聖書:イザヤ書9章1~6節・ヨハネによる福音書1章14~18節

説教:佐藤 誠司 牧師

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1章14節)

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書1章17~18節)

 

アドヴェント・クランツに4本目の灯りが灯って、今日が待降節の第4の主日であることを告げています。こういうものを聖書は「しるし」と呼んでいます。信じる人が見て初めてその意味が分かる、神様からの救いの知らせ。それが「しるし」です。信じていない人が見たら、これはただローソクが4本灯されているだけです。しかし、信じる人が見たならば、これは救い主の到来を告げる、一つの出来事です。最初のクリスマスの夜に、天使が羊飼いに告げ知らせたのも、この「しるし」でした。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これが、あなたがたへのしるしである。」

これが、あなたがたへのしるしだ、と、天使は告げたのです。これは、あなたがたが信じるなら、生き方が変わるよ、と、天使は告げたということです。しるしは、信じる者の生き方を変えるのです。

そのしるしの中で、最も偉大なしるしが、神の御子の受肉です。受肉とは肉体を持って生まれたということ。神様の独り子が肉体を持つ人となって生まれてくださった。これこそ、最大にして最も偉大なしるしであったのだと、ヨハネ福音書は語っております。

今年はクリスマスを祝うに当たって、マタイでもルカでもなく、ヨハネ福音書の御言葉を選びました。ここには三人博士たちも羊飼いたちも出ては来ませんが、より本質的にクリスマスの出来事の秘密を説き明かす、ヨハネ独特の御言葉の躍動があります。ヨハネはここで、感動を込めて、こう語っております。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

これは、平たく言えば、天地の造り主である神様が、私たちと同じ肉体を取って人間になられた、ということです。これを「肉体を受ける」と書いて「受肉」と呼びます。キリスト教独自の言い方です。どうしてそういう独自の言葉が生まれたかと言いますと、これがキリスト教の核心部分だからです。生きている細胞の中心には必ず核というものが存在しますが、同じように生きている福音の核として、神の御子の受肉がある。これが福音の中核をなしているわけです。もちろん、十字架と復活がキリスト教の中心にはなるのですが、しかし、考えてみてください。キリストが肉体を取って来られなかったら、十字架の上で死ぬことはあり得なかった。復活も無かったことになる。ですから、神の子の受肉というのが、キリスト教の最も大事な核、文字通りの中核なのです。

たとえば、キリスト教と同じ一神教と言われるユダヤ教やイスラム教では、神様が肉体を取って人間になったなんてことは言いません。キリスト教だけにある事です。しかし、なぜ、神様が人となることが、私たちの救いのために必要だったのか。これには二つのことが言えると思います。

一つは、私たちの罪の贖いということです。罪の中にあって神様から遠く離れてしまった私たちが神様のもとに帰るためには、どうしても罪を贖わなくてはなりません。旧約聖書を見ますと、例えば、礼拝の冒頭の招きの言葉でよく読まれるイザヤ書43章の初めの言葉。あそこに「私はあなたを贖う」という言葉がありますね。あの言葉は何を言っているかと言うと、人間というものは、こういう贖いによって救われるのだという、救いの筋道を、あの言葉は預言しているのです。

しかし、それは、あくまで預言でありまして、預言というのは、それがいかに深遠な預言であったとしても、それが成就するまでは救いは実現しない。そうでしょう? これは、譬えて言えば、家の設計図のようなものです。設計図というのは、見ればそれがどんな家になるかは分かります。けれども、いかに精密な設計図であっても、それはあくまで絵に描いた図面でありまして、図面の中に住むことは出来ません。その設計図に従って建てられた家が無いと、設計図の意味がなくなります。

旧約聖書に記された、様々な神様のお言葉は、イエス・キリストに於いて実現した、成就したのです。ですから、私たちは、キリストを通して、もう一遍、旧約聖書を読み直したときに初めて、神様が備えておられた大きな恵みを見ることが出来るわけです。

もう一つの訳は、啓示ということです。キリスト教は、よく啓示の宗教だといわれますが、啓示というのは、人間の側の精進・努力によって神を知るのではなく、神様の側からご自身を現してくださった。これを啓示と呼んだのです。本当にこれはその通りでありまして、神様が肉体を取ってご自身を現してくださらなければ、私たちは神様を知ることは出来ない、絶対に出来ないのです。そう聞いて、「そんなことはない。我々は神様を知っている。天地の造り主だと知っているし、全能の神様だと知っている。ちゃんと知っているじゃないか」と、皆さん、そうおっしゃるかも知れません。確かに旧約聖書を読めば、神様について、いろんな知識を得ることは出来ます。しかし、聖書を読んで私たちが知ったという、その神様は、本当に正しい理解でしょうか。いや、私たちの知識で神様を知ることが出来るのだと主張したのが、あのファリサイ派の人たちです。福音書を見ますと、イエス様とファリサイ派の人々の対立が、じつにたくさん出て来ますね。

安息日一つを取ってみても、イエス様とファリサイ派は正反対です。同じ旧約聖書の言葉を聞きながら、ファリサイ派の教えというのは、いつしか自分たちの思いが中心となって、神様の御心から遠く離れてしまっている。ですから、神様ご自身が、私たちにも分かる、肉体をもった人間となって「私の思いはこうなのだ」と言ってくださらないと、私たちは神様の御心は分からない。そういうわけで、神様が肉体を取って人間となって来てくださるということが、私たちの救いにとって、まさにかけがえのないことなのです。そして、ヨハネはこう言っております。

「わたしたちはその栄光を見た。」

神様の栄光を見るとは、どういうことでしょうか。神様が臨在されるところには、厳かな神の権威や力を示す光があります。例えばイザヤ書の第6章を見ますと、青年イザヤが神殿で神様の臨在に触れるという話が出て来ます。しかし、イザヤは、この栄光を見たとき、「災いだ。私は滅びるばかりだ」と言いました。非常に恐れているのです。旧約聖書において神の栄光を見るとうことは、滅びること、恐ろしいことだったのです。

ところが、ここでヨハネは「栄光を見たから、私は死ぬ」というふうには言ってないですね。そればかりか、14節の後半を見ると、こう書いてあります。

「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

神の栄光を見たということは、とりもなおさず、神様の恵みと真理を見たということです。

イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と言われました。これは弟子たちに語られた言葉ではありますが、イエス様ご自身の生き方をそのまま表した言葉でもあります。つまり、イエスというお方は、ただ口先だけで教えられたのではなく、本当にその言葉の通りに生きてこられた、ということです。そして、この生き方が最後に行き着いたのが、十字架の上でささげられた祈りです。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか、知らないのです。」

この十字架を、私たちは見たのです。この「見た」というのは肉眼で見たということではなく、私たちのために起こった出来事だと分かった、ということです。これが、言が肉体となって、その栄光を私たちは見たということです。そして、その栄光は恵みと真理とに満ちていたと言われています。

さあ、恵みとは、どういうことなのか。17節に、こう書いてあります。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」

神様はモーセを通して、人々に律法を与えられました。だから、ユダヤの人々は律法こそ神様の御心だと信じた。そして、律法を忠実に守れば、神様に良しとされる、神様の子供になれると信じたのです。ところが、ヨハネは、そうではないと言っている。私たちの本当の救いは律法を守ることから来るのではなくて、イエス・キリストの恵みと真理とを通して来るのだとヨハネは言うのです。

じゃあ、律法は意味の無いものだったのか、という疑問が起こってきます。この疑問に対して、パウロが明確に答えています。パウロは「律法の役割は、私たち人間をキリストに導く養育係りの役割だったのだ」と述べています。私たちをキリストのところまで連れて行く。そして本当の神の恵みと真理に出会わせる養育係りとしての役目を律法は担ったのだと言うのです。だから、律法は無駄ではなかったとパウロは言うのです。無駄ではなかった。しかし、役目は終わった、というのが、パウロの律法観ですね。だから、パウロはローマ書の第3章20節で、こう言っております。

「なぜなら、律法を実行することによっては誰一人、神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

何を言っているかと言うと、律法を守ろう守ろうと努力すればするほど、守り切れない自分というものがハッキリ見えて来る。その結果、どうなるかと言うと、罪の自覚だけが生じてくる。というわけで、律法によって私たちは、自分がいかに罪深い人間であるかが、嫌と言うほど分かってくる。しかも、真面目にやろうとすればするほど、分かってくるわけですから、これは辛いです。しかし、その辛さや苦しみの中で、私たちは、律法とは全く異なる、神の恵みと真理に導かれて行きます。自分の努力や精進で救いが達成できると思っていた。その思い上がりと言いますか、考え違いが打ち砕かれて、私の中には、もう何も誇るべきものはありません。どうか神様、助けてください、と、そういう空っぽの心になった時に初めて、私たちはイエス・キリストを喜んで受け入れることが出来る。そこまで養育係りとして持って行くのが律法の役目です。ですから、律法からイエス・キリストへという道をたどる人が多かったのです。だから、イエス様は、そんな人たちを招く言葉を語っておられます。マタイ福音書の11章28節です。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

このように、誰もがイエス様のところに行くことが出来る。これは凄いことです。このように、神様が肉体を取って私たちのところに来られた、ということが、私たちの救いを決定付ける、まさに急所になったのです。ヨハネによる福音書と非常に近い関係にあるヨハネの第一の手紙は、はじめのほうで、こう述べています。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち命の言について。」

何を言っているかと言うと、私たちは神様に触ったのだと、そう驚きと感動をもってヨハネは語っているのです。神様が肉体を取って来られたことの恵みを、ヨハネはそう表現したのです。手で触った。なんというリアルな感動でしょうか。私たちの神様は、そういうお方。ただ瞑想して神様のことを考える。そういうことではない。この手が神様に触ったのだと。こういう感動を持って、初代教会の人たちは、キリストの恵みと真理を宣べ伝えていったのです。

しかし、現代に生きる私たちは、どうでしょうか。初代教会の人たちのように、この手で触ったのだというような感動を、私たちは持つことが出来るでしょうか。ああ、2千年前のペトロやヨハネは良いな、直接、イエス様に触れることも、直接、教えを聞くことも出来る。うらやましいなあと。それに比べたら、我々は聖書を読んで、そこからイエス様のお言葉を聞き、お姿を偲ぶことしか出来ないと、そう感じる人は、案外、多いのではないかと思います。

しかし、私たちには、一つの「しるし」が与えられています。今日のお話の最初に、私はこんな話をしました。アドヴェント・クランツに4本目の灯りが灯って、今日が待降節の第4の主日であることを告げている。こういうのが聖書が言う「しるし」です。信じる人が見て初めてその意味が分かる。神様からの救いの知らせ。それが「しるし」です。信じていない人が見たら、これはただローソクが4本灯されているだけです。しかし、信じる人が見たならば、これは救い主の到来を告げる、一つの出来事です。聖餐式がその「しるし」です。信じない人が見れば、これはただのパン切れであり、葡萄ジュースに過ぎません。しかし、信じる者が見れば、私たちが聖餐式で受けるパンはキリストの体であり、葡萄ジュースはキリストの血潮です。イエス様が「これはあなたがたのための私の体である」と言われたからです。「これはあなたがたのために流される私の血だ」と言われたからです。

パウロはこの聖餐をキリストの死を告げ知らせるものだと言いました。キリストが私たちの罪の赦しのために十字架で死なれた。そのことを表すのが聖餐なのだと言いました。キリストが肉体を持って来られたからこそ、キリストは十字架で死ぬことが出来た。その十字架の恵みを私たちに思い起こさせるために、イエス様は聖餐を制定されたのです。確かに私たちは直接、イエス様の体を触ることは出来ません。しかし、「これは私の体である」「これは私の血である」と言われた聖餐のパンと杯を手に受けて、口にすることが出来ます。この聖餐式を通して、私たちは2千年の教会の歴史を遡って、あの最後の晩餐の席に行き着くわけです。「これああなたがたのための私の体である」と、イエス様は言われました。肉体を取って来られた神様が親しくそう言って、託して行かれたパンとぶどう酒を、私たちは今日、手に取って頂くのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

クリスマスの出来事を祝う今日、このヨハネ福音書の御言葉が開かれて、神様の御子が人となってくださった救いの秘密を垣間見ることが出来ました。肉体を取って私たちの救いを成し遂げてくださった神様の恵みと真理を、心に刻み、御名を讃美したいと思います。

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

12月24日(日)のみことば

「あなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」(旧約聖書:ヨシュア記24章23節)

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(新約聖書:ヨハネ福音書1章18節)

ヨハネ福音書は「啓示の書」と呼ばれます。「啓示」というのは、もともと「覆いを取る」という意味がありました。「啓示」は「啓(ひら)き示す」と書くことからも解るように、神を下から(人間の側から)知るのではなく、上から、つまり神ご自身から御自分を現わし示すことを言います。今日の新約の御言葉は、まさにそのことを語っています。

「いまだかつて、神を見た者はいない」と言われています。これは肉眼で神を見た者はいないという意味もありますが、それ以上に「下から(人間の側から)神を知った者はいない」という意味を持っています。「父のふところいる」というのは、場所のことではなく、父と一体不可分の関係にあるという意味です。まさにそれが私たちの主イエス・キリストだったわけです。クリスマスの恵みと喜びが、ここに啓示されています。

皆様、クリスマス、おめでとうございます。