聖書:詩編23編1~6節・使徒言行録23章12~35節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」(詩編23編3~4節)

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 (使徒言行録23章11節)

 

使徒言行録の終わりのほう、特にパウロが捕らえられてローマに護送されていくあたりを読んでいますと、はたしてこれが聖書なのかしらと思えるくらい、神様のことが出て来ない。今日の個所も、その一つです。ずいぶん長い個所なのですが、どうでしょう。ここには人の思惑だけが前面に出ていて、神様の言葉が一つも出て来ておりません。イエス様の言葉もありません。

こういう箇所を礼拝で読むのは、どうでしょう。正直いうと、しんどいですね。六日の間働いて、やっとの思いで日曜日、礼拝に来ることが出来た。さあ、今日はどんな御言葉が開かれることかと、ときめく思いで聖書を開いたら、パウロを亡き者にする陰謀と、パウロの運命を二転三転させる計画だけが事細かに書かれている。これでは約束が違うではないかと、食ってかかりたくもなります。

しかし、果たして、そうなのでしょうか? 確かに、ここには神様の言葉も、主イエスの言葉も出ては来ません。出て来るのは人の思惑と企てばかりのように見えます。しかし、人の思惑や企てさえも用いて、生きて働いておられるのは、どなたなのか? 人の思惑の只中に現されていくのは、どなたの御心なのか? そこにまで思いを馳せなければ、今日の個所を福音の物語として読み取ることは出来ないのではないかと思います。

そこで、先週読んだ箇所の最後のところを今少し振り返って、そこから今日の物語へと入って行きたいと思います。エルサレム神殿でユダヤ人の暴動に遭って捕らえられたパウロ。彼の身柄は今、ローマ守備隊の手に握られています。しかし、その夜、復活の主イエスがパウロのそばに立って、こうおっしゃったのです。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

この言葉がこれ以降のパウロを、死に至るまで支えていくことになります。「エルサレムで証しをしたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われております。「証し」という言葉は、今ではすっかり教会の専門用語になっていますから、パウロはローマでもイエス様との出会いをお話しするのかなあと、漫然と思ってしまいますが、じつは当時の「証し」という言葉は法廷用語でした。つまり、裁判の専門用語だったのです。イエス様はそういう言葉を使われた。ということは、どうですか? イエス様は、パウロにこう言っておられるということでしょう? あなたはローマでも裁きの座に立たされる。しかし、あなたはそこで自己の弁明ではなく、私から受けた恵みを恐れずに語りなさい。勇気を出しなさい。

さあ、勇気って、何でしょうか? 勇気という言葉は日本語でも普通に使います。新聞などの見出しに「勇気ある行動」などと大きく出たりします。でも、日本語の「勇気」と聖書が言う「勇気」は同じなのでしょうか? 試しに広辞苑を引いて日本語の「勇気」の意味を見ますと「勇ましい意気、物に恐れない気概」と書いてありました。つまり、日本語の「勇気」とは、勇ましい心、恐れない心のことなのです。確かにこれも大事なことです。

しかし、どうでしょうか? 勇ましいとか、恐れないというのは、どちらかと言えば、目に見えることです。「ああ、あの人は勇ましいなあ」とか、「あの人は何者も恐れない人だなあ」とか、いずれも見て分かることです。ところが、聖書のメッセージというのは、そういう目に見えるところに転がっているのではないのです。だから、パウロは「私たちは見えないものに目を注ぐ」と言ったでしょう? 今日の物語も、そうです。目に見える所ばかり追っていると、もうこれは人の思惑ばかりが語られているように思えてしまいます。見えないものに目を注ぐことが大切です。では、聖書が語る「勇気」、目に見えない「勇気」とは、どういうことなのか? 今日はそこら辺りを取っ掛かりにして、ご一緒に物語に入っていきたいと思います。

エルサレム神殿でユダヤ人の暴動に遭って殺されそうになったパウロの命を救ったのは、意外なことに、ローマ帝国の守備隊でした。その守備隊の隊長が千人隊長クラウディウス・リシアです。リシアはパウロがなぜ、かくも激しくユダヤ人から訴えられるのかを解明しようと、最高法院を召集しますが、会議は混乱し、その混乱の中でリシアは、パウロがローマ帝国の市民権を持っていることを知らされます。これは粗略には扱えないと悟った千人隊長リシアは、パウロの身を保護します。ここに奇妙な構図が出来上がります。つまり、ユダヤ人であるパウロがユダヤ人から迫害され、ローマによって保護されるという構図です。復活の主がパウロに語りかけられたのは、その夜のことです。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

一連の逮捕劇の中で、主イエスの言葉が出て来るのは、ここだけです。「あなたはローマでも私のことを証しをしなければならない」と主イエスは言っておられる。これは言い換えますと、「私があなたをローマへ遣わす」ということです。運命に翻弄されてローマへ行くのではない。まして、ユダヤ人たちの迫害に追いやられるようにして、ローマに行くのでもない。キリストに遣わされて行く。私は、このとき、パウロの歩みは決まったと思うのです。

さて、その夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀を企みます。なにせ、パウロの身柄は今や、彼らユダヤ人の手の届かない所にあるのですから、そのパウロを亡き者にするためには、当然のことながら、策を弄さなければならない。そこで彼らは夜明けと共に活動を開始します。集まったのは、40人以上。この人々が祭司長や長老たちの所へ行き、その決意のほどを告げます。

「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。」

いかがでしょうか。パウロを殺すまでは飲食を一切断つというのです。これはユダヤの人々の誓願のやり方なのです。例えば、ナジル人の誓願というのがあります。誓願を立てて、その誓願の期間が明けるまで酒を一切飲まず、また髪の毛を剃らないのです。有名なサムソンの物語に出て来ます。そんなふうに誓願のためには何かを断つわけですが、パウロを亡き者にしようと企むユダヤ人たちは飲食を断った。そして、パウロの罪状をもっと詳しく調べることを口実にして、最高法院にもう一度パウロを連れて来るように千人隊長に願い出て、その道の途中でパウロを殺してしまうという計画を立てたのです。

ところが、この陰謀がパウロの従弟が聞きつけて、兵営の中にいるパウロに告げた。でも、どうしてこの水も漏らさぬ陰謀がばれたかと言うと、彼らは誓願を立てたわけです。ところが、ユダヤの人々は誓願を立てるとき、その誓願の内容を声に出して言うのです。それをパウロの従弟が聞きつけたわけです。なんとも間の抜けた話ですが、人間のやることというのは、案外、そういう抜けたところがあるのでしょう。その間の抜けた隙間に、神様の御業が働いて、事を思わぬ方向へと導いていく。そういうものかも知れません。

さて、パウロは従弟から人々の陰謀を聞くと、守備隊のリーダーである千人隊長にそれを知らせて陰謀を未然に防ぐわけですが、驚いたのはそのやり方です。パウロは未決の囚人のはずなのに、百人隊長を呼びつけて、千人隊長に取り次がせるのです。そして、パウロのこの願いはすぐに叶えられたばかりでなく、千人隊長はパウロの従弟の手を取って人のいない所に連れて行ったというのです。これは未決囚の扱いとしては異例中の異例です。おそらくこの背後にはパウロが生まれながらのローマ市民だということがあるのでしょう。

さて、23節からは、またまた異例の扱いが描かれて行きます。ユダヤ人たちの陰謀を知った千人隊長リシアは、その夜のうちに行動に出ます。なんと彼はユダヤ人の陰謀からパウロを守るために、歩兵200人、騎兵70人、補助兵200人を立てて、パウロを総督のいるカイサリアまで護送しようとするのです。しかも、パウロには馬を用意させています。

注目すべきは26節から記されている千人隊長の手紙です。この手紙は千人隊長リシアがローマのユダヤ総督フェリクスに宛てた手紙ですが、手紙の中身がそのまま出て来るという描き方は、いかにもルカらしい文学的な描写です。こういう描写は聖書というより小説に近いと思います。当時だって、疑問に思う人はいたと思います。どうしてルカは千人隊長が書いた手紙の内容を知ることが出来たのか? 当の本人のルカだって、ここはちょっとやり過ぎかなと思ったかも知れません。しかし、ルカには、無理を承知の上で、描いておかなければならないことがあったのでしょう。それは、いったい、どういうことなのか?

それは手紙の中身を見れば、分かります。ここらあたり、なんだか、わくわくします。人の手紙の中身を読むのですから、わくわくするわけです。そして、読んでいるうちに、「ああ、この人、どういうつもりで、こんなこと書いたのだろう」と、想像力を働かせます。じつは、ここも、そういう狙いがあって、ルカはその狙いの故に、無理を承知で手紙の中身を明かすという描き方をしているのです。

さあ、手紙をよく読んで気付かれることは無いでしょうか? ここには、パウロがユダヤ人の暴動に遭って捕らえられたこと、それをリシアが冷静に判断してパウロを暴徒から引き離し、パウロがローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったので、あくまでローマ市民としてパウロを丁重に取り扱ったことが整然と記されています。

しかし、本当に、そうだったでしょうか? 実際の顛末が22章の22節以下に記されていました。それによりますと、千人隊長リシアは、パウロを鞭で打って、取調べをしようとしたことが分かります。鞭打ちのために、百人隊長がパウロの両手を縛り上げたそのときに、パウロが百人隊長に「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にもかけずに鞭で打って良いのか」と詰め寄ったのです。そして、それを百人隊長から聞いた千人隊長は、かなりビビッているのです。こう書いてありました。

「そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。」

いかがでしょうか? これが実際の事だったのです。これを見ますと、千人隊長の手紙が、いかに自己正当化しているかが分かります。手紙には、パウロを鞭打とうとしたことなど一切書かれていませんし、逆に千人隊長がいかに丁重にパウロをローマ市民として遇したかが言葉を尽くして書かれていました。ここにも、人の思惑が働いているのです。千人隊長は、いかに自分がローマ法に従って正しく判断し、行動したかを詳細にしたためることによって、上司である総督に取り入っているのです。そういう姿をあらわに現すために、ルカは敢えて、展開の無理を承知で、手紙の中身をリークしたのではないかと思います。

しかし、どうでしょうか? 一見、人の思惑のみが働いているかに見えるこの動きの中に、その思惑の破綻を縫うようにして、神様の御心、主の導きが現れてはいないでしょうか? パウロは、結局、千人隊長の立身出世を賭けた手紙によって、このあと、ローマ帝国市民として遇されて、ローマ市民の未決囚としてローマ入りを果たすのです。これは、ローマで語る権利を得たということです。

いかがでしょうか? 確かに今日の個所は、人の思惑のみが出て来ておりました。ユダヤ人の陰謀があり、千人隊長の思惑がありました。いずれも、巧みに練られたものとは言い難い。愚かな思惑です。破れ目がある。ほころび目があるのです。しかし、その破れ目から、光がまぶしく闇を照らすように神様の御心が、全体を一つの方向へと導いているのではないかと私は思うのです。そして、これが案外、私たちの日常生活と似ているのではないかと思う。私たちも日常の生活の中で、様々に思惑をめぐらせます。あれやこれやと、人間的な思いをたくましくさせ、一喜一憂、振り返りますと、ずいぶんと愚かなことまで大真面目に考えている。破れ目は多いのです。しかし、その破れ目から、神様の御心が現れて、私たちの歩みが、一つの方向へと導かれていることに、改めて気付く。そういうことは多いのではないでしょうか?

私はパウロだって同じだったのではないかと思います。先週読んだ箇所ですが、最高法院で尋問を受けたとき、パウロは最高法院の構成メンバーが復活を信じるファリサイ派と復活を否定するサドカイ派に分かれているのを見て取って、ある作戦に出ました。そしてその作戦は見事に効を奏したかに見えました。しかし、それすら、詰まるところ、所詮は、人の思惑だったのではないでしょうか? その証拠に、その夜、復活のイエス様がパウロのそばに立って、こう言われました。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

証しを語れと主は言われるのです。これは裏を返せば、策を弄するな、ということです。ただ受けた恵みだけを語りなさい。私があなたを遣わすのだと、主イエスは、そう言われるのです。その根拠になっているのが、一番初めに述べられている「勇気を出せ」という言葉です。さあ、勇気って、何なのでしょうか? 初めにお話したように、聖書が語る「勇気」は、日本語の「勇気」と似ているようで、少し違う。日本語の「勇気」が「勇ましい心」「恐れない心」という、目に見えることを指すのに対して、聖書が言う「勇気」は目に見えない真実を語る。さあ、目に見えない真実とは、どういうことなのでしょう。じつは、この「勇気を出せ」という言葉は、主イエスがしばしば弟子たちにお語りになった言葉です。最も有名なのは、おそらく、ヨハネ福音書16章33節の主イエスのお言葉でしょう。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

聖書が語る「勇気」という言葉には、もう一つの意味があります。それは「安心」という意味なのです。「しかし、安心しなさい。私は既に世に勝っている」と主イエスはおっしゃったのです。そして、この「勇気」「安心」という言葉が出て来る場面が、もう一つあります。それはマタイ福音書14章の22節以下。湖の上をイエス様が歩いて、弟子たちの船に近づいて行かれる物語があります。弟子たちが恐怖に捕らわれて幽霊だと叫んだその瞬間、主がこう言われます。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

勇気、安心の根拠が、ここに示されています。「私があなたと共にいる」。これが勇気と安心の根拠なのです。今日は詩編の23編の御言葉を読みましたが、あそこに示されているのが、紛れも無く、神が共にいてくださることによる勇気であり、安心であることが分かります。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」

パウロが今、抱いている安心と勇気は、ここが源泉だったのです。人の思惑のみが大手を振ってまかり通っているような今の世の中にあっても、この真実は変わることはない。主が共にいてくださる。導いてくださる。この目に見えない真実に、身を委ねて歩む者でありたいと思います。

 

トルコ桔梗とけいとう 

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