聖書:創世記32章23~33節・使徒言行録24章1~23節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』」(創世記32章25~27節)

「わたしは、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけでわたしは、神に対しても、人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」 (使徒言行録24章14~16節)

 

使徒言行録の続きを読みました。使徒言行録という書物は、どこを切っても聖霊の証印が押されている。そのような書物であると思います。パウロは今、囚われの身となって、裁きを待っています。厳しい出来事が続きます。この物語の、いったい、どこに聖霊の証印が押されていると言うのでしょうか?

そこで、今少し物語を振り返って、パウロの置かれた境遇を説明しますと、これがもう二転三転でありまして、まさに運命に翻弄されているとしか思えない。パウロはエルサレム神殿でユダヤ人の暴動に遭って、神殿冒涜の罪で殺されそうになりました。そのパウロの命を救ったのは、意外にも、ローマ軍の守備隊の千人隊長リシアでした。ところが、隊長が駆けつけたのは暴動の最中でしたから、隊長はなぜパウロが囚われたのかが分かりません。そこで彼は最高法院の議員たちを招集して、パウロと対決させようと試みますが、会議は紛糾し、その混乱の中でリシアは、パウロがローマ帝国の市民権を持っていることを知らされます。これは粗略には扱えないぞと悟った千人隊長リシアは、パウロの身を手厚く保護します。

さあ、ここに奇妙な構図が出来上がります。つまり、ユダヤ人であるパウロがユダヤ人から迫害され、ローマによって保護されるという構図です。復活の主がパウロに語りかけられたのは、その夜のことです。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

一連の逮捕劇の中で、主イエスの言葉が出て来るのは、ここだけです。「あなたはローマでも私のことを証しをしなければならない」と主イエスは言っておられる。これは言い換えますと、「私があなたをローマへ遣わす」ということです。運命に翻弄されてローマへ連行されて行くのではない。まして、ユダヤ人たちの迫害に追いやられるようにして、ローマに逃げて行くのでもない。キリストに遣わされて行く。私は、このときに、パウロの歩みは決まったと思うのです。それまでは、パウロにしても、心のどこかに、自分は運命に翻弄されているのではないか」という疑い迷いがあったと思います。ところが、今や事の真相が分かった。運命に弄ばれて行くのではなくて、主イエスに遣わされてローマに行く。パウロの中から疑い・迷いが消えた瞬間です。

さて、その夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀を企みます。なにせ、パウロの身柄は今や、彼らユダヤ人の手の届かない所にあるのですから、そのパウロを亡き者にするためには、当然のことながら、策を弄さなければなりません。そこで彼らは、計略をめぐらせます。パウロの罪状をもっと詳しく調べることを口実にして、最高法院にもう一度パウロを連れて来るように千人隊長に願い出て、その道の途中でパウロを殺してしまうという計画を立てたのです。

ところが、この陰謀がパウロの甥っ子が聞きつけて、千人隊長の知るところとなって、千人隊長はパウロの身をローマ総督のいるカイサリアに移します。当時、ローマ総督の官邸は、もはやエルサレムではなく、カイサリアに置かれていたのです。もちろん、それは、エルサレムが一触即発の危険な町だったからです。

さて、そこで今日の物語ですが、大祭司アナニアが長老たちを連れて、総督のもとにやって来ます。もちろん。パウロを訴えるためです。自分たちだけでは歯が立たないので、訴訟の専門家を連れて来ました。テルティロというローマ風の名を持つ弁護士です。おそらく、テルティロという名前は彼の本名ではなく、ローマ人を相手にする訴訟や交渉を有利に進めるための、いわば職業名であったと思われます。そのテルティロがパウロを告発します。

「フェリクス閣下、閣下のお陰で、わたしどもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。わたしどもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて賞賛申し上げ、また心から感謝している次第です。さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレの分派』の首謀者であります。」

いかがでしょうか? これはもう、一読するだけでお解かりのことと思います。お世辞とお追従なのです。上目遣いに話すその様子が目に浮かぶようです。言葉の上辺は丁重ではありますが、下心が見え見えの卑屈さがある。要するに下品なんです。これに対して、パウロの発言は、どうでしょうか? パウロは総督に促されて、こう語っています。

「わたしは、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけでわたしは、神に対しても、人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」

いかがでしょうか? 先ほどのテルティロの言葉と全然違う響きがするのを、皆さん、お感じになったことと思います。いったい、どこが違うのでしょうか? 言葉遣いが違うのでしょうか? 確かに、卑屈な言葉遣いのテルティロに対して、パウロの言葉遣いには卑屈さが微塵もありません。しかし、言葉遣いというのは、所詮は上辺のことです。もっと根本的な違いが、この二人にはあるのではないでしょうか?

見ているところが違うのです。先ほど、上目遣いという言葉を使いましたが、テルティロの目は、まさに上目遣いに、総督フェリクスに注がれています。総督しか見ていないと言っても良いでしょう。しかし、パウロの眼差しは、どこに注がれているでしょうか? 総督でしょうか? テルティロでしょうか? 違います。もう皆さん、お解かりだと思います。神様を見ているんです。パウロの目は、神様に注がれている。そう聞いて、神様が目に見えるかと思われたかも知れません。確かに神様は、この肉体の目では見えません。しかし、パウロは手紙の中で、こう言っております。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

第二コリント4章18節の言葉です。そしてパウロは、ここのすぐあとにも、こう述べています。

「わたしたちは、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」

見えるものによらないで、信仰によって歩む。それこそが、神様を見上げる、イエス・キリストを見上げるということでしょう? 今のパウロの置かれた状況は、どうでしょう。これはもう絶望的な状況です。なにせ、自分を訴える人たちと、自分を裁く人に挟まれているのですから、これはあまり心地よい状況とは言えません。しかし、これは何もパウロだけの話ではないと私は思います。私たちだって、そういう状況に置かれることは、ありますね。自分を訴える人がいる。反対側には、自分を裁く人がいる。家族や親族の中で、あるいは職場や学びの場でだって、あるかも知れません。しかし、肝心なのは、そのときに、どこを見ているかです。さらに言うなら、いったい、どなたを見上げて立つかということです。パウロは今、キリストを見上げている。神様を仰ぎ見ている。だから、パウロの言葉はテルティロの言葉と全然違う。パウロは言いました。

「こういうわけでわたしは、神に対しても、人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」

じつに堂々として、安心感に満ちた言葉であると思います。自分を訴える人と自分を裁く人に挟まれて、どうしてこのような言葉を口にすることが出来るのでしょうか? これはパウロの中から出て来た言葉ではないからです。では、この言葉は、どこから与えられたものなのでしょうか? 主イエスのお言葉が思い起こされます。

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

はじめに私は、「今日の物語のいったいどこに聖霊の証印が押されているのか」と申し上げました。ここだったのです。特にヨハネ福音書が言うことですが、聖霊には「パラクレートス・傍らに立つ者」という意味があります。どういうことかと言いますと、これは裁判の法廷のことなのです。あなたがたが被告人として一人、法廷に立たされる時が来る。しかし、そのとき、あなたがたは一人ではない。聖霊があなたがたの傍らに立って、必要な言葉を与えてくれる。インマヌエル、神が私たちと共におられる。それが聖霊が指し示す真理です。神の真理です。その真理を、はたして、人が裁けるでしょうか?

今日は創世記第32章のヤコブの物語を読みました。私たちは、ここからも聖霊の証印を読み取ることが出来るのではないかと思うのです。聖霊が指し示す真理。それは神様が共にいてくださるということです。ヤコブの場合も同じです。ヤコブという名前は「人を押しのける者」という意味です。双子のお兄さんのエサウを押しのけるようにして生まれたからです。その名のとおりの人生をヤコブは歩みました。お父さんを騙し、お兄さんを出し抜いて、長男の権利を手に入れました。お兄さんは怒り狂って、ヤコブを殺そうとします。ヤコブは逃げて、荒野を放浪します。しかし、この荒野で、ヤコブは決定的な経験をします。神様が彼に「私はあなたを決して見捨てない。私は必ずあなたと共にいる」と約束してくださったのです。

ところが、私はこういうところがヤコブの面白いところだと思うのですが、神様の約束を聞いた後、ヤコブという人が、人を騙したり、ずるい策略を使ったりしなくなったかというと、そうではない。しっかり叔父さんを騙してます。また叔父さんからも騙されています。そういうことを、相変わらず、やっている。それから、彼は、神様から示されて、故郷に帰ろうとします。ところが、大問題があります。かつて、自分が騙したお兄さんと会わなければならない。もうここだけは、ヤコブがどうしても避けて通れない人生の関門ですね。

そのときに彼が何をしたかというと、神様がベエルシェバに帰れとおっしゃるのだから、もうすべてを神様に委ねて信仰的に行動したかというと、そうではないのです。お兄さんのところに、これからヤコブは帰りますという使いをやったところ、そのお兄さんが400人を連れて迎えに来ると言うのです。ビックリ仰天です。400人も連れて来るからには、きっとお兄さんは自分に仕返しするつもりに違いないと。人間、心にやましい事があると、ろくなことを思わないですね。別に、仕返しするなんて、お兄さん、一言も言ってないのです。そこでヤコブは計略をめぐらせます。彼は家族と財産を二つに分けて、こっちがやられたら、その隙に、あっちへ逃げようと考えます。

しかし、それなら普通の人間と同じ策略だけかというと、そうではない。32章の10節を見ますと、ヤコブは神様に祈ってるんです。「神様、私はかつて、杖一本だけでヨルダンを渡りました。それが今、大きな恵みを与えられています。これは皆、神様の恵みです」と言って、祈るのです。そして「自分はお兄さんに会わなければならない。殺されるかも知れません。どうか助けてください」と祈る。ここがヤコブの凄いところです。片方では、こっちがやられたら、あっちに逃げるなんて策をめぐらせながら、もう一方で神様に祈っているのです。で、ヤコブがこの祈りの中で、まずしたことは何かというと、「神様、あなたの恵みを感謝します」と、神様が今日までいかに守り導いて祝福してくださったかということをまず確認をして、その恵みの神様に向かって今の悩みを打ち明けているのです。私はこれは凄いことだなと思います。

ところが、その後がまた振るっている。またまた人間的な策をめぐらすのです。エサウの怒りを宥めるために、どっさりお土産を用意したのです。しかも、そのお土産の行列を、一度に出さないで、少しずつ、間をおいて、出していく。そしてエサウがそのお土産の行列を見て心和む頃に、最後に自分が登場する。なんだか大名行列みたいなことを考えるのです。

ところが、その後です。家族も家畜も皆、ヤボクの渡しを渡った。最後にヤコブ一人が残ります。この川を渡れば、そこは故郷です。しかし、どうしても渡れない。お祈りもした。八方、手を尽くした。やるだけのことはやったのです。しかし、ヤコブの心に残るのは不安です。エサウの所に行って良いのだろうか、神様は行けと言われた。しかし、行ったら皆殺しにされるのではないか。この不安がどうしても退かないのです。そこで、彼は、この川原にひざまずいて祈るのです。ただ、ここを読む時、よくヤコブを祈りの模範のように読む人がありますが、私はそうは読めないと思う。ヤコブの不安、心配が本当に深かったのです。祈っても祈っても不安が消えない。しかし、祈らずにはおれない。そういう時、彼は夜を徹して祈ったのです。それがこの神の使いとの格闘の意味です。で、何を祈ったかというと、「神様、祝福の言葉をお与えください」と、もうそれしか無いでしょう。かつて、ヤコブは荒野で神様の祝福の言葉を聞きました。そして彼は新しい人生に踏み込んだのです。けれども、それで良かった良かったではない。やっぱり不安が起こってくる。今ここで自分を押しつぶそうとしているこの不安、これは今ここで神様が祝福の言葉をかけてくださらなければ、どうにもなりません、だから、どうか御言葉をください。どうか祝福の言葉をくださいと、そう言って必死に求めているのが、この物語なのです。

このヤコブの姿を見る時、私たちは、ここに信仰生活の生の姿というものを見るのではないでしょうか。これは決して模範的な姿ではない。けれども、ありのままに、疑ったり悩んだり、また祈ったり、策を弄したり、そうやってあがいている、ありのままのヤコブを、神様は決して見捨てず、ヤコブの傍らから離れない。神が共にいてくださる。これが聖霊が指し示す神の真理です。だから、切羽詰ったとき、ヤコブは神様の御言葉を求めました。御言葉を求めて祈ることが出来る。これは信仰者だけに与えられている特別の恵みです。だから、パウロは「神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」と言いました。ヤコブは「あなたが祝福してくださるまで、私はあなたを離しません」と言いました。二人とも、神が共いてくださることを驚きをもって知った人たちです。そして、その仲間に、私たちも今、入れられている。聖霊の証印を鮮やかに押されて、入れられているのです。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com