「信仰が生まれる時」―聖霊降臨節第5主日礼拝―2026年6月21日(日)

聖書:箴言3章5~6節・ルカによる福音書8章40~56節

説教:佐藤 誠司 牧師

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカによる福音書8章48節)

「恐れることはない。ただ信じなさい。」(ルカによる福音書8章50節)

 

今日はルカ福音書の第8章が伝える救いの物語を読みました。ここには二人の人物が主イエスの前を交差するような形で登場します。一人は会堂長ヤイロ。彼には12歳になる娘がいるのですが、この娘が病気で、今にも死にそうなのです。会堂長ヤイロは、娘の命を助けてもらいたい一心で主イエスのもとに駆けつけます。

そして、もう一人の人物は名もない女性。彼女は12年もの間、出血が止まらない病に苛まれてきた。その病を癒していただきたい一心で、彼女は主イエスのもとにやって来ます。

さあ、ここまでお聞きになって、皆さん、もうお気づきでしょうか? 会堂長ヤイロも、病気の女性も、共に大変切実な願いをもって主イエスのもとにやって来た。それは確かなのです。しかし、どうでしょう。二人とも、救いを求めてやって来たわけではない。ヤイロは娘の命を助けてもらいたいがため。女性のほうは、病気を癒してもらいたい。その一心でやって来た。二人とも、救いを求めていたわけではないのです。

しかし、私は、今日のお話の冒頭で、「これは救いの物語だ」とハッキリ言いました。どうして、救いを求めてはいなかった二人の物語が、救いの物語になったのでしょう。今日の物語の急所は、おそらく、そこにある。ですから今日は皆さんに、そこのところを心に留めていただいて、この救いの物語を御一緒に味わっていきたいと思うのです。

今日の物語の構造を見ますと、ちょうどサンドイッチのような形になっていることに、皆さん、気付かれたと思います。物語はまずヤイロのお話から始まります。ところが、途中で病気の女性が割り込んで来る。文字通り、割って入って来るのです。この女性の割り込みによって、ヤイロは心ならずも待たされることになる。その間に、女性の病が癒されます。すると、そこへヤイロの娘の死を告げる使いが現れて、ヤイロの物語が再開される、という具合に、女性の物語がヤイロの物語に、ちょうどサンドイッチのように挟まれて語られている。しかも、それが見事なサスペンスを醸し出している。死にそうな娘を抱えるヤイロが待たされるわけですから、ハラハラドキドキする。物語としては大変に手の込んだ作りになっているのです。こんな物語です。

主イエスを乗せた舟がカファルナウムに帰って来ました。主イエスを慕う人々が大勢、船着場に集まっておりました。その人だかりを、掻き分けるようにして現れたのが会堂長ヤイロでした。彼は主イエスを見るなり、その前にひれ伏して、懇願します。瀕死の娘を抱えていたのです。だから、彼は、矢も盾もたまらず、イエス様に助けを求めたのです。

ここで、私たちは、会堂長という彼の仕事について触れておかなければなりません。会堂長といえば、読んで字の如く、ユダヤ教の礼拝堂である会堂を維持管理する務めを担う役職ですが、じつは会堂長が担っていたのはそれだけではありませんでした。会堂長には、安息日の礼拝で律法を解き明かす教師を選ぶ役割も与えられていた。その意味で会堂長は律法の監視役とも言える役目を持っていたのです。もうこの頃にはすでに、主イエスは律法に反する異端者としてユダヤ教当局に警戒されていましたから、律法の監視役の役割を担っていた会堂長ヤイロが主イエスに助けを求めたのは、大いなる決心があったのです。つまり、彼は自分が会堂長の身分であることをかなぐり捨てて、主イエスの前にひれ伏したのです。

ヤイロの必死の懇願に、イエス様は心を動かされ、ヤイロの家に向かわれます。ヤイロが先導して、そのあとをイエス様がついて行かれたのでしょう。二人が進むにつれ、群集もそのあとを追うようにして、ついて行きます。つまり、主イエスの後ろには、多くの人々がいたわけです。

すると、その時、主イエスの後ろからその衣に触れた人物がいた。あの女性です。主イエスの周囲には弟子たちを始め主イエスを慕い求める人という人が黒山の様相を呈しています。これが彼女には好都合だったのです。群集の中の一人に紛れ込んで、後ろから主イエスに近寄り、誰かに押されたかのようにして、主イエスの衣に触れたのです。でも、なぜ、隠れて触わる必要があったのでしょうか。そこには、彼女の病気が、暗い影を落としていました。43節に、こう書いてあります。

「ここに、十二年この方、出血が止まらない女がいた。医者に全財産を使い果たしたが、誰にも治してもらえなかった。」

彼女の病気は、一種の婦人病であったと思われます。この病気にかかった女性は、汚れた存在とされて、人前に出ることが禁じられていました。医者にかかるのにも、顔を隠したまま出かけねばならなかった。医者と言っても、当時の医者は、それこそ祈祷師まがいの医者もいたでしょう。病は癒されることなく、彼女はついに全財産を使い果たした。そんな彼女が主イエスの噂を聞きつける。そして彼女に家を出る決心をさせるのです。おそらく彼女は顔をベールで包み隠して、家を出たことでしょう。

そして彼女は、群集に中に紛れ込んで、後ろからイエス様の衣に触った。すると、どうでしょう。12年間、止まることのなかった出血が止まった。彼女は癒されたのです。しかし、彼女の肉体は確かに癒されはしましたが、救われたとは言い難い。彼女は、うしろからイエス様の服に触った後も、顔を隠していたに違いありません。あわよくば、この場から逃れられれば言うことはない。そんな思いが彼女の胸をかすめたその時、主イエスの声が響きます。

「私に触れたのは誰か。」

鋭い言葉です。おそらく、人々は口々に「自分ではない」と言い合ったことでしょう。すると弟子のペトロがこう言います。

「先生、群集が取り巻いて、ひしめき合っているのです。」

この群集の中で触れた人物を探し出すなんて、先生、そりゃ無理ですよ。ペトロはそう言ったのです。他の弟子たちも同じ思いだったでしょう。ひょっとして、彼らには、早くヤイロの家に行ってあげないと、彼の娘は死んでしまうではないかという思いがあったのかも知れません。ヤイロも気が気でなかったと思います。

ところが、主イエスというお方は、彼らの思いを遥かに超えて行動される。主は群集の中の一人を探し出そうと、辺りを見回しておられる。さながら、百匹の群れの中からいなくなった一匹の羊を探し回る羊飼いのように、探しておられる。長い沈黙が流れたに違いありません。

彼女はついに観念します。もう隠し切れない。しかし、その思いは次第に変化していった。彼女自身も不思議に思うほどの変化・変貌を遂げていったのです。初めは「もう隠し切れない」と思った。それが主イエスの声と言葉を何度も反芻するうちに、変わっていった。もう隠しきれないという思いから、もう隠さなくともよい、という思いへ。このお方の前でなら、隠れる必要はない。自分を隠すことはないのだ。

すると彼女は、自分でも思いもよらない行動に出ました。12年間、人前に出たことのなかった彼女が、自分から進み出た。主イエスの後ろから前へ。主イエスの前に出て、その眼差しに捉えられた時、彼女は、自分が主イエスに触れたこと。触れたらたちどころに癒されたこと。そして生まれて初めて体験した感謝と喜びを、この人は正直に話したのです。なぜ主イエスに近づいたか、なぜ後ろから主イエスの衣に触ったのか。何が自分の身に起こったか。それら一つ一つを、彼女は12年間の闘病の日々を思い起こしながら語ったに違いありません。言葉巧みに語ったのではないでしょう。途切れがちに、不器用に語った。その一言一言を、主イエスは慈しむように、聞いてくださった。そのとき、彼女は主イエスというお方がどういうお方なのか、それを初めて知ったと思います。そして最後に彼女は主イエスの言葉を聞くのです。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

彼女が本当の意味で救われたのは、この言葉を受けしっかりと止めたときです。それは主イエスの前で起こることです。それまで、彼女は主イエスの後ろに隠れていました。主イエスに対する尊敬の思いは人一倍、あったでしょう。しかし、それはあくまで尊敬であって、信仰ではなかった。彼女に信仰が生まれたのは、主イエスの前に出てきてからです。主イエスは目の前にいる彼女の告白の言葉を聞いて、これがあなたの信仰だと言ってくださる。信仰を与えてくださると言っても良いと思います。そして「あなたの信仰があなたを救った」と言って原点を指し示して、そこから送り出してくださる。

しかし、この言葉を聞いたのは、じつは彼女だけではありませんでした。彼女の傍で、主イエスが腰を上げてくれるのを待ちあぐねていたヤイロも、この言葉を聞いていた。そのヤイロの耳に主イエスの言葉が響くその途中で、ヤイロにもう一つの言葉が聞こえてきます。ヤイロの家の者が来て、こう告げたのです。

「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」

娘の死を告げる言葉を聞いて、ヤイロの心は揺らいだに違いありません。しかし、その心の揺らぎの只中に、主の言葉が響きます。

「恐れることはない。ただ信じなさい。」

ヤイロがこの言葉をどう受け止めたかは書いてありません。しかし、彼は自分でも思いもよらない行動に出ます。なんと彼は主イエスを我が家に連れて行くのです。死んで冷たくなった娘が待つ家に帰って行く。主イエスも無言で歩まれる。ヤイロのあとを歩まれる。おそらくヤイロは、主と共に歩んだこの一足一足の歩みを、生涯忘れることはなかったでしょう。ヤイロも主イエスも無言なのです。しかし、無言だからこそ、ヤイロの胸には、先ほど聞いた主の言葉が何度も何度も繰り返し響き渡ったに違いありません。

「恐れることはない。ただ信じなさい。」

家に着くと、家は葬儀の準備に追われている。泣き男や泣き女たちが雇われて来ています。彼らは悲しみを盛り上げるために、派手に泣いています。すると、主イエスは言われる。

「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」

すると、どうでしょう。人々は主イエスをあざ笑ったと書いてあります。しかし、ヤイロは違う。主イエスがお語りになる命の言葉に、彼はすがる。恥も外聞もなく、すがりつくのです。そんな彼に主の言葉が響きます。

「娘よ、起きなさい。」

すると、娘は霊が戻って起き上がったと書いてあります。しかし、起き上がったのは娘だけではない。ヤイロ自身が絶望の淵から起き上がる、主の言葉にすがり切って、起き上がるのです。

さあ、今日の物語は私たちに何を告げるのでしょうか? 皆さんは今日の物語からいったい、どんなメッセージを聞き取られたでしょうか?

私は今改めて思います。この物語に登場するヤイロと女性は、今ここで礼拝をしている私たちの姿と重なってこないでしょうか? 彼らはそれぞれの思いと願いを携えて家を出ました。そして主イエスのもとにたどり着いた。一人は主イエスの前に、一人は主イエスのうしろに、自分を隠して、しかし、ついには一緒に前に出た。そして自分自身を主イエスの前に置いたのです。そして、ヤイロも女も、共に主イエスの前で本当の自分を発見します。主イエスの言葉に押し出され、促されて発見するのです。その言葉が今この礼拝でも響いています。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

この御言葉が私たちの原点です。12年間病の中にあったあの女性も、ヤイロも、自分の力が尽きたとき、せんかた尽きたときに、本当の意味で主イエスと出会いました。そして主イエスに支えられて、あるいは主イエスに伴われて歩みました。そして、これが本当の人生の歩み方なのだと心底分かったのです。私たちも同じです。主が今日の礼拝から始まる1週間の歩みを支えてくださいます。安んじて一歩を踏み出しましょう。

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月21日(日)のみことば

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて苦しめられたのだと。」(旧約聖書:イザヤ書53章4節)

「イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、『まことに、この人は神の子だった』と言った。」(新約聖書:マルコ福音書15章39節)

主イエスの死の有様を見て、百人隊長は「本当に、この人は神の子であった」と言った。これが他の三つの福音書には見られない、マルコ福音書独自の主張です。これは、主イエスが神の子であることと、主イエスが十字架で惨めに死なれたことを結び付けた初めての信仰告白です。主イエスの十字架こそ、私たち罪人の救いなのだと初めて告白したのが百人隊長だったのです。百人隊長の務めとは何か。それは刑の執行は兵隊たちに任せて、刑の執行にまつわる、すべてのことを見届けることです。つまり、主イエスの死の有様を最も近くでつぶさに目撃したのは、この人だったということです。そして、彼は、主イエスの死の有様だけでなく、その背後に隠された真実を見抜いた最初の人になったのです。

マルコ福音書の十字架の物語の特徴とは、どういうことでしょうか。それは、父なる神様がご自分の独り子である主イエスを裁いておられる、見捨てておられる、という、その一点こそマルコ福音書の最大の特徴です。主イエスは父なる神に見捨てられて死なれた。マルコ福音書が伝えているのは、そこです。人間が努力や精進で救われることはない。だから、それとは全く違う方法で救われなければならない。それは、いったい何か? それは、神様が全部それを引き受けて、神様の業によって、そのことを成し遂げる。それしかなかったのです。