聖書:創世記12章1~4節・ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12章1~4節)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ人への手紙11章13~16節)

 

キリスト教は、もちろんキリストを救い主と信じる宗教ですが、突然、キリストだけから始まったというものではありません。使徒言行録などを読みますと、初代教会の人々はキリストの福音を宣べ伝える時、いつでも旧約聖書との関わりの中で考えていたことが解ります。

新約聖書のいちばん初めにマタイによる福音書がありますが、あの福音書はその冒頭に系図が書かれています。カタカナの名前がたくさん出て来て、まことにややこしいのですが、あの系図の最初のほうを見ますと「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書いてあります。アブラハムにはテラというお父さんがいましたし、テラにもお父さんがいたのですが、イエス・キリストの系図を言う場合には、アブラハムから始まっている。これはどういうことかと言いますと、イエス・キリストというお方は、アブラハムに始まったものを完成なさったお方なのだという意味を持っているのです。

今日は創世記12章のアブラハムの出発の物語を読みました。たった4節から成る短い物語ですが、ここには旧約聖書の核となる大事なことが書かれています。そればかりか、この御言葉は旧約聖書から新約聖書へと跳躍して行く、ジャンピングボードのような御言葉であると思います。1節を見ますと、こう書いてあります。

「主はアブラムに言われた。」

まことに唐突な書き方です。突然の出来事だったのです。アブラムと言われています。これが彼のもともとの名前ですが、後になってアブラハムという名前にしなさいと神様が言われたのです。

神がアブラハムに語られた。これが出発点です。この時、アブラハムは75歳。既に人の一生分くらいの年月が経っています。そこから彼の第二の人生が始まりました。神様が言われたお言葉が記されています。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

神様は「あなたを祝福する」と言われたのです。これは大きなことです。しかも、この祝福には条件が一切付いていない。「あなたがこれこれを守るなら、私はあなたを祝福する」というような条件付きの祝福ではないのです。しかも、この祝福はアブラハム一人だけが受けるものではない。「あなたは祝福の源となる」と言われています。これも大きなことです。アブラハムによって、すべての氏族が祝福に入る。この「すべての氏族」というのは全人類ということです。こういう破格な祝福をアブラハムは受けたのです。

しかし、神様は、この祝福の言葉だけではなく、もう一つのことを言っておられます。それは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」ということです。これはどういうことかと言いますと、あなたは祝福の源となる。しかし、それは今までどおりの生活を続けておれば、手に入るというものではない。故郷を離れ、親族からも離れ、父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」ということを神様はお求めになったのです。これは考えてみれば、すごい要求だと思います。今まで、生活を保証していたものから離れて、当てのない旅に出て行くのです。そういう時に、出て行く人にとって、いったい何が頼りになるでしょうか。おそらく、それは一つだけ、神様の約束だけが頼りだったに違いありません。つまり、アブラハムはこの時、目に見える支えを頼みとするか、それとも目に見えない神様の約束を信じるかという、二者択一を迫られたということです。

この選択を迫られた時、アブラハムは、目に見えない神の約束を信じるほうを選び取った。アブラハムはこうして、御言葉以外は何の保証もない生活の中へ踏み込んで行きました。このアブラハムの決断を、創世記は次のように語っています。4節です。

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」

神の言葉に従ったのです。このアブラハムとイエス・キリストが、どうつながっているのか。そこが問題になります。ですから、ここからはアブラハムとキリストの関係、旧約聖書と新約聖書の関係ということを心に留めていただいて、今しばらくアブラハムの歩みを追っていきたいと思います。

アブラハムは神様の祝福を受けて旅立ちました。ですから、アブラハムは確かに遊牧民の族長として豊かになり、牛や羊がたくさんになりました。もう与えられることはないであろうと思っていた跡継ぎの男の子も与えられた。しかし、どうでしょうか。彼の生涯の間に、神様が約束してくださった祝福は、すべて実現したでしょうか。そうではなかったのです。

今日は創世記12章の物語に合わせて、新約聖書のヘブライ人への手紙11章の御言葉を読みました。8節以下の御言葉を読んでみたいと思います。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにしてして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」

神様は「この土地をあなたにあげる」と言われたのですが、アブラハムは一生の間、その土地を自分のものにすることは出来なかった。だからヘブライ書は、「アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住んだ」と語るわけです。アブラハムは生涯、約束の土地を手に入れることは出来なかった。けれども彼は、神の約束を信じ続けて、旅人のように生きた。自分の一生よりも神様の約束のほうがスパンが長いのだと信じることが出来たのです。これは、言い換えますと、神の約束というものを自分の一生という小さな入れ物に押し込まなかったということです。これは大事なことだと思います。さて、ヘブライ書は続けて13節から次のように語り始めます。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」

神様に選ばれて「祝福の源になる」と約束されて出て行ったのですが、それは決して楽な生活ではなかった。飢饉に遭ってエジプトに逃れて行ったこともありました。近隣の住民とのトラブルもあった。ああ、もう神様の約束はどうなったのだと、やけくそになって、もといた所へ帰ろうと思えば、帰る機会はいくらでもあったのです。しかし、帰らなかった。どうしてか。この疑問にヘブライ書は「彼らは神様が備えてくださる天の都、天の故郷を熱望していたからだ」と答えています。これはいったい、どういうことなのでしょうか。

アブラハムからずっと後になって、モーセに率いられたイスラエルの人たちは、確かに約束のとおり、40年かかってエジプトから約束の地カナンに入りました。そして、そこに定住して国を建てたのです。やがてダビデの時代になって、イスラエルの国は大変に栄えました。その時に、アブラハムへの約束は実現したのでしょうか。確かにちょっと目には国は栄えていますから、約束は成就したかに見える。しかし、それはほんの一時のことでした。

国が二つに分裂して、北のイスラエル王国も南のユダ王国も滅んでしまいました。いったい神様の約束はどうなったのか。この厳しい歴史の中で、大きな苦しみに遭い、祖国を失ってしまったイスラエルの人々が、いつでも突き当たる問題は、このアブラハムへの約束です。「私はあなたを祝福する人を祝福し、あなたを呪う者を呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という、あの約束は反故にされたのか、忘れられたのか。このことがイスラエルの人々にとって、いつの時代も切実な問題だったのです。

皆さんが旧約聖書を読まれると、至るところにこの問題が、火山の噴火のように噴き出していることに気づかれると思います。マグマのように熱く、どろどろとしたものが、旧約聖書の根底に秘められているのです。なぜなのでしょうか。

じつは、旧約聖書というのは、このアブラハムへの約束が、いったいどうなったのかということを、ひたすら問い続けている書物です。これは決して他人事として考えることの出来ない難問です。この問題を、イスラエルの人々は苦しみ、あえぎながら考えました。アブラハムへのあの破格な祝福があるにもかかわらず、自分たちの国が滅びたのは、自分たちが罪を犯したからだろうと、そういうことを考えます。すると、次に別の問題が浮上します。それなら、神様は罪を犯した私たちを罪の故に捨ててしまわれるのか。いや、アブラハムへの約束は、そういうものではない。私たちは罪を犯したけれど、神様はその罪を赦して、アブラハムへの約束を果たしてくださるに違いない。私たちがこれほどまでに苦しむのは、世界の人々の贖いのためではないかと、このように旧約聖書にはイスラエルの人々の様々な考えが出て来ます。

その中でも、皆さんがイザヤ書やエレミヤ書のような預言書、ヨブ記などを読まれますと、そこに、今の世を超えた、後の世に起こることが、生き生きと語られていることに気づかれると思います。

人間というのは、じつに弱い存在であって、自分の力で神様との約束を守ることは出来ない。罪深い存在である。しかし、神様は、そういう人間を承知の上で選んでくださったではないか。ならば、やがて罪を犯した我々を救うお方が来られるのではないか。そして、この国を変え、人の心を変えて、アブラハムに約束されたような祝福の国を造ってくださるお方が来られるのではないかと、ここまで語ったのが旧約聖書だったのであり、旧約聖書の希望や祈りは、ここに収斂していきます。メシアの到来を待ち望む信仰は、ここから生まれたわけです。

旧約聖書は、ここまで語って、その先は語ってはいません。メシアの到来を待ち望むところで終わっています。そして、今も待ち望んでいるのです。しかし、私たちキリスト教会の信仰は、ここでイスラエルの人々と袂を分かちます。メシアは来られたからです。ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったお方、ナザレの人イエスこそメシアであると告白し、その福音を語り伝える群れが誕生した。だから、新約聖書はアブラハムから始まって主イエスの誕生に至る系図で始まるのです。神様がアブラハムになさったあの約束はイエス・キリストにおいて成就した。

暗い世の中です。極度の豊かさがある一方で、飢えや貧しさがある。殺し合いが絶えない。人間の罪が作り出すこの世界に希望はあるだろうかと、心ある人々は問い続けています。しかし、希望はキリストにあると私たちは信じます。人間のいちばん根深い問題である罪を十字架の贖いによって解決し、死の問題を解決し、私たちを神様の祝福の下にしっかりと建て直してくださった。この希望を、私たちは「福音」と呼んで宣べ伝えるのです。

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

1月21日(日)のみことば

「神よ、神殿にあってわたしたちは、あなたの慈しみを思い描く。」(旧約聖書:詩編48編10節)

「キリストがそうなさったのは、言葉と共に水で洗うことによって、教会を清めて聖なるものとし、染みやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、傷のない、栄光に輝く教会を、御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ書5章26~27節)

キリストが十字架におつきになったのは自分の前に教会を建てるためだったのだと言われています。私たちの救いのためにキリストは十字架につかれたというのは、キリストの十字架の意味の、まさに半分でありまして、その半分だけでやって行きますと、私たちの信仰がいつまでたっても大人の信仰にならないのです。パウロがコリント教会の人たちのことを「あなたがたはキリストとの関係で言えば、いまだに乳飲み子ではないか」と言いましたが、これは信仰が大人ではないということです。

どうして大人になれないのかと言いますと、受けるばかりだからです。皆さんは「受けるより与えるほうが幸いである」という御言葉をご存知でしょう。あれは、じつは信仰のことを言っています。イエス・キリストに救っていただく。それはそれで確かに大事なことですが、救われてキリストの者となった私たちが、教会を建て上げるという、十字架のもう一つの目的に向かって召されている。そういう面がありませんと、私たちの信仰が、どこか自己中心的になってくる。エフェソ書はそれを戒めているのです。