聖書:ヨシュア記24章1~20節・ヨハネによる福音書4章22~24節

説教:佐藤 誠司 牧師

「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は、主に仕えます。」(ヨシュア記24章14~15節)

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネによる福音書4章23節)

 

今日は旧約のヨシュア記の24章を読みました。どうしてここを読んだかと言いますと、ここに旧約時代の礼拝の姿が非常に鮮やかに語られていて、それが現代に生きる私たちへの示唆となっているからです。

ずいぶん長い箇所だなあと思われたかもしれません。しかし、それでもまだ足りない。本当はもっと長く読むべきなのかもしれません。なので、お話に入る前に、少し説明をしておきますと、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの人々は、40年をかけて荒野を旅して、やっとヨルダン川を渡るというその時に、モーセが亡くなり、後継者となったのがヨシュアでした。

イスラエルの人々はヨシュアに率いられてヨルダン川を渡ります。こうして彼らは約束の地カナンに入るわけです。このカナンというのは、約束の地と言われているように、かつて神様がイスラエルの人々に「ここをお前たちの土地として与える」と約束してくださった地です。人々は「乳と蜜の流れる地」と呼んで40年の荒野の旅の間、大いに憧れてきた土地です。

ところが、ヨシュアに率いられてカナンに入っては来たのですが、そこには既に先住民がいて、彼らとイスラエルの人々の間に激しい戦いが繰り返されました。その闘いが一段落し、イスラエルの人々の住む所が一応決まった。その時にヨシュアはイスラエルの全会衆をシケムという所に集めまして、いわば最後のお別れの礼拝をした。

なぜお別れなのかと言いますと、これまではヨシュアの指導の下に、彼らは一団となって敵と戦っておりましたが、これからはそれぞれの住む所に散って行くわけです。それぞれ自分の部族の所へ帰って、そこで自分たちの生活を始めなければならない。そういう節目に立っているのです。その時にヨシュアは皆を集めて礼拝をした。それが今日の箇所で言われていることです。ですから、これは、ある意味で特別な礼拝です。しかし、また、ここには礼拝というものが本来持っている大事な要素が、非常に鮮やかに現れていると思います。

まずこの24章をざっと見ておきますと、初めの部分、13節までのところ、ここはアブラハムから今日に至るまでのイスラエルの歴史が語られています。しかもそれは、これこれこういうことがありましたということではなくて、一つの大事なことを言うために、歴史が語られている。ではその一つの大事なこととは何かと言うと、自分たちが今こうしてあるのは、ただただ神様の恵みの御業によるのだと、その一点を語っている。それが大事なことです。なぜでしょうか。

今、イスラエルの人々は、このカナンという新しい土地に入って来て、今まで経験してこなかった新しい生活を始めようとしています。今まではエジプトで奴隷だった。エジプトを脱出してからは荒野の中で放浪の生活をしていました。それが、これからは打って変わって農耕の生活に入ります。これは彼らにとって未知の生活です。何をどうしていけば良いのか、全く分からない。そういう曲がり角に立って、ヨシュアは人々に、自分たちの歴史を振り返りながら確認をさせている。自分たちが今、ここにいて神様を礼拝しているのは、ただただ神の憐れみと恵みによることを確認させているのです。

これは、私たちの礼拝においても、やはり大事なことだと思います。私たちが今、ここで礼拝者として神様を礼拝しているのは、なぜなのか。これは、私たちの熱心な求道心や修行があったからということではない。神様が御自分の独り子を人としてこの世に送り、十字架につけた。そのことによって私たちを贖い取ってくださった。そして福音によって教会を建て上げ、私たちをそこへと招き入れて、礼拝者としてくださった。だから今、私たちは、今、礼拝をしている。十字架を仰ぎ見て、神様を礼拝している。そのことを、この礼拝堂で礼拝をする度に、心の中で確認をする。それが大事です。

次に14節と15節に、ヨシュアが人々に語った言葉がしるされています。彼はこう言ったのです。

「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。」

ここまでは、ヨシュアとイスラエルの人々が置かれた状況を考えますと、なんとなく解るのです。ところが、次の15節は、どうでしょうか。ヨシュアは語気を強めて、こう詰め寄っているのです。

「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は、主に仕えます。」

これは大変な言葉だと思います。今まで、イスラエルの人々が大変な苦労を重ねて、やっとこのカナンの地に足を踏み入れたのは、ただお一人の神様に仕えるためだった。それは明らかなことです。ですから、ここでもし人々が「神様に仕えるのは止めておきます」と言えば、それこそ、これまでの苦労も歩みも水泡に帰する、台なしになってしまうことは明らかです。ですから、ヨシュアに問い詰められて「神様に仕えたくないです」と答える人など、一人もいないことは最初から明らかなのです。しかし、ヨシュアは、そこを承知の上で、敢えて人々に詰め寄った。なぜでしょうか。本音を問うているからです。信仰というのは本音でしなければ意味がないのです。皆がそうするのだったら、私もそうしますというのでは、表面はスムースに行くでしょうが、全く埒が明かない。口先だけの信仰ではダメなのです。だからヨシュアは、人々に信仰の本音を問いただしているわけです。

しかし、なおも疑問は残ります。どうしてヨシュアは人々にこんなにも厳しい二者択一を迫ったのでしょうか。その理由は、イスラエルの人々がこれから始めようとしている農耕生活にあります。イスラエルの人々は農耕生活とは無縁の生き方をしてきました。アブラハム、イサク、ヤコブは移動しながら家畜の群れを養う族長でした。そのあとはエジプトの奴隷生活でしたから、イスラエルの人々は一つ所に定住して農耕生活を営むことには全くの不慣れだったのです。

そこで、どうしたかと言いますと、農耕生活をしていた先住民族のやり方を見様見真似でやるしか道は無かった。ところが、この農耕生活というのが曲者でした。このカナンの地には農耕生活と不可分の異教の神々がいたのです。皆さん、憶えておられるでしょうか。2月の礼拝で、アブラハムが息子イサクにお嫁さんを迎えるお話をしましたが、あのとき、アブラハムはカナンの女と結婚させることだけは許さなかったですね。あれも同じことが関係している。農耕生活の背後には、農耕に豊穣をもたらす偶像の神々がいるのです。

これが現代のことであれば、宗教と生活とが分離していますが、古代社会はそうではない。当時の人たちというのは、生活と宗教が一つ、というより、生活そのものが宗教なのです。旧約聖書を見ますと、あちこちにバアルという偶像の神が出て来ます。農耕や生産の神です。今と違って当時は天候に左右されて、それがいつ飢饉に発展するか分からない。そこで「どうぞ飢饉が起こりませんように、ちゃんと収穫がありますように」とバアルの神を礼拝したのです。

こう考えますと、農業の技術はこう、宗教はこうと、分けることが出来ない。農業の技術を学ぶことは、とりもなおさず、偶像礼拝に身をさらすことだったのです。このことをヨシュアは知っていました。だから、彼は人々に、あんなにも厳しく二者択一を迫ったのです。この問いかけに、イスラエルの人々は、どう答えたでしょうか。16節に、こう書いてあります。

「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。(中略)

わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

大変見事な答えだと思います。ところが、ヨシュアは「それで良い」とは言わなかった。意外にも、彼はこう言うのです。

「あなたたちは主に仕えることが出来ないであろう。」

ヨシュアは知っているのです。目に見えない神様を信じて生きていくことが、どんなに難しい事か。心の中では目に見えない神様を信じていても、目に見える問題が日々迫ってきます。そうしますと、心がそっちに引っ張り込まれていく。そういう人間の弱さをヨシュアは知っているのです。

ところが、それに対して人々は「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と答えて、「わたしたちは互いに証人になります」とまで言い切ります。そこでヨシュアは人々に言います。

「それでは、あなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」

これは驚くべき言葉です。偶像礼拝をしてはいけませんよと言うのではなく、あなたがたは既に偶像礼拝を行っている。その偶像をあなたがたの家から取り除きなさいと言うのです。これに対して、人々は「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」と答えます。

こうして、ヨシュアは人々と契約を結びます。ヨシュアは、この契約の言葉を契約の書に記し、次いで大きな石を取って、主の聖所にあるテレビンの木のもとに立てて、人々に宣言します。

「見よ、この石がわたしたちに対して証拠となる。この石は、わたしたちに語られた主の仰せをことごとく聞いているからである。この石は、あなたたちが神を欺くことのないように、あなたたちに対して証拠となる。」

これがこの礼拝の最後になります。ここまでの礼拝を彼らは守ったのです。ヨシュアは、この礼拝で神の恵みを語ったわけですが、語りっぱなしではないのです。神の恵みを語るところで終わらずに、さらに踏み込んで、あなたがたは今日、本気でこれからの自分の人生を考えなさい、神様を信じて神様にお仕えするか、それとも世の人と同じように生きていくか。今日、ここで決めなさいと、そこまでヨシュアは語っている。信仰の決断を迫っているのです。礼拝というのは、本来、そういうものだったのです。

この決断を迫る部分が、今の私たちの礼拝では「献金」という形で残されています。献金を「感謝のしるし」と呼ぶことは多いと思いますが、じつは献金というのは、それだけではない。「献身のしるし」として行うものだったのです。ヨシュアが人々に決断を迫ったのも、「献身」についてでした。私たちが神様の前に進み出て、神の恵みというものをメッセージを通して心に受け止め、そして最後に「私たちは生ける神に従います」と献身の告白をするのが献金だった。世の人々とは違う生き方を表明するのが献金だったのです。なのに、私たちはどうでしょう。結局、世の人々と同じ考え方で、「まあ、こんなもんで、いいか」という献金になってはいないだろうか。この点を今日の御言葉から示されて、私などは反省させられます。

ヨシュアはイスラエルの人々に、繰り返し「あなたがたは主に仕えることは出来ないであろう」と言いました。私たちにも向けられている厳しい言葉だと思います。ヨシュアが言うように、私たちは、とても礼拝をするにふさわしい人間ではありません。そのことは、正直に認めなければならないでしょう。

しかし、私たちには主イエス・キリストがおられます。ヨシュアが人々に求めたことは、私たちが自分の力や決心でやろうとすれば必ず破れるけれど、主イエス・キリストの導きに身を委ねるならば、おのずと、それは可能になります。イエス様は私たちの未熟な献身の思いを満たしてくださり、ささげものを豊かに用いてくださいます。だから、主イエスはおっしゃいました。

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」

今がその時だと言っておられます。今の私たちの礼拝のことです。私たちはこの方の下で、心安んじて礼拝し、献身の思いを表明することが出来る。心からなるささげものを献身のしるしとして行いたいと思うものです。

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月14日(日)のみことば

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」(旧約聖書:イザヤ書61章1節)

「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(第一コリント書15章2節)

今日の新約の御言葉を見ますと、主イエスを信じて信仰の道に入りながら、福音に留まり得ないで脱落する人たちが少なからずいたことが解ります。パウロはきっと心を痛めていたに違いありません。だからパウロは、そういう人たちがもう一度礼拝に立ち帰ることを願って、信仰の原点を語り直すのです。キリストを信じる信仰というのは、明確な原点を持つ信仰です。しかし、その場合、注意しなければならないことがあります。原点という言葉を、私たちもしばしば使いますが、それは多くの場合、自分の中にある原点のことです。

ところが、パウロが言う原点は違う。パウロの言う信仰の原点は私たちの中には無いのです。私たちの側ではなくて、あくまでキリストの側にある。だから、パウロはローマ書の中で、こう述べています。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた。」

私がキリストと出会ったのが原点ではない。私がキリストの敵であった時に、すでにこのお方は私を選び、愛しておられた。だから、私の原点は私の中には無い。キリストの御業の中にこそ、キリストを信じる信仰の原点はあるのだとパウロは言うのです。