑の目を向けている中で、主イエスだけがこの人に愛の眼差しを注いでおられた。そして、主イエスは、シモンに向かって、こう言われたのです。

「この人を見ないか。」

短い一言です。しかし、まことに鋭い言葉です。あなたはこの人を見ているのかと問うておられるからです。あなたは本当にこの人を見ているのか。あなたは、この人を見ているのではなく、軽蔑の心を向けているだけではないか。主イエスにとって、人を見るというのは、愛と憐れみの眼差しを注ぐことだったのです。それは、今挙げた人たちだけではありません。木に登ったザアカイを見る目も、悲しみながら主のもとを立ち去った青年を見る目も、一人息子を失って悲嘆にくれる母親を見る目も、そうだった。

しかし、ここまでお聞きになって、皆さんの中には、心の中で反論しておられる方もあるかもしれません。これまで牧師が挙げたのは、罪の女にせよ、ペトロにせよ、ザアカイにせよ、言ってみればイエス様好みの愛すべき人物ばかりじゃないか。群衆の中には、そんな人間ばかりではない。中には箸にも棒にもかからない、とんでもない人間もいるに違いない。そんな連中を、イエス様はどう見ておられるのか。

確かにそうでしょう。群衆の中には、マタイたち福音書の編集者が語るのもはばかられるような人物もいたはずです。残忍な人間、冷酷な人間、罪を罪とも思わない人間がいたに違いない。しかし、主イエスの憐れみの眼差しは、そのような人にこそ、向けられていたのではないかと思います。こんな御言葉があります。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

十字架の上で、主イエスがささげられた執り成しの祈りです。この執り成しの声にオーバーラップさせるようにして、ルカは十字架のもとに集まった様々な人々の様子をつぶさに伝えています。十字架の下で、くじを引いて主イエスの服を分け合っている人たちがいます。イエスが神の子かどうか確かめようとして、十字架を見つめる人たちがいる。主イエスを訴えた議員たちがあざ笑って言います。

「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

ローマの兵士たちが十字架に近寄って来て、酸いぶどう酒を突きつけながら、侮辱して言う。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

これらの人々の姿にオーバーラップさせるようにして、主イエスの執り成しの祈りが響いてくる。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

これが群衆に注がれる主イエスの眼差しです。はらわたが疼くような、深い憐れみの眼差しです。さあ、イエス様が言われる「彼ら」とは、いったい誰のことでしょう? 主イエスが身代わりになって背負った罪とは、いったい、誰の罪であったか? 私たちなのです。主イエスは私たちに憐れみの眼差しを注いでおられる。

しかし、主イエスの憐れみは、そこに留まるものではない。主イエスの憐れみは、その背後に大きな決意が秘められている。必ずこの人々を贖い取るという決意が秘められているのです。憐れみと決意が分かちがたく一体となっている。これが主イエスの憐れみの秘密です。この秘密を知ったパウロは、驚天動地の思いをもって、叫ぶように言いました。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた。」

ここでマタイ福音書に戻りましょう。主イエスは群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果てているのを深く憐れんで、こう言われました。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

いかにもイエス様らしい愛と配慮に満ちた言葉です。ここには一つ、約束が秘められています。私は、あなたがたの中から伝道者を起こすという約束です。ペトロたち、既に選ばれた人たちだけではありません。群衆の中から、主イエスは伝道者をお立てになる。主の憐れみと決意が、この日本という国においても伝道者を生み出していきます。そのことを信じて祈っていきましょう。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月28日(日)のみことば

「神である主は人に声をかけて言われた。『どこにいるのか。』」(旧約聖書:創世記3章9節)

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。』」(新約聖書:ルカ福音書19章5節)

今日の御言葉は旧約も新約も共に呼びかけの言葉です。創世記の御言葉は、罪のために神の眼差しを避けて身を隠した人間に投げかけられた神の呼びかけです。「あなたはどこにいるのか」。この問いかけは、確かに人間を求めている言い方です。しかし、捜してはいない言い方です。ですから「どこにいるのか」という言い方は、言い換えると「出て来なさい」という意味合いが強いでしょう。ところが、出て来れないのです。罪の中をさ迷っているから、神の前に出て来ることが出来ない。そんな人間に向かって「どこにいるのか」と問いかけること自体に、限界があるのです。

しかし、主イエスのなさり方は違いました。木の上で身を隠しているザアカイに向かって、「どこにいるのか」などとはおっしゃらない。名前を呼ばれたのです。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

どうして主イエスはザアカイの名前を知っておられたのかと、いぶかる人もあるそうです。理屈でいえば確かにそうです。イエス様がザアカイの名前をあらかじめ知っておられたとは到底考えられませんから、ザアカイの名を呼ばれたのは不自然といえば確かにそうなのです。しかし、ルカが、そういう不自然さを犯してまで、言いたかったのは、もっと大きなことではなかったでしょうか。それは名を呼ぶことの重みです。「あなたは私のもの」という意味が、ここには秘められているのです。