聖書:創世記1章26~31節・ヨハネによる福音書11章38~40節

説教:佐藤 誠司 牧師

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)

「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」(ヨハネによる福音書11章40節)

 

マルコによる福音書を読み終えて、今日から旧約聖書の大事な箇所を少しずつ読み継いでいきます。第1回の今日は創世記第1章の創造物語を読みました。今日は第1章の初めから読むことをしませんでしたが、ずっと初めから見ていきますと、同じ言い回しが出て来ることに気づかれると思います。「神はこれを見て、良しとされた」という言い回しです。この言い回しが6回繰り返されて、締めくくりのように、31節に次の言葉が出て来ます。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

これを読みますと、神様が世界をお造りになるときに、非常に心を込めて造られたのだと、そういう感じが致します。神様は、御自分が造った世界とそこに生きる命をすべて肯定し、祝福しておられるのです。

もちろん、これは、人間がそこに居合わせたわけではありませんから、新聞記者が現場に行って報道するというようなものではない。じつは、これは旧約聖書を書き残した古代イスラエルの人々の信仰の告白なのです。創造物語だけではありません。旧約聖書には39の書物が収められていますが、その中には祭司たちや宮廷の書記官たちが実際に見聞きした様々なことを書き残している部分も多くありますが、しかし、これとても、客観的に第三者として自分の前に起こったことを報道する姿勢ではなくて、ある事柄を語るときに、いつでもそこに、これがどういう神の御心であるかということを問いながら、信仰の告白として書き記している。それが旧約聖書の本質です。

それでは、この創世記第1章の創造物語は、どういう状況の下で書かれたのでしょうか。「神はこれを見て、良しとされた」と繰り返されているのですから、さぞ満たされた順風満帆の中で書かれたと考えるのは当然かもしれません。ところが、20世紀に旧約聖書の研究が進んできて分かったことは、全く逆の意外な真実でした。これが書かれたのは、じつはイスラエルが苦難のどん底にあるときだったのです。

ご存じの方もおられると思いますが、イスラエルの国はソロモン王の息子の時代に南北二つに分かれます。北はイスラエル王国、南はユダ王国と呼ばれました。北イスラエル王国は紀元前721年にアッシリア帝国に滅ぼされます。それから130年ほど経って、南のユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされた。その時の王様は、捕らえられて、目の前で自分の子供たちが殺されるのを見ました。そして両目をえぐり取られて、捕虜としてバビロンに連行されたのです。王だけではありません。国の中心をなしていた主だった人々がすべて捕虜としてバビロンに連れて行かれて、国が全く亡びたのです。これをバビロン捕囚といいますが、これが起こったのが紀元前587年です。このとき、ユダの人々がどれほど深い絶望感に捕らわれたか、それは想像に難くない。

今まで自分たちは、神様の守りというものを信じて生きてきたけれど、こんなに酷い目に遭うということは、どういうことなのか。神はおられないのか。それとも神は我々をお見捨てになったのか。まことの神を信じる我々が、空しい偶像を拝む異教の人々に敗れてしまった。神は怒っておられるのだろうかと、非常に深い信仰の疑惑というものが沸き起こってきたのです。

しかし、これは、ただの絶望ではありませんでした。バビロンに連行されて行った人々の中から、非常に深い悔い改めが生まれて、自分たちが本当に立つべき拠り所は何なのかということを求める思いが起こってきた。そして、その中から、おそらく、これは下級の祭司たちと思われますが、もう一度自分たちの信仰の原点に立ち帰ろうという信仰覚醒運動が起こってきました。そして、自分たちが信じる神とはどういうお方か、という視点に立って書かれたのが、創世記第1章の創造物語だったのです。

このような背景を知って創世記第1章の創造物語を読み直しますと、また違った感慨が生まれてきます。この物語は、詩編のような詩ではありませんが、一読して私たちが感じるのは、そこに独自の張りつめたリズム感と言いますか、詩のような響きがすることだと思います。その響きを作り出しているのが、何度も繰り返される「神はこれを見て、良しとされた」というフレーズです。そして、このフレーズが繰り返された、その最後に「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」という言葉で結ばれている。先にも申し上げたように、国が滅びて、イスラエルの人々がどん底の時に、自分たちが住んでいるこの世界は、神が「良しとされた」世界なのだと。そういう信仰を彼らは告白したのです。これは凄いことだと私は思います。

このバビロン捕囚はイスラエルの人々に甚大な打撃を与えましたから、その痕跡と見られる言葉が、旧約聖書のあちこちに出ております。例えば、私が礼拝で読むことの多いイザヤ書の40章も、やはり同じ時代に、同じ状況の下で書かれています。このイザヤ書40章の26節を見ますと、こういう言葉で語りかけられている。

「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」

私たちは、苦しい目、不幸な目に遭いますと、だんだんうなだれて、下ばっかり見るようになります。自分の暗い思いに囚われて、自分の中に閉じこもる。そういう生活になってしまいます。天を仰ぐことをしなくなる。バビロンに捕虜として連行された人たちも、そうだったのです。そんな人々に、神様は「目を高く上げて天を見なさい」と言われる。今の日本では、星はあまり鮮やかには見えませんが、ユダの地、砂漠地帯では星はきらきらと輝いて見えます。ですから、昔からメソポタミアでは占星術が発達しました。星が非常に鮮やかに見えるからです。その星の輝く天を仰いで見なさい。果てしなく大きなこの世界を、誰が造ったか考えてみなさい。あなたは今、自分の身に起こった不幸に囚われて、うなだれている。自分の小さな世界でものを考えている。しかし、この世界を造ったのは誰か。あなたの人生を支配しているのは誰なのか。もう一度考えてみなさい。もう一度、あなたの信仰の原点に立ち帰りなさい。こうして、ユダヤの人々は遠いバビロンの地で、天を仰ぎ見ることから、造り主である神への信仰を取り戻していきました。そして、その信仰の中身を創造物語として書き記したのです。

また、ユダ王国が滅ぼされて、多くの主だった人々がバビロンに連行される時に、同じ苦しみの中にあった預言者エレミヤが、連行されて行く人々に語った言葉がエレミヤ書の29章11節に残されています。こんな言葉です。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

どん底にある人々に「あなたがたには希望がある」とエレミヤは言うのです。こういう言葉を読むにつけ、イスラエルという民族は、じつに不思議な民族であるとつくずく思います。今もそうですが、一方で目を覆いたくなるような罪を犯して、不信仰なことをしています。けれども、国が滅んだり、行き詰まったりした、どん底の時に、どこからともなく、真の信仰が甦って来るのです。バビロン捕囚という悲惨な出来事の中に、あるいはそれを通って来た人たちの中から、本当に慰めに満ちた言葉が出て来ている。詩編の119編に、次のような言葉があります。

「苦しみに遭ったことは、わたしに良いことです。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」

苦しみに遭うというのは、楽しいことでも、幸せだなあと思わせるものでもありません。また、苦しみそのものに何か偉大な力があるというわけでもないでしょう。誰でも、出来ることなら、苦しみに遭いたくない、というのが正直な気持ちです。

けれども、こういうことって、あるのではないかと思います。もし、あの時、あの苦しみに遭っていなければ、本当の人生に出会ってはいなかったのではないかと、そう実感することは、皆さん、ないでしょうか。繰り返しますが、苦しみそのものに意味があるわけではないのです。しかし、苦しみというのは、私たちを神様に出会わせるお手伝いをしているのではないかと。ですから、苦しみに遭っても神様に出会わない人は、言ってみれば苦しみ損ですね。苦しんだだけで、何にもならなかった。それどころか、苦しみに絶望して、やけくそになる。確かにそういう人もいます。

けれども、苦しみに遭う中で、今までの自分が打ち砕かれて、本当にへりくだって、神様の御心をもう一遍、問う。そういうことが起こってくる。皆さんも、そういう経験があるのではないかと思います。同じ苦しみに遭う経験をしても、人によって様々な実を結ぶわけです。このことを、パウロはコリント教会の人々に宛てた第二の手紙の中で、次のように語っています。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

同じ苦しみや憂いでも、神の御心に適った憂いは、神に立ち帰る悔い改めを生じさせる。しかし、この世の憂いは死をもたらす。本当にそのとおりだと思います。

イスラエルの人々は本当に辛い道を行きました。国が滅ぼされ、家族を失い、捕虜となって異国に連行されて行く。しかし、その悲しみ・苦しみの中で、この人たちは天を仰いで、誰がこれらのものを創造したかを問うことが出来ました。今の私にはすべてが分かるわけではないけれど、確かなことは、この世界は私たちを愛してくださる神がお造りになったもので、その神様が今も私の主だということ。だから、この世界は決して出来損ないの世界ではない。私の人生も出来損ないではない。神様が一つ一つを見て「良し」としてくださった。そして最後にすべてのものをご覧になって、「極めて良かった」と感嘆の声を挙げてくださった。太鼓判を押してくださった。

イスラエルの人々の信仰は、苦しみの中、こうして原点に立ち返りました。それに対して私たちはどうでしょうか。私たちも、この創世記第1章が語りかけてくるメッセージを、本当に耳を澄まして聞きたいと思います。私たち一人一人の人生、本当にいろいろです。昔、「人生いろいろ、牧師もいろいろ」と言われましたが、正直言って、どなたの人生も、問題がいろいろということだと思います。ああ、あれは失敗だったなという人生かもしれません。悲しい人生だったという人もあるでしょう。まさに「人生、いろいろ」です。しかし、それもこれも、すべて、あの御言葉、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」という御言葉の中に包まれている人生です。だから、私たちが、神様を信じて生き始めたならば、そこに私たちが予想もしなかった世界が展開していきます。

今日読んだヨハネ福音書が語っていることですが、弟ラザロが葬られた墓の前で嘆き悲しむ姉のマルタに、主イエスはこう言われました。

「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」

これは、信じるなら、あなたの人生は変わるよ、ということです。神様は聖書を通して、また礼拝を通して、私たちに繰り返し、繰り返し語っておられます。「もし信じるなら、神の栄光を見るであろう」と語っておられる。

ところが、私たちは、厳しい現実に直面しますと、神様の言葉はどこかに飛んでしまって、「もうダメです」と決めつけてしまいます。しかし、そんな時こそ、私たちは、もう一度ひざまずいて祈らなければならない。もうダメだという自分の思いに引きずられて、その惰性で行きますと、もう本当にダメな人生になってしまいます。まさにパウロが言うように「世の憂いは死をもたたす」ということになってしまいます。

私たちは、いつも迷わないで真っすぐに歩んでいるかと言うと、決してそうではないですね。迷いがあり、しょっちゅう神様の言葉を忘れて、ヘンな方向にぶれてしまいます。ユダヤの人々も、そうでした。しかし、もういよいよダメかという時に、彼らは「天地の造り主なる神」に立ち帰った。「目を上げて、天の高きを見よ」という御言葉に立ち帰ったのです。

私たちも迷いに迷うことが、やっぱりある。しかし、「信じるなら、神の栄光を見る」という主の約束の言葉を思い出すと、そこに人間の思いを超えた道が開かれる。「極めて良かった」という道が開けて来る。このことを、私たちは、イスラエルの人々の歩みと信仰の告白から学びたいと思います。

 

 

 

 

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

12月31日(日)のみことば

「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(旧約聖書:エレミヤ書31章34節)

「イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。」(ルカ福音書7章48節)

今日の新約の御言葉は、主イエスの足に香油を塗った罪の女の物語の一節です。主イエスは彼女の行為を愛の行為と呼んで、罪の赦しを宣言しておられます。大事なのは罪の赦しなのです。主イエスを愛する愛の中で起こるのは、罪の赦しであった。そう聞くと、論理的にものを考える人なら、異論を唱えられるかも知れません。罪の赦しが先か、主イエスを愛することが先か。その一点で、この物語には矛盾があるのではないかと、昔から指摘されてきたのです。

主イエスは「多く愛した者は多く赦される」と言われました。愛したから赦されるのか? 赦されたから愛するのか。いったい、どっちなのだというわけです。しかし、そういう考え方は、あまりにも論理的に過ぎると私は思う。卵が先かニワトリが先かと頭をひねるのと似ています。そうではなくて、これは愛の物語なのです。愛というのは理屈ではない。この女は、主イエスを見た瞬間に分かったと思います。ああ、この方は私を受け容れてくださっている。赦してくださっている。私を愛の眼差しの中に入れてくださっている。それが分かったときに、この人は愛せずにはおれなくなった。彼女はそれを無上の喜びとした。ただそれだけです。しかし、この「それだけ」は大きいのです。この愛の物語で一年を締めくくることが出来て、嬉しく思います。皆様、良いお年を。