「断食しないのはなぜか」―聖霊降臨節第4主日礼拝―2026年6月14日(日)

聖書:エレミヤ書31章31~34節・マタイによる福音書9章14~17節

説教:佐藤 誠司 牧師

「誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ。また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マタイによる福音書9章16~17節)

 

今日読みましたマタイ福音書第9章の14節から17節までの物語は、明らかに先週読んだ物語の続きであると思います。場所も状況も全く同じですし、今日の箇所に記された出来事のきっかけは、先週の箇所の中にあります。ですから、今日の物語を理解するためには、先週の物語のあらましを振り返っておく必要があるかと思います。

マタイという名の徴税人がおりました。徴税人というのは、文字通り、人々から税金を取り立てる人のことですが、これがただの税金ではありません。ユダヤの国を支配しているローマ帝国に納める税金を取り立てる役目です。それをローマ帝国はユダヤ人にやらせたのです。ですから、徴税人は同じユダヤ人でありながら、敵国であるローマのために働いた。ですから、徴税人は同胞であるユダヤの人々から裏切り者扱いを受けて、大変に嫌われました。

その徴税人マタイが収税所に座っているところに、主イエスが来られたのです。徴税人が収税所に座っているなんて、絵に描いたような嫌われ者です。誰もが憎しみと蔑みの視線を向けました。ところが、主イエスだけは違った。このお方が人を捉えるときに、必ず向けられる深い眼差しがある。その眼差しを向けながら、主イエスはたった一言「私に従いなさい」とおっしゃったのです。

すると、マタイは立ち上がって主イエスに従った。徴税人から主イエスの弟子へと生まれ変わったのです。マタイは、そのことを祝う宴会を催しました。この宴には、主イエスと弟子たちが招かれていましたが、他にも、マタイの仲間であった人々、徴税人や罪人と呼ばれた人たちも招かれていました。もちろん、マタイが招いていたのですが、宴が進むうちに、この喜びの宴の本当の主催者が明らかにされていきます。そのきっかけを作ったのは、ファリサイ派の律法学者が弟子たちに言った次の言葉です。彼らはこう言ったのです。

「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人たちと一緒に食事をするのか。」

矛先は弟子たちに向けられたのです。弟子たちは答えに窮したに違いありません。しかし、主イエスが答えてくださった。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

この一言がすべてを明らかにしています。この宴は、マタイが思い立って発案し、主イエスとその弟子たちを招いた宴です。しかし、真の主催者は主イエスだったのです。ところが、ヨハネの弟子たちがこの喜びの宴に異を唱えました。彼らは主イエスに向かってこう言ったのです。

「私たちとファリサイ派の弟子たちはよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

断食についての問答が出て来ました。ここからが今日の物語です。この人たちは何を言いたいのでしょうか? 私たちは熱心に断食をしている。ファリサイ派の弟子たちも熱心さには引けを取らない。しかし、あなたたちは、どうなんだ。断食をしないで、飲み食いばかりしているじゃないか。要するに、不真面目ではないかと彼らは言うのです。

実際、主イエスはあまり断食をなさらなかったようです。誤解の無いよう言い添えておきますが、主イエスも断食を否定なさったわけではないのです。荒れ野で悪魔の誘惑に遭われたとき、主イエスは断食をして空腹を覚えておられた。だから、悪魔は「この石をパンに変えてみたらどうだ」とささやいたのです。

しかし、主イエスは断食という行為が持っている危険性にも気付いておられたと思います。断食というのは、詰まるところ、人間の行為です。しかも、禁欲的な行為ですから、断食をしている人は立派に見えてしまうのです。そこに落とし穴があります。ファリサイ派の人たちなどは、わざと、辛そうな暗い顔をして、今自分が断食をしていることを周りの人たちにアピールしたほどです。確かに断食は立派な行為です。しかし、人間の罪というのは、本当にたちの悪いものでして、えてして立派な行いの中に人間の罪は丸ごと現れてくるものです。自分を偉く見せようとする罪です。主イエスはそれを知っておられるのです。断食は、自分を偉く見せるための、いわば、小道具にされているのです。

しかし、主イエスがあまり断食をなさらなかったのは、そういうマイナーな理由からなのでしょうか? そうではないでしょう。主イエスが断食をあまりなさらなかったその理由は、次の主のお答えの中にある。主イエスはこうお答えになったのです。

「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。しかし、花婿が取り去られる時が来る。その時、彼らは断食することになる。」

花婿とは、いったい誰のことなのでしょうか? 旧約の預言書を見ますと、時に神様が花婿に譬えられていることがあります。しかも、それはご自分の民を心から愛しておられる神であり、その愛は花婿が花嫁を愛するような愛なのです。花嫁を贖い取って、花嫁と一体になろうとする無償の愛です。そういう神の愛を旧約の預言者たちは発見して、神様を花婿に譬えたのです。そして、神ご自身が、やがて花婿としてやって来られるのだと彼らは預言したのです。預言者たちは、いつの日か神が花婿として来られるのだと預言したのです。

預言者たちが仰ぎ見た花婿としての神は、やがてイエス・キリストの中に姿をとって現れます。ご自分の民を命をかけて愛し、贖い取ってくださる花婿として神。それは主イエスご自身にほかなりません。花婿とは、花嫁を娶るものです。娶るとは、どういうことでしょう。そう、一体になることです。一つの体になることです。喜びのうちに、一つの体になるのです。その喜びが婚礼に譬えられているのです。今、すでに婚礼の宴が始まっている。マタイをはじめ多くの徴税人や罪人と呼ばれた人たちが、その喜びを分かち合っている。心躍るような婚礼の喜びが目の前にあるではないか。なのに、どうして、あなたがたはその喜びを見ようとしないのか? どうして婚礼の喜びが見えないのか?

自分にこだわっているからです。婚礼に象徴されるような神と人との新しい関係が始まっているというのに、人々は古い自分にこだわったまま、古い自分にしがみついている。だから、新しい喜びが見えないのだと、主イエスは言われるのです。そこで、ここからイエス様は「新しいもの」と「古いもの」について、一つの譬え話をお語りになります。

「誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ。」

新しい服と古い服の譬えです。主はこの譬えで、何を語っておられるのでしょうか? 服というのは、私たちが着ているものですが、聖書に出て来る服や衣というのは、自分で着るというより、着せてもらうものなのです。

ルカ福音書15章に有名な「放蕩息子」の譬えがありますが、ボロボロの身なりになって帰って来た息子を父親は迎え入れ、真っ先に服を着せてやる。それも真新しい最良の服を着せてやる。あれは父の息子の資格を与えているのです。

とすると、主イエスがおっしゃった「古い服」と「新しい服」とは何のことか? おぼろげながら見えてくるのではないでしょうか? 古い服とは、古い神の民の資格のこと、つまり律法のことなのです。では、新しい服とは何か? もうお解かりのことと思います。キリストの福音なのです。主イエスはさらに譬えをお語りになります。

「また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

これも不思議な譬えです。さあ、新しいぶどう酒とは何のことか? 革袋とは何を表しているのでしょうか? もう気付いておられる方もおられると思います。新しいぶどう酒とは、主イエスがお語りになる御言葉のことなのです。主イエスご自身のことだと理解しても良いと思います。そして御言葉を聞く私たちが革袋に譬えられているのです。私たちは主の御言葉を聞きます。礼拝で聞きますし、日常生活の中でも聖書を通して聞いています。しかし、その聞き方はどうでしょうか?

主がお語りになる御言葉というのは、それまでには無かった、全く新しいものです。私たちの常識を覆すものばかりです。ところが、聞いているほうの心が古いままだったら、どうでしょうか? 自分がそれまで育ってきた常識や本音にしがみついたままで、主の御言葉を聞くことが出来るだろうか? 主の御言葉を聞くというのは、新しく造り変えられる体験をすることです。御言葉によって革袋ごと新しくされるのです。

ところが、私たちは、まことに頑固といいますか、心頑ななところがありますから、おいそれと御言葉を受け入れることが出来ない。新しい御言葉に生きるよりも、古い習慣や常識に執着するほうを選んでしまう。古いぶどう酒というのは、長年慣れ親しんだ習慣や常識、本音のことでしょう。せっかく礼拝で主の御言葉を聞いても、一旦、礼拝から帰れば、古い自分の本音や常識・習慣に逆戻りしてしまう。それでは聞いたことにならないのではないか? 逆に御言葉が聞く人を造り上げていくことが起こらなければならない。徴税人マタイが「私に従いなさい」という御言葉を聞いて、御言葉に突き動かされて立ち上がった。そういうことが起こる。新しいぶどう酒が古い革袋を新しく造り上げるということが、起こるのです。それが御言葉によって新しくされるということです。

今日は旧約のエレミヤ書31章の言葉を読みました。新しい契約がやがて与えられる。エレミヤは国家の滅亡という大惨事の中で、そう預言しているのです。エルサレムを首都とする南ユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされた。エルサレムも陥落した。人々は絶望のどん底に突き落とされた。そのとき、エレミヤは初めて希望を語る。古い出エジプトの契約ではない、新しい契約が与えられる。そのことをエレミヤは預言するのです。

「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」

「来たるべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」

かつての古い律法は石の板に刻まれたけれども、やがて与えられる新しい律法は信じる者一人一人の心に記されるのだとエレミヤは言うのです。御言葉が一人一人の心に記されて、その人を新しく造り上げていく。

エレミヤが預言したことは、600年の時を経て、イエス・キリストによって成就します。神が人となって、花婿としてやって来られる。そして私たちの心に、御言葉を刻みつけるようにして、語りかけてくださる。私たちは主の御言葉を喜んで聞く。その繰り返しによって、主は信じる人を一つにして、群れにしてくださる。それが今の私たちの姿です。だからこそ、教会はキリストの花嫁と呼ばれるのです。だから、私たちは日曜ごとの礼拝を婚礼の喜びをもって祝います。暗い顔をして断食など、しない。花婿と一つとされたことを我が事として喜ぶのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月14日(日)のみことば

「まことに、主は恵み深い。その慈しみはとこしえに。」(旧約聖書:詩編106編1節)

「よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(新約聖書:マルコ福音書14章25節)

「マラナ・タ。主よ、来てください」。聖餐のたびに祈りとしてささげられたこの言葉は、初代教会の人々の自己認識を映し出しています。どういうことかと言いますと、初代教会の人々は、週の初めに聖餐に与りつつ、自分たちが旅人であることを深く認識していたのです。聖餐は主イエスが捕らえられる前の晩に弟子たちと囲まれた、いわゆる「最後の晩餐」の席で主が制定されたものです。あなたがたは私がもう一度来る、そのときまで、これを行えと弟子たちにお命じになったのです。ですから、聖餐そのものに主イエスがもう一度来られるという約束が込められているのです。

神の国で新たに飲む。これが主イエスが弟子たちに約束なさったことです。私は、やがて到来する神の国で、あなたがたと共に食卓に着く。主イエスはそう約束してくださった。そして、その日の来るまで、あなた方はこの地上でこの食卓を守りなさいと命令なさった。それが聖餐です。ですから、今、私たちが毎月守っている聖餐は、二千年前の最後の晩餐と将来の神の国との中間で守られている食卓だと言うことが出来る。過去の最後の晩餐を思い起こしつつ、将来の神の御前での食卓に思いを馳せて守る食卓。過去から将来へ、地上から天へ。想起とあこがれ。この二重の旅路を、自分たちはたどっている。これが初代教会の人々の自己認識だったのです。