聖書:エゼキエル書18章30~32節・ヨハネによる福音書21章15~19節

説教:佐藤 誠司 牧師

「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」(ヨハネによる福音書21章17~19節)

 

この朝、私たちは主のご復活を祝うイースターの礼拝を迎えました。ヨハネ福音書からイースターにふさわしい物語を選びました。このヨハネ福音書の21章には、復活された主イエスがガリラヤで弟子たちと一緒に食事をなさった時のことが記されています。食事が終わったとき、主イエスは居住まいを正してペトロの方を向いて、こうおっしゃいました。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

このイエス様の言い方に、注目してください。イエス様はただ「私を愛するか」と問うておられるのではなくて、「この人たち以上に」というふうに、他の人と比較して言っておられる。そんなことは、今までなかったことです。

どうして、こんな言い方をなさったのか。じつは、この言葉は、主イエスが捕らえられる前の晩の出来事と深い関連があります。あの晩、イエス様は弟子たちに御自分の受難を予告されました。すると、ペトロが「他の人たちがつまずいても、私は決してつまずきません」と、他の弟子たちがいる前で公言した。「この人たち以上に」というのは、じつはあの時、ペトロが言ったことなのです。

あの時、ペトロは、どんなことがあっても自分はイエス様を見捨てるようなことはしないと言いましたが、あれは偽りのない言葉であったと思います。実際ペトロは深い尊敬と愛情をもってイエス様に従ってきたわけです。しかし、ペトロがそう言い切った時に、主イエスは「あなたは鶏が鳴く前に、三度、私を知らないと言うだろう」と言われた。これはペトロにとって、大変に心外な言葉であったと思います。しかし、主イエスが捕らえられて大祭司の館の連行されて行った時、ペトロは大祭司の中庭まで様子を伺いに行くのですが、そこで人々に見とがめられて「いや、私はあの人のことは知らない」と三度に渡って主イエスを否認しました。

イエス様の言葉は、この出来事を思い起こさせる言葉です。ペトロにとってみれば、この出来事は本当に触れられたくない問題です。あれほど真実に、イエス様に従おうとしてきた。その思いに嘘偽りはなかったのに、いざ事にぶち当たると、その決心はもろくも崩れて、イエス様を否認してしまった。自分は、なんという不甲斐ない人間なのだろうと、彼は自分に対する不信感を募らせていたと思います。

そのペトロに「あなたは私を愛するか」と問いかけられるというのは、なんだかペトロの心の傷をつつくような感じが致します。しかし、これは、ペトロが立ち直るために、どうしても突破しなければならない一点でした。だからこそ、主イエスは正面切ってペトロに問いかけられたのです。これに対して、ペトロは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。

立派な答えのように思えますが、じつは、ここにペトロの弱さが露呈されています。日本語の聖書では分かりづらいのですが、イエス様が言われた「愛する」という言葉と、ペトロが答えた「愛する」という言葉は、違う言葉なのです。ペトロが言った「愛する」という言葉は、ちょっとくだけたと言いますか、親子、兄弟、友人同士が愛し合う。そういう場面で使うのがふさわしい言葉です。ペトロは、イエス様と同じ言葉で答えることが出来なかったのです。ここに、ペトロの屈折した心の思いが正直に現れています。死んでもあなたに従いますとまで言い切った自分が、あんな惨めなことになってしまった。ですから、イエス様から問われて「はい、私はあなたを愛しています」とは、どうしても答えられないのです。しかし、主イエスを愛しているのは確かだし、その思いだけは、なんとかお伝えしたい。そういう屈折した思いが、あの、ちょっとくだけた「愛する」という言葉になって現れたのでしょう。これに対して、主イエスは「わたしの羊の世話をしなさい」とおっしゃった。

このイエス様のお言葉は、なんだかペトロの答えと関係が無いような感じがしますが、じつは、そうではない。あの大失敗をして、もう自分は弟子の資格すら無いと思っていたペトロに、主イエスは大事な役目を託しておられるのです。

ところが、このイエス様の言葉を聞いたペトロは、何も答えていない。これは不思議です。ペトロは答えることが出来なかったのです。本当にダメになった人間は、こういうとき、どうしても言葉が出てこない。黙っているしかないのです。すると、しばらくして、またイエス様がおっしゃる。

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

主イエスはここで、三度、同じことを尋ねておられるのですが、イエス様の問いかけの言葉には、じつは微妙な違いがあります。三度目に主イエスが「わたしを愛しているか」と言われた時の「愛する」という言葉は、イエス様が最初に「わたしを愛するか」と言われた時の言葉ではありません。ペトロがそれに答えた時に使った、ややくだけた「愛する」という言葉を使っておられるのです。これを聞いたペトロは、いったい、どう思っただろうかと思います。イエス様に三度、同じことを尋ねられた。しかも、最後は、イエス様が求めておられる愛ではなくて、ペトロが「これなら自分にも出来る」と思って答えた、その言葉を使って尋ねておられる。つまり、自分がイエス様に対して抱いている偽りのない愛までが問い直されたのです。これはショックだったと思います。それで、ペトロは大変に悲しみまして、こう答えています。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

辛かったろうと思います。そうしますと、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃった。同じことを三度、繰り返しておられるのです。どうしてか。ペトロは返事が出来なかった。ということは、ペトロは主イエスのお言葉と御心を受け止め切れていない。まだ自分の罪深さにこだわって、どこか躊躇しているのです。イエス様はペトロのそういう思いを見抜いておられたと思います。すぐさま、こう付け加えておられます。

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

何を言っておられるのかというと、ペトロが若い頃には、自分で判断し、自分で決断し、自分で行動した。そういう大変に意欲的な様子が、ここに言われています。ペトロという人は、そういう大変に熱心で積極的な人だったのです。

しかし、年をとってからは、どうか。自分がやってやろうという生き方ではなく、両手を伸ばす。この手を伸ばすというのは、自分の意志や意欲というものを、もはや捨てている。よちよち歩きの幼子が親に向かって手を伸ばすように、どうぞ導いてくださいと手を伸ばしている。そして、自分の意志ではないところに連れて行かれる。これは何を意味しているかと言いますと、ペトロが最後にたどり着く生き方なんです。ペトロという人は、若い頃のような意欲的な生き方ではなく、さんざん失敗をしでかして自分の弱さを知り尽くしたペトロが、それでも生きていく道は、これしかない。主が私を支えて、手をとって導いてくださる。主よ、あなたのお委ねしますという姿です。

本当は、ここで「はい、分かりました」となれば、良かったのですが、そこはペトロのこと。まだひと悶着出て来ます。ペトロはまだ躊躇しているのです。今日読んだ箇所の少しあとですが、ペトロはイエス様が特に愛しておられたもう一人の弟子のことが気になって、「主よ、この人はどうなるのですか」と尋ねている。これは、ペトロの心が揺れている、自信がない証拠ですね。すると、主イエスはペトロの揺れる心を見抜かれたのでしょう。語気を強めて、こうおっしゃいました。

「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

これは厳しい言葉です。しかし、この厳しい言葉が、ペトロにとって本当の救いになりました。他の人はどうであろうと、あなたは私に従って来なさい。これは、信仰というものが、突き詰めていけば、主イエスと私たちとの一対一の関係であることを示しています。

私たちも、そうだと思います。他の人を見ると、いろいろと迷います。自分はダメなじゃないかと思いますし、あの人のようになりたいとも思います。しかし、主イエスは言われる。他の人はどうあろうと、私はあなたに話しかけているのだ。あなたは私に従いなさい。この語りかけの言葉を聞くときに、私たちの信仰は支えを得ることが出来ます。イエス様はペトロ弱さやもろさをすべて承知の上で、「私があなたを選んだ。私はあなたを決して見捨てない」と言われる。

私たちは何か大きな過ちを犯したり失敗をしでかしたりした時、なんとかして自力で立ち直ろうと必死にもがきますし、努力もします。ペトロも、そうだったのでしょう。だからこそ、彼は故郷のガリラヤに帰って、人生を一からやり直そうとしたのです。しかし、やっぱりダメだった。彼がしでかした「裏切り」という失敗は、もう取り返しがつかないものだったのです。しかし、その時に、彼を立ち直らせたものは何であったか。それは主イエスの語りかけだったのです。

私は、このイエス様のなさりようを見ていますと、主イエスがお語りになった「いなくなった一匹の羊」の譬え話を連想します。百匹の羊の世話をしている羊飼いが、たった一匹の羊がいなくなったら、それを見つけ出すまで探し回る。ペトロが、まさしくその一匹だった。彼はもう、主イエスの弟子として生きていく自信を失って、故郷のガリラヤに逃げ帰っていました。望みを失った人間は故郷に帰りたがります。故郷で、傷ついた心を癒したいのです。ペトロも、そうだった。しかし、主イエスはそこまで追って来られる。そして、ペトロの傷ついた心に真正面から語りかけてくださった。この一人の人が滅びるのは父の御心ではないと言って、彼を取り戻してくださる。

その後、ペトロという人は、取り戻された羊としての人生を歩みました。もとより、有能な人ではありません。どちらかというと不器用で、破れの多い人です。そのペトロが、不器用なまま、破れの多いまま、キリストの弟子として、歩みました。かつては、死んでもイエス様にお従いしますと公言して、大失敗をしてしまったペトロですが、そのペトロが、本当に最後まで、死に至るまで、キリストの弟子として身をもって証をすることが出来た。これは彼の力でも手柄でもありません。彼を決して見捨てないで、事あるたびに語りかけ、励ましてくださったイエス・キリストの御業です。そして、ここにキリストを信じる信仰の秘密があるように思うのです。

キリストを信じる信仰生活というのは、教理を学んでそれを信じることも、もちろん大切なことですが、もっと大事なことがあります。それは、復活された主イエスがいつも私たちと共にいて、語りかけ、導いてくださる。そのイエス様との生きた交わりこそが、私たちの信仰の中身です。自分の信仰の力で頑張り抜いて困難を突破していくというのではなくて、本当に不器用で、弱さを抱えたまま、破れの多いままで、イエス様に導いていただく。それがキリストを信じる信仰の本質です。福音書に、ペトロの失敗のお話が多いのは、それらが信仰の本質を突いているからです。

イエス・キリストは弱さの中で語りかけてくださいます。弱さの中で、主の語りかけを聞くことが大事です。そして、弱さの中で主イエス・キリストを見上げるのです。ペトロがそうでした。あのとき、ペトロに向かって「あなたは私を愛するか」と問いかけられた主イエスが、私たちにも同じ問いかけをしておられます。今日は復活祭、イースターの礼拝です。イースターとは文字通り、主の復活を祝う祝祭日ですが、私たちはこれを「主は甦られた」と過去形でお祝いするのではありません。過去のことして祝うのではなく、「主は生きておられる」と現在形で喜び祝う。そのことを心に刻みたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月7日(日)のみことば

「神を畏れる人は皆、聞くがよい。わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。」(旧約聖書:詩編66編16節)

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(フィリピ書1章3節)

ローマ書の最後に、パウロがローマ教会の一人一人の名を挙げて祈るところがあります。今日の新約の御言葉を読んで解ることは、パウロという人は相手の教会のことを祈る時、いつも一人一人の名を呼んで祈っていた、ということです。ですから、ローマ書のあの箇所は、ただ単にローマ教会の人々の名前が羅列されただけの無味乾燥な名簿ではなくて、パウロの祈りの手帳のような趣があるのです。

祈りの手帳に名前が出て来る人々は、ユダヤ人もあれば、ギリシア人やローマ人もいます。また奴隷の身分の者もいますし、逆に主人階級の人もいる。奴隷であったのが解放されたという人もいますし、高貴な身分の人もいます。ところが、どうでしょう。誰一人として肩書が記された人はいません。地上の生活に伴う地位や身分、職業、学歴などは一切書かれていない。書かれているのは、この人々が、いかに福音を喜んで生きたか、その一点だけが記されていると言っても過言ではありません。夫婦であるアキラとプリスカの場合、奥さんのプリスカの名前のほうが先に出て来ております。これが神様の前にある、主の前にある、ということではないかと思います。