聖書:エレミヤ書29章4~14節・マルコによる福音書13章28~37節

説教:佐藤 誠司 牧師

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。あなたがたに将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ書29章11節)

「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコによる福音書13章29~31節)

 

今日はマルコ福音書13章の最後の物語を読みました。次の14章からは、主イエスの受難物語が始まります。過越しの祭りが近づいて、主イエスを殺す計画が現実のものとなり、最後の晩餐、ゲツセマネの祈りに引き続いて逮捕、裁判、そして十字架へと一気に突き進んでいきます。

今日の物語は、その受難を前にして語られた主イエスのお言葉が記されています。

「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」

今の時を見分けなさい、と主イエスは言っておられる。しかし、それは上辺の時のことではありません。主イエスが言っておられるのは、上辺のことではない。自然現象や社会現象の背後にあるものに目を注ぎなさい。すべてのものを動かしているのは、どなたであるか。そこに目を注ぎなさいと言っておられる。だから、主の言葉はこのあと、こう続くのです。

「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

神がお造りになったものは皆、滅びる。造られたものに永遠ということは無いのだと言っておられる。聖書の一番初めに何が書いてありますか? そう、天地創造の物語が語られていrます。どうしてあれが最初にあるかと言いますと、一番大事なことだからです。神が天地世界とそこに住むすべて命を造られたことが、すべてのことの根本になっている。ですから、創造物語は聖書の一番初めに置かれているのです。これは裏を返せば、永遠であるお方はただ神のみであって、造られたものは、すべて滅びる、ということです。

滅びるとは、どういうことでしょうか? 興味深いことに、ここのところを昔の文語訳聖書は次のように訳しておりました。

「天地は過ぎゆかん、されど我が言は過ぎ行くことなし。」

滅びるとは、過ぎ行くことだったのです。走る列車の窓から景色を眺めますと、一つ一つのものが目の前を次々と過ぎ去っていきます。「畑も飛ぶ飛ぶ、家も飛ぶ」という童謡の歌詞がありますが、あれが過ぎ行くということです。いったい、誰の目の前を過ぎ去っていくのでしょうか? もちろん、私たち人間の目の前ではない。神様の目の前から過ぎ去っていく。過ぎ去っていったものは、過去のものになってしまいます。神様にとって過去のものになるわけです。神様にとってみれば、過ぎ去った風景のようになって、忘れ去られてしまう。これが主イエスの言われる「滅び」の真相です。主イエスが言われるとおり、すべてのものは、滅びます。

しかし、神様というお方は信じる者を忘れてしまわれるようなお方なのでしょうか。たとい小さい者であっても、信じる者をご自分の前から過ぎ行かせてしまわれるようなお方でしょうか。私はそうではないと思うのです。どうしてそう言えるかと言いますと、主イエスもしばしば引用なさった出エジプト記3章の言葉がありますね。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

これは主なる神がモーセに出会ってくださったときに言われた言葉です。神様はモーセに向かって自己紹介をしておられるのです。モーセにとってみれば、アブラハムもイサクもヤコブも過去の人です。にもかかわらず、神様はここで「私はアブラハムの神でした」とは言っておられない。「私はかつてアブラハムの神でした」などどいうふうに、過去形で言っておられるのではなく、「私は今もなおアブラハムの神であり、今なおイサクの神であり、ヤコブの神である」とハッキリ現在形で言っておられるのです。

これはどういうことかと言いますと、神様は、とっくの昔に塵に帰った彼らを今なお御手をもって捉えておられるということです。神様はアブラハムの手を離しておられない。イサクの手を、ヤコブの手を、離しておられない。滅びの底へと過ぎ行かせない。過ぎ去らせておられない。しっかりと彼らの手を捉えて、ご自分の前に居らせてくださっている。

アブラハム、イサク、ヤコブ。これらの人々に共通するのは、いったい何でしょうか? 立派な行いでしょうか? 違うでしょう。もし立派な行いが条件であるなら、ヤコブは入っていなかったかも知れません。では、彼らに共通するのは何であったか。それは神の言葉を聞いて信じたということ。御言葉に自分を委ねたということです。御言葉が大事なのです。だから、主イエスは言われる。

「天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は決して滅びない。」

すべてのものが滅びていく。神様の前から過ぎ去っていく。その中で、ただ一つ、滅びの流れに逆らうようにして立ち得るものがある。それが私の言葉なのだと主イエスは言われるのです。だから、私の言葉に立ちなさい。流れの中で、ほかのものにすがってはならない。私の言葉にすがりなさい。私の言葉にすがって立ちなさい。

今日はマルコ福音書に併せて、旧約のエレミヤ書29章の言葉を読みました。ここには、あまりの不幸のために、心が鈍くなった人たちが出てまいります。それは国が滅ぼされて、捕虜となってバビロンに連れていかれたユダヤの人々です。今日は4節から読みましたが、1節にこう書いてありますね。

「以下に記すのは、ネブカドネザルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。」

その手紙文面が4節から書かれているわけです。紀元前597年にユダ王国がバビロニアに滅ぼされて、主だった人々が皆、捕囚としてバビロンに連行されて、あとに残ったのは年寄りや子どもたち、力のない人たちだけであった。国が滅ぼされて、捕虜になって敵国に連れて行かれる。もう故郷を再び見ることもあるまいと思われる。それだけでも大変な不幸ですが、ユダの人々にはさらに深刻な問題がありました。それはどういうことかと言いますと、今まで自分たちが信仰だと思ってきたものが、土台から崩れ去ったのです。

ユダヤの人たちというのは、何といっても、出エジプトが原点です。昔、我々の先祖はエジプトで奴隷であったけれど、神様の御手によって救い出されて、約束の地であるカナンの地に連れ戻していただいた。ここで我々は神の民となり、神様は我々の神となってくださった。そのことを土台として生きてきたのに、その土台が吹っ飛んでしまったのです。我々は神様に見捨てられたのだろうか。本当に神様は私たちのことを覚えておられるのだろうか。我々が信じてきたことは無駄ではなかったのか、と、次から次へいろんな悩みや苦しみが心の中に沸き起こって、心が鈍くなっていった。神様の御心が分からなくなっていったのです。

そんな人々に、預言者エレミヤを通して神様が語りかけてくださったのが、この4節からの言葉です。最初に何と言われていますか?

「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。」

ここを読みますと、ユダの人々をバビロンに捕囚として送ったのは、私なのだと神様が言っておられることが分かります。これはユダの人々にとって大変ショックなことだと思うのです。神様ご自身が我々の国を滅びへと導き、我々をバビロンへと送ったのか、と絶望したかも知れません。しかし、国が滅びたとか、捕虜にされたとか、バビロンに連行されたというのは、目に見える現実ですね。現実というのは信仰のない人達にも見えるのです。ところが、神様は今、ユダの人たちに別のものを見ることを求めておられるのです。それは現実の背後にある神様の御心です。このように、歴史の現実の裏側には、信仰を持って見なければ見えてこない御心があるのです。それを、神の民であるあなたがたは、今、見なさい、と神様は言われる。だから、心を鈍くしてはならない。

では、この歴史的な不幸の背後にある神の御心とは何であるのか? それは11節に記されています。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。あなたがたに将来と希望を与えるものである。」

大きなことが言われていますね。今、ユダの人々は本当に大きな不幸のどん底にあります。悲しみの中にある。どうしていいか分からないほどの試練の中にある。自分たちの将来はどうなるのか。いくら考えても道が見えない。どうして見えないか。心が鈍くなっているからです。

しかし、神様は真実なお方です。人の目にはこれ以上の不幸はないとさえ思われる、この出来事によっても、ご自分の計画を成就していかれる。その計画は平和の計画であって、災いの計画ではない。あなたがたに将来と希望を与えるものなのだと言われるのです。さあ、さらに12節です。

「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに尋ね求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うだろう。」

心を鈍くするのではなく、目を覚まして祈りなさい。主イエスがおっしゃったことと全く重なりますでしょう? では、目を覚まして祈るとは、いったい、どういうことなのでしょうか? 祈るというと、私たちはつい、お祈りの言葉だけが祈りだと思ってしまいますが、聖書がいう「祈り」とは、そういう狭いものではない。神を信じる人の生き方とか生活そのものを、聖書は「祈り」と呼ぶ。私たちは週の初めの日に集まって礼拝します。これも祈りですし、礼拝によって始まる1週間も、これまた祈りです。だから、エレミヤ書の5節以下に、神様は、ユダの人たちが苦難の中でどういう態度で生きていったらよいかということを懇ろに語っておられます。

「あなたがたは家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町の為に主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」

私は、これは、敵を愛し、迫害する者のために祈れという主イエスのお言葉を彷彿とさせる、素晴らしい言葉だなあと思います。国は滅ぼされ、自分たちは家族と引き離され、捕虜となっている。敵の国へ連れて来られた。そんなとき、どんな気持ちがするでしょうか? もう、昔のことを思ってはあれこれと悔やみ、将来のことを思っては不安になって、生活は乱れに乱れるでしょう。やけくそになるのです。

ところが、神様は、そういう生活は、神を知らない人間の生き方ではないかと言われる。あなたがたは、ちゃんとした生活をしなさい。家を建て、妻をめとり、果物の木を植える。息子、娘をもうけて、育てする。これは、あの故郷で、神の恵みの中にあったあのときと同じ生き方でしょう? 今は大変なときだから、非常時なんだからと言って、もう普通の生活なんかしたらいかん、というのが我々凡人の考え方です。肩怒らせて、眉を吊り上げて、悲壮な面持ちで、身構えて、夜もおちおち寝てられない、なんていうのとは違います。家を建てて、家族を愛して、支え合って生きなさい。畑を作って耕し、その実りを感謝して食べなさい。これ、何ですか? 神様を信じる人の生き方でしょう? 満たされた境遇の中でそうするのではありません。敵の国で、捕虜の身分で、そうするのです。これは、人間だけを見ていたら出来ません。神様を見ていないと、出来ない生活です。今の不幸な境遇は、ほかでもない、神様が私たちに与えたものなのだ。今、私の目には不幸としか見えないこの境遇は、神様の計画の内にある。災いの計画ではなく、平和の計画である。将来と希望を与えるものである。

エレミヤの言葉は、そのまま主イエスのお言葉に重なります。あなたがたは心を鈍くしてはならない。目を覚まして祈りなさい。神を信じる生き方に立ち帰りなさい。私の言葉に固く立って、動かされないようにしなさい。この御言葉を心に深く刻み付けて、しっかりと歩ませていただきたい、そう切に願うものです。

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

8月6日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に、あなたのまことを告げ知らせます。」(旧約聖書:詩編89編2節)

「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。」(新約聖書:使徒言行録1章13節)

今日の新約の御言葉は主イエスの昇天の後、弟子たちがとった行動を描いています。泊まっていた家とは、どこのことなのでしょうか? 彼らはほとんどがガリラヤ出身の人たちですから、当然ながら、エルサレムに自分の家はありません。誰かの家を借りて、泊まっていたわけです。さあ、それはいったい誰の家であったか。一つ、考えられることがあります。「上の部屋に上がった」と書いてあります。上の部屋とは、つまり「二階の部屋」ということです。

エルサレムの家で、二階に部屋がある家といえば、あの最後の晩餐が行われた家なのです。ルカ福音書の22章7節以下に、それは出て来ます。あの物語を読みますと、この家は主イエスが最後の晩餐のために、あらかじめ用意しておられた家であったことが分かります。その同じ家に弟子たちが泊まって、しかもあのときと同じ二階の部屋に集まっていたというのは、とても象徴的なことではないかと思います。彼らは集まるたびに、この部屋で主イエスが語ってくださった言葉を思い起こしたことでしょう。。

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」

「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

これらの言葉は弟子たちがこの家に集まるたびに、彼らの心に刻まれていったに違いありません。そしてこれが教会の基礎となっていくのです。